1年に1、2度 降るか降らないかの雪。 東京は珍しく雪が積もり、城戸邸の庭はうっすらと雪化粧をしていた。 『雪化粧』とは、よく言ったもんだ。 これが豪雪地帯のことだったなら、世界は厚い雪の布団をかぶせられたようになり、そこに暮らす者たちの生活にも支障が出て、誰も『雪化粧』なんて優雅な表現を楽しんではいられないだろう。 シベリアでなら、積もった雪はすぐに凍りついて、それはもはや雪ではなくなる。 暮らしの障害にならないほどの雪が庭先に積もったり、日々の生活に直接の関わりをもたない遠くの山が白い衣装をまとう様だから、人はそんな光景を『雪化粧』なんて優雅な言葉で呼ぶことができるんだ。 ロシアでは、暖かい冬のことを『腐った冬』と言う。 中途半端に寒い冬なんて、冬の風上にも置けないというわけだ。 だが、東京では雪は滅多に見られないものだから、俺は“化粧”程度の雪で、北の国のことを懐かしむしかない。 こんな中途半端な雪では――その上、東京の雪は湿気を多く含んでいるから、直接触れる気にもならない。 だから、その日、俺は、城戸邸のラウンジの大きな窓越しに、優雅な『雪化粧』を聖闘士らしからぬ優雅さで眺めていたんだ。 そんな時だった。 雪景色よりポテトチップスの方に関心を寄せているようだった星矢が、何の前触れもなく突然、 「おまえの初恋って、どんな代物だったんだ?」 と、俺に訊いてきたのは。 「俺の初恋? そんなものを知ってどうするんだ」 「いや、瞬なのかなー……って思っただけのことなんだけどさ」 「……」 俺は、この冬に瞬とそういう仲になり、先日、その事実を星矢たちに公言したばかりだった。 星矢は、俺が雪景色を見て何かを――シベリアの初恋の人でも懐かしんでいると思ったんだろうか。 ラウンジには、星矢だけでなく、紫龍も瞬もいた。 瞬の前でその話をするのは得策かどうかを、俺はまず第一に考えたんだ。 いや、それ以前に、俺は多分、俺の初恋は 瞬は子供の頃から気になる存在だったが、それが恋だったかと言われると違うような気もしたから。 「違う……だろうな」 声に出したつもりはなかったんだが、俺はその考えを声にしてしまっていたらしい。 口の中でばりばり言わせていたポテトチップスをごくりと飲み込んだ星矢が、今度は俺の初恋に食いついてくる。 「瞬じゃねーのか。男か女か」 「男の俺が男に惚れてどーなる」 「じゃ、女か。てことは、おまえ、真性のほもじゃねーんだ」 星矢が知りたかったのは、もしかすると俺の初恋の内容なんかじゃなく、 つまり、俺がゲイなのか否か。 正直、あまり いい気はしなかった。 が、星矢にはそれは大事なことだったのかもしれない。 俺が俺のものにした瞬は、星矢にとっては大切な仲間だ。 その瞬を俺がどういうつもりで道ならぬ恋に引きずり込んだのかということは、星矢にしてみれば、事と次第によっては大問題になり得ることだったんだろう。 「当たりまえだ。瞬は特別なんだ」 そう。 瞬は特別。 瞬は、俺の心を捉えて離さない特別なものを持っている。 それは、俺の初恋の人が持っていたものと同じもので――してみると、俺は、幼い日の初恋にまだ縛られているのかもしれなかった。 「へー。で、どこの誰だよ」 「シベリアの――」 言いかけた俺を、瞬が心細そうな目で見上げている。 俺は少し慌てた。 瞬が俺の初恋の相手でないこと、俺の初恋の相手が女性だということは、瞬には不安なことなんだろうか。 それは、俺が真性のゲイであるよりは――俺が男が好きで、男だから瞬に惚れたのだという事態よりは、瞬には心安んじられることだと思ったんだが。 いずれにしても、瞬の胸に不安の感情を生むことは、俺の本意ではない。 俺はすぐさま瞬へのフォローを入れた。 「ああ、心配することはない。