「俺の進路の心配より、おまえの方は大丈夫なのか。昨日、高等部への進級試験があったんだろう」 からかうような口調で、妙なところで お硬い星矢の相手をしていた氷河が、ふいに少しだけ その表情を真面目なものに変えて、2学年下の後輩に尋ねる。 そういうシステムの中に身を置く彼等には、学内考査の成績は、それこそ死活問題だったのだ。 「ケアレスミスがない限り、どの教科も満点だと思うんだけどなー」 うってかわって軽い口振りで答えてきた星矢に、氷河は渋面を作ることになった。 「おまえは、そのケアレスミス克服がいちばんの課題だろうが。よほどのことがない限り、極秘特待生待遇で高等部に行けるのは、成績トップの一人だけだぞ」 「あ、今年は多分、二人」 「なに?」 「外部から一人来るんだ。今日、多分その内示が出る……と思う」 「異例だな」 意外そうな顔で低く呟いたのは紫龍だった。 中高一貫教育の全寮制を採っているA校は、高等部からの途中入学というのは、原則ではできないことになっている。 星矢はもちろん、紫龍も氷河も、A校に入学したのは義務教育の途中からだった。 「小学校卒業時の成績があてにならないことを悟ったんだろ。ウチのガッコも他の2校同様、T大合格者数は減ってきてるし」 そう言ってから、星矢は、少し心配顔になって、時計塔の時計に視線を投げた。 「俺の幼馴染みなんだ。御三家に、テストの成績がよければ、授業料や入学金タダ、すべての費用をガッコが面倒見てくれるT大合格率アップのための闇ルートがあること知らなくてさ、公立の中学出て就職しようとしてたとこを、俺が誘った」 「幼馴染み……」 星矢の幼馴染みということは、異例の中途入学者は、やはり両親がいないか、いても親の役目を果たせない禁治産者――ということなのだろう。 星矢はこの学校に入学するまで養護施設を2、3箇所転々としていたから、その中のどこかで知り合った“お仲間”に違いなかった。 「今日3時に、その結果が……あ、瞬!」 時計塔の時計の針が3時半を示す。 中等部の校舎の方から、A校の制服ではないジャケットを着た小柄な少年が駆けてきて、その勢いのまま星矢の首に飛びついたのは、ちょうどその時だった。 「星矢! 僕、高校行けるみたい! 嬉しい! ありがとう、星矢!」 「そっか。おまえなら大丈夫だろうと思ってたけど……よかった」 寒風吹きすさぶグラウンドを一直線に突っ切って、星矢に抱きついてきた その少年が、どうやら来年度のA校高等部1学年の二人目の極秘特待生であるらしい。 その段になって氷河と紫龍は、星矢が彼等をこの場に呼び出した本当の目的が、A校四人目の特待生を“お仲間”に紹介することだったという事実を知ったのである。 星矢が事前にその件を二人の先輩たちに知らせなかったのは、万一 内示の結果が芳しいものでなかった場合を考慮してのことだったのだろう。 極秘特待生は、基本的に、各学年の最優秀成績者一人だけということになっている。 一学年に二人目の極秘特待生が認められたということは、異例の特待生候補者の転入試験の成績が全科目満点もしくは それに近い成績だったということを示していた。 まもなく共に3年生になる紫龍と氷河もその点は同じで、彼等は学内での試験の成績は常にほとんど満点。 対照的に、現1年生と3年生には厳しい特待生規定をクリアできる生徒がいなかったため、極秘特待生は在籍していなかった。 「星矢が言っていた御三家というのは、女子御三家のことか?」 ここの校舎から出てきたのだから、そうでないことは明白だったのだが、氷河としては、そう言わずにはいられなかったのである。 むしろ、そう言うのが礼儀なのではないかとさえ、氷河は思った。 「女子御三家にも闇ルートがあるという話は聞いたことがないが」 ジョークと承知の上で、紫龍が――こちらは一応、小声で――氷河に答えてくる。 要するに、星矢の幼馴染みは、そういうジョークの種になり得るほど、少女めいて可愛らしい面立ちと華奢な肢体の持ち主だったのだ。 「うん、で、瞬。こっちが紫龍と氷河。新年度から最上級生になる、俺たちのタダ飯仲間だ」 「あ、失礼しました。はじめまして。僕、瞬です。よろしくお願いします!」 授業料の心配をせずに高校に進学できることが決まって興奮気味なのか、頬を少し上気させた その様子が、ますます少女めいている。 やっと星矢の首に絡めていた腕を解いた その美少女は、旧友への自分の振舞いに恥じ入ったように慌てた様子で、氷河と紫龍に深々と頭を下げてきた。 瞬の丁寧な挨拶に、紫龍がまともな反応を示すことができなかったのは、彼の横に立っていた もう一人の特待生が、瞬をむっとしたように睨みつけたまま微動だにしなかったからだった。 「どうしたんだ、氷河。一目惚れか?」 紫龍は氷河のジョークに乗ってやったのに、氷河は紫龍のジョークに苦笑の一つも返してこなかった。 優に2分、意味不明な沈黙を作ってから、氷河は不機嫌な声でやっと瞬に話しかけることをした。 「おまえは、貧乏で眼鏡も買えないのか?」 「は?」 やっと口をきいたと思ったら、氷河の発言は、その沈黙より意味不明。 何を訊かれたのかを理解しかねているらしい瞬の代わりに、星矢が氷河の支離滅裂の訳を問い質すことになった。 「おまえ、急に なに言い出したんだ? 眼鏡って何だよ」 「俺を見て無反応な女なんて、目が悪いんだとしか思えないじゃないか。いや、女に限らず、男だって、俺の顔を見たらまず敵意や羨望の念を抱くのが普通だ」 「いるだろ、おまえに無反応の女も男も。おまえ、自意識過剰の自信過剰なんだよ」 言葉にはせず仕草で『こんなのの相手はしなくていい』と瞬に示した星矢を、氷河が やはり不機嫌な顔で睥睨する。 「俺は事実に基づいて、そこから導き出される当然の結論を言っているだけだ。おまえは知らないだろうが、寮の部屋にある俺のPCには、毎日 見知らぬ女共からのメールが 業者のスパムより大量に嫌がらせのように送られてきてパンク寸前なんだぞ」 その“事実”の報告は、はたして自慢なのか泣き言なのか。 いずれにしても、普通の男子中高生なら、それは確かに羨むような事態だった――かもしれない。 が、あいにく星矢は普通の男子中高生ではない。 彼は羨望どころか、大間抜けの粗忽者を見る目で、氷河を見ることになったのである。 「おまえ、どこでアドレス洩らすなんて間抜けなことしたんだよ」 彼等が学校からの貸与PCで使用しているメールアドレスはすべて、学校側から与えられているものだった。 主に学校や家族からの連絡を受けるため、生徒間のやりとりのために、学校側が各生徒に割り当てたもの。 それは、氷河自身が知らせた相手からでなければメールが届くはずのないアドレスだったのだ。 そこに大量のメールが届くということは、氷河自身が自分のアドレスを外部に洩らしたことになる。 「俺が洩らしたわけじゃない。ブルートフォース攻撃で、割れてしまったらしい」 「ありゃりゃ。それはまあ気の毒な。俺たちのアドレスって、察しやすいんだよな。俺のアドレスが seiya-A@A-junior-high.ed.jp だから、おまえのアドレスは hyoga-A@A- senior -high.ed.jp あたりか?」 「ご明察。業者のスパムは学校のフィルタリングソフトがブロックしてくれているらしいんだが、発信元が個人所有のアドレスからのメールは そのブロックもスルーだからな。おまけにその見知らぬ女たちからのメールはほとんどが写真添付メール。おかげで まともなメールが女共の自己紹介メールに埋もれて、先週、要返信の学校からのメールを削除してしまった」 氷河の“事実”の報告が、自慢というより被害の申告じみてくる。 星矢はさすがに彼に同情心を抱くことになった。 「群らがってくる女の子たち、みんな、振ってんのか?」 「どれも知らない相手だ。どこかで俺の顔だけを見て、何か勘違いして、人の迷惑を顧みず図々しい真似をしてくれる馬鹿共。たまに外に出ると、俺のあとをつけてくるストーカー女もいるぞ。外の連中はみんな暇を持て余しているらしい」 「まあ、今時、学歴や成績にこだわってる中高校生なんて、むしろ少数派だからな。こういうガッコに入学させられちまった生徒とか、俺たちみたいに学校に行きたくても行けない奴等とか。それ以外の大部分の青少年はさ、もっと気楽に人生を生きてんだよ。努力したところで自分の人生がどう変わるわけでもない……って、達観したつもりになってさ。ああ、そんなふうに普通に恵まれてる奴等には、見てくれって結構重要なことなのかもな。うまく使えば美貌はメシの種になる」 「俺は恵まれた人間じゃないからな。女のアクセサリーになるつもりはない。顔じゃなく、中身を見てくれる相手なら考えないこともないが」 「その中身がないくせに、なに言ってんだよ。おまえって、我儘で、傲岸で、典型的な“顔だけ男”じゃないか」 「彼は我儘で傲岸な人なの?」 飯の種になる美貌というのなら、その場にいる四人の中で最も大量の米を購入できそうな美貌の持ち主が、にこにこ笑いながら茶々を入れてくる。 力強く頷く星矢を無視して、氷河は瞬の真正面に立ち、もう一度 四人目の極秘特待生に尋ねたのだった。 「本当に俺の顔を見て、何も感じないのか」 「え?」 瞬の周囲には、外見を重視できるほど“普通に恵まれている人間”がいなかったのだろう。 だから、瞬には、氷河が“顔”にこだわる理由がわからなかったのだ――多分。 氷河の質問への返答に窮したらしい瞬は、結局、 「どこか普通の人と違うの?」 と、救いを求めるように、星矢に尋ねることになったのである。 途端に、星矢は声をあげて げらげら笑い出すことになった。 「瞬。それは麗しの氷河様に対して失礼ってもんだろ。氷河様は、おまえに この綺麗な顔にびっくりしてほしいんだよ」 「え……」 「びっくりしてほしいんじゃない。びっくりするのが普通だと言っているんだ」 瞬は、その段になってやっと、氷河の意図(希望?)を理解したらしい。 彼は、慌てて首を大きく横に振った。 「あ、もちろん、とても綺麗なお顔をしてらっしゃると思います。でも、あの、綺麗なお顔って、シンメトリーで、歪みや崩れたところがないでしょう。だから、印象に残らないっていうか、個性がないっていうか――」 「この!」 2学年も下の後輩(になるはずの生徒)が、真顔でフォローになっていないフォローを口にする。 ほとんど反射的に瞬を怒鳴りつけようとした氷河を遮ったのは、またしても星矢の笑い声だった。 「おまえ、中身で勝負したいんだろ。中身を否定されたわけじゃないんだから怒るなよ。矛盾してるぞ」 星矢の指摘は至極尤も。 氷河は外見ではなく、彼の中身を見てくれる人間を欲していた。 だが、氷河にとって、『人と知り合う』ということは、『自分の外見に目をみはった人物を、“人の外見に気をとられる人間”と軽んじること』だったのだ。 これまで彼が経験してきた ほとんどの出会いがそこを起点にしていた――氷河は そういうパターンに慣れていた。 氷河は瞬に、いわゆるパターン破りをされたことになり、氷河はそれが気に入らなかったのである。 そもそも、シンメトリーで歪みや崩れたところがない顔立ちというのなら、瞬こそが ただ瞬の場合は、瞳が歳不相応に大きくて、それが強く印象に残る。 自分は瞬を印象的な容姿の持ち主と感じているのに、瞬は自分に対して同じ感懐を抱いていない。 氷河には、それも癪の種だった。 すっかり お冠状態の氷河を、星矢が呆れた様子でなだめてくる。 「怒んなって。瞬は可愛い後輩になるんだから」 「女が俺の後輩になれるか!」 「おまえ、そのくだらないジョークやめろよ。なれるに決まってるだろ。瞬は男なんだから」 「嘘だろう」 わかっているのに、氷河が あえてそう言ったのは、瞬のパターン破りに腹が立ったせいであったが、実はそれだけではなかった。 氷河(の顔)には無反応な瞬が、紫龍に対しては顕著な反応を示している。 