現在通っている中学の卒業式を待たずに、瞬はA校の寮に移ってきた。 「いくらでも我儘をきいてくれるんでびっくり。養護施設の先生も予定より早く空きができて助かったって言ってた。出席日数は足りてるし、中学の方は あとは卒業式に出るだけなんだ。クラスメートに本当のことを言えないのがつらいけど、こればっかりは仕方がないね」 「何か要望があったら、遠慮せずに とりあえず言ってみるといいぜ。大抵叶えてもらえるから。確実にT大に合格できる生徒は、学校側にとって金の卵、大事な財産なんだ。いい成績とるのが俺たちの仕事だと思えばいい。で、ガッコは成果を挙げてる従業員に給与を払うわけ」 瞬が自分の進学を喜んでいるのと同じくらい、星矢も自分に同学年の仲間ができることが嬉しいらしい。 星矢は、いつもの彼からは想像ができないほど甲斐甲斐しく瞬の面倒を見てやっていた。 初対面の時の気まずさも手伝って、氷河はそんな二人を遠巻きに眺めていることしかできなかったのだが。 受験シーズンが佳境に入ると、生徒たちの動きは慌しくなった。 受験を終えた3年生たちは寮を出ていき、在校生たちも、今年の入試問題の解説を始めた外部の予備校やセミナーに出掛けていく者が増える。 やがて そのまま春休みに突入、寮に残っているのは、家族のいる自宅より寮の方が好きな一部の生徒と、帰る家を持たない極秘特待生たちだけになった。 その日その時、氷河は、図書館のラウンジのスキャナーで、50ページになんなんとする資料のスキャニングを終えたところだった。 それでなくても寮に残っている生徒は少ない。 図書館のラウンジに人影はなく、ラウンジからガラスの壁越しに眺めることのできる閲覧室には、カウンターに司書が一人と、本の貸し出し処理をしてもらっている生徒が一人いるだけだった。 その生徒が、瞬だったのである。 やがて瞬が、あまり学校の教科には関係のなさそうな本を2、3冊抱え、閲覧コーナーから 春が来て浮かれている小鹿のような足取りでラウンジに出てくる。 いったい何がそんなに嬉しいのか――。 氷河が、閲覧室を出てきた瞬を掴まえたのは、決して好意から出たことではなかっただろう。 「おまえは、何がそんなに嬉しいんだ?」 「はい?」 タダ飯仲間に、突然 腕を掴みあげられ、そんなことを訊かれた瞬は、当然のことながら かなり驚いたようだった。 2、3度 瞬きをしてから、軽く首をかしげる。 そして、傾けた首を完全に垂直には戻さないまま、瞬は氷河に問われたことに答えてきた。 「勉強できるって、すごく嬉しいことでしょう? それに僕、学校っていう場所が好きなんです。知識を広げることや、友人を作ることが、これほど奨励されている場所って、他にないと思う。実社会でも色々なことは経験できると思うし、学ぶこともできるとは思うんですけど、学校って特殊な場所だから。ここでしか学べないこともあるし、周りにいるのは同年代の生徒たちだけ、基本的に平等だっていうことも、外では経験できないことで……。それに、僕はまだ未熟な子供だから、独学での勉強には限度があるし、偏りも出る。でも、学校でなら、先生の指導で効率的に知識を深められる。嬉しいのは当然でしょう? それもこれも全部 星矢のおかげ。星矢に こんな道があることを教えてもらえなかったら、僕は高校に進学できなかった」 「おまえがいい奴だったからだろう。嫌な奴だったら、いい情報を知っていても教えないもんだ」 「え……」 氷河には、瞬を褒める意図は全くなかった。 事実そうなのだろうと思ったから、そう言っただけだった。 氷河は基本的に他人を褒めることをしない男だった。 「僕が“いい奴”? 普通ですけど……」 瞬は、謙遜しているつもりは全くないようだった。 瞬もまた氷河と同じように、事実そうだと思っているから、そう言っただけらしい。 そう告げた瞬の顔には、ゆっくりとまた 嬉しそうな笑みが広がってきた。 「もし僕が少しでも“いい奴”なのなら、それは僕の周りの人がみんないい人たちだったからですよ」 「そんなわけないだろう!」 二人の他に誰もいない図書館のラウンジに、氷河の声が木霊する。 なぜ自分は、こんなところで、こんなことで、声を荒げているのかと、自分が発した声の残響に、氷河はぎょっとしたのである。 もちろん、氷河の怒声は、氷河自身だけでなく、瞬をも驚かせることになったらしい。 氷河の剣幕に 「どうしてそんなわけないの」 「俺たちの周囲の人間が皆 いい奴だったわけがないだろう。俺たちに帰るべき家がないのは なぜなのかを考えたことがあるのか? 親が勝手に死んだか、親に捨てられたかしたからだ。人は誰も救いの手を差しのべてくれず、かろうじて そういう子供を保護する法律があるだけだったからだ。親が生きているってだけで、どんなに馬鹿で性悪なガキでも帰る家を持っているのに、なぜ俺たちだけが――」 「それはそうかもしれないけど……。でも、今はそんなに悪い状況ではないでしょう。僕たちは こうして、本当なら入れなかった私立の学校に入ることができてて、衣食住の心配もなく生きていられる。これは僕たちだけだったら実現しなかった状況だよ。僕たちを助けてくれる“いい人”たちがいたからこそのことでしょう」 「これは“いい人”のおかげなんかじゃない。俺たちの努力のたまものだ。おまえだってそうだろう。金も親も家もない俺たちみたいなガキは、テストの成績やスポーツで人の上に立って、自分のプライドを保つしかないんだ」 氷河には、容姿もそのための――プライドを保つための―― 一要素だった。 「そういう部分が全くなかったとは言いませんけど……」 明るいばかりだった瞬の声と瞳が、初めて静かに曇る。 その様を見て、やはり瞬も もっとも瞬は、いつまでも氷河の心を安んじさせておいてくれなかったが。 「氷河は、この世界や自分の周りにいる人たちが嫌いなの?」 「嫌いだ。この世の中も、誰が決めたのかわからない運命も、恵まれている奴等の無神経も、ひねて卑屈になったり傲慢になったりする俺自身も、何もかもが嫌いだ」 『おまえも本当はそうなんだろう』と、言葉にはせず、瞬に言う。 だが、瞬は 瞬は、左右に軽く首を振ってから、氷河を見上げ、見詰め、そして言った。 「できるだけたくさんの人やものを好きになった方がいいですよ。特に自分のことは好きになった方がいい。どうしたって長く付き合わなきゃならないんだから」 「長く付き合わなきゃならないから? そういう理由でか」 そんな理由があるかと、ほとんど反射的に問い返した氷河に、瞬がくすりと小さく笑う。 笑って、瞬は頷いた。 「そういう理由で。嫌いなものと長く付き合うのは不幸だもの。自分も、自分の生きている世界も、そこにいる人も、できるだけ好きになった方がいい。好きな人や好きなものと長く一緒にいられるのは幸せなことだから。他の誰でもない自分の幸せのために、人はできるだけ多くのものを好きになった方がいいんです」 「おまえはそうしているのか。誰でも何でも見境なく好きになって」 氷河の蔑むような口調に、瞬が沈んだ声で答えてくる。 「ええ。何もかも嫌って憎んで生きていけるほど、僕は強い人間じゃなかったから……」 抑揚のない声。 その時になって氷河は初めて、瞬の瞳が潤んでいることに気付いたのである。 「きついこと言わせますね……」 瞬の瞳からは、まだ涙はこぼれていなかったが、その声は既に泣いていた。 『俺が8歳までいた横浜の施設に、ひと夏だけ預けられてきた女の子みたいに綺麗な泣き虫』 氷河は、ふいに、紫龍が言っていた言葉を思い出したのである。 『自分も、自分の生きている世界も、そこにいる人も、できるだけ好きになった方がいい』は、泣き虫だった子供が笑えるようになるために、必死に生き、懸命に考えて辿り着いた ただ一つの術だったのかもしれない。 それを責めて――つらく当たって、いったいどんな益があるのかと、氷河は、自分の“優しくなさ”に臍を噛んだ。 |