へたをすると、もう亡くなっている人だ」 「マーマか!」 「阿呆!」 マーマを持ち出した星矢の声は、それなら問題はないと思っているような声だった。 だが、俺の初恋の相手がマーマだったら、それこそ大問題だろう。 「シベリアで、一度会ったことがあるきりの人だ。俺がほんの子供だった頃――10歳くらいの頃か。あの人は、あの時、もう70は超えていたと思う」 「……」 俺の初恋の相手の年齢に、星矢が一瞬 絶句する。 それはそんなに変なことだろうか。 俺には――あれは本当にとても自然な恋だったんだが。 「おまえ、重度のマザコンで、男の瞬に惚れて、それだけでも十分異常だってのに、初恋が70過ぎのばーさん? それって、真性のほもどころじゃなく、真性の変態って言わねーか?」 「失礼な呼び方をするな!」 初恋の『は』の字も知らないくせに――それでも星矢は一応、俺を激怒させた『失礼な呼び方』が『真性の変態』ではなく『ばーさん』という呼称だったことは理解できたらしい。 俺の剣幕に少しく たじろいだ様子で、星矢は、 「わりい」 と、俺に謝ってきた。 俺の立腹はすぐには治まりそうになかったんだが、素直な星矢の謝罪に免じて、俺はそれ以上 星矢を責めることはやめたんだ。 そう、あれは俺が10歳になったかならずの頃。 真冬だった。 海の底にいるマーマに会いたくて、東シベリアの海に飛び込んではマーマの許に辿り着けず、途中で諦め引き返すことを繰り返していた頃だ。 あの冬はまさに腐った冬だった。 マーマの船に辿り着けないまま、その日も俺は、自分の非力に苛立ち悔しがりながら海上に浮き上がってきた。 そうしたら、目の前に2メートル四方の氷の塊が浮かんでいて、その上に白クマの子供が乗っていた。 陸から1キロほどは離れていただろうか。 氷の上で遊んでいるうちに、接岸していた氷が割れて沖に流されてしまったらしい。 陸に視線を転じると、岸には母グマがいて、悲しそうな声を響かせていた。 その日は既に5、6回潜って体力を消耗していたし、それでもマーマの許に辿り着けない自分の力への失望もあって、俺は心身共にかなり疲れていた。 だが、心細そうな白クマの子供。 悲しげな母クマの姿。 マーマに会えない俺。 海の底で俺を待っているはずのマーマ。 母子が離れ離れになるのは俺とマーマだけでいいと、俺は思った。 へたをすると共倒れになるかもしれないっていう懸念はあったが、俺は、白クマの子供の乗った氷の塊を押して、岸に向かったんだ。 岸に辿り着いた時には、日が沈みかけ、辺りは夜の闇をまとう準備を始めていた。 その上、幸か不幸か、俺が岸に着いた途端に風が強くなり、海は荒れ、雪が――というより、氷の粒が――ほとんど水平に ものすごい勢いで辺りを駆けまわり始めたんだ。 岸に着くや、子グマは一直線に母クマの許に駆けていった。 母子のクマは相当飢えているように見えたが、それでも、ほとんど死にかけているような命の恩人を食らおうとは考えなかったらしい。 母子は寄り添って陸の方に駆けていった。 それは有難かったが、あの時 俺は、いっそあの母子が俺を食ってくれたらいいのにと思ったな。 そうすれば俺は死んでしまうだろうが、あの母子は半年くらいは命を長引かせることができただろうから。 「腐った冬とはいえ、吹雪いているシベリアの、しかも夜。気温は氷点下20度以下になる。浜から村までは5キロ以上の距離があった。俺は正直、もう駄目だと思った。あの時、俺は確かにすべてを諦めた。もう おまえたちにも会えないと覚悟して、氷の上に倒れ込んだ」 星矢たちが、やたらと心配そうな顔を俺に向けてくる。 俺は今、こうして生きて奴等の前に立っているんだから、あの時 あの浜で俺が死んでしまったわけがないのに。 |