瞬は先ほどから、氷河の隣りに立つ もう一人の先輩に、ちらちらと視線を投じ続けていたのだ。 紫龍もまた並以上の容姿の持ち主だと認めることにはやぶさかではなかったが、自分が彼に容姿で劣っているなどということを、氷河はこれまで一度も考えたことがなかった。 氷河には、より人の目を引くのは紫龍より自分の方だという自負があったのである。 「瞬。おまえは怒ってもいいぞ」 意地を張って“くだらないジョーク”を続ける男を親指で指し示し、星矢は瞬に促した。 瞬が、笑って首を横に振る。 「慣れてるから」 「慣れてるからって、諦めんなよ。ここで一発、男の証明をかましてやれ」 「どうやって? まさか、今ここで服を脱ぐわけにはいかないでしょう」 「じゃあ、男の証明は夏のプールまでお預けかあ」 と、星矢がぼやいた時だった。 それまで ほとんど傍観者の立場を維持していた紫龍が、突然 素頓狂な声をあげたのは。 「思い出した……! 俺が8歳までいた横浜の施設に、ひと夏だけ預けられてきた女の子みたいに綺麗な泣き虫――あ、いや……」 言わなくていいことにまで言及してしまい、少し気まずい顔になってしまった紫龍に、瞬は気を悪くした様子もなく微笑んだ。 「僕、憶えてます。紫龍」 瞬のその言葉に虚を衝かれたような顔になったのは、紫龍ではなく氷河の方だった。 紫龍が8歳だったというのなら、その時 瞬は更に幼かったはずである。 その瞬が当時の紫龍を憶えているということは、つまり紫龍が(氷河とは違って)それほど印象的な少年だったということになるのだ。 「ガキの頃のこいつは、歪みと崩れがてんこ盛りの印象的なツラの持ち主だったわけだ」 「そんなんじゃありません!」 氷河の嫌味を、瞬は言下にきっぱり否定した。 そして、すぐに優しい口調に戻る。 「あの年は、僕のいた施設が改築をすることになって、その間、子供たちは他の施設に別々に割り振られて預けられていたの。僕は、兄さんと離れてるのは初めてのことで、心細くて、毎日泣いてばかりいた。みんなが僕を泣き虫ってからかう中で、紫龍だけはいつも優しかったから……」 瞬が、花恥ずかしい乙女のように そう言って、瞼を伏せる。 「あ、いや。あそこにいた奴等はみんな、見慣れない美少女にちょっかいを出したかっただけだったんだと思うぞ。だが、まあ、みんなガキだったから――」 昔の善行を暴露されて慌てる紫龍の横で、氷河の不機嫌の色が更に濃くなっていく。 星矢に、 「こういうのを『中身で勝負』つーんだよ。おまえも紫龍を見習ったらどうだ」 と、とどめをさされるに及んで、氷河の不機嫌は頂点に達してしまったのだった。 すっかり“顔だけ男”にされてしまったことも不愉快だったが、『では、おまえの中身はどれほどのものなのだ』と問われると、氷河は自信をもって答えられる“中身”を持っていなかったのだ。 紫龍のように優しいわけでもなく、それどころか、もし自分が当時の紫龍の立場に置かれたら、自分は率先して瞬をいじめていただろうと確信することさえできる。 氷河の中には、星矢の言う通りに、自分が我儘で傲岸な男だという自覚があった。 だが、彼は、その欠点を改めようとは思わなかったし、改めることもできなかったのである。 氷河は、どんな些細な根拠によってでも、できるだけ多くの人間を見下していたかった。 そうしないことには、親も金も家もない貧しい孤児は そのプライドを保つことができなかったのだ。 “傲岸”は、氷河にとって必要悪と言っていい悪癖だった。 「ほんとにありがとう、星矢! これからよろしくね!」 進学できることが よほど嬉しいのか、『ありがとう』と『よろしく』を幾度も繰り返して、瞬は彼のいる養護施設に帰っていった。 「おまえも学校で高校生してられることを、あれくらい素直に喜べよ」 嬉しくて普通に歩いていられないらしく 校門を出るなり駅に向かって駆け出した瞬を見送りながら、星矢が氷河を言う。 ほぼ同じ境遇にありながら、自分とは対照的に幸せそうな人間の後ろ姿を、氷河はいつまでも無言で睨みつけていた。 |