「どれほどの間 意識を失っていたのかは わからないんだが、気がついたら、俺は一人じゃなかった。かろうじて雪を避けられるくらいの氷の壁の陰で、俺は小柄なおばあさんに抱きしめられていた。細くて、小さくて、暗かったから顔はよく見えなかったが、俺と彼女は何かの動物の皮でできている布ですっぽりと覆われていて――凍った海の上を狂った女のような叫び声をあげている風の音だけが聞こえた。だが、俺はあまり不安じゃなかったし、恐くもなかったな。彼女はとても温かかったし、もうすぐ天国に行けるんだと思っていたから」

「マーマのとこに行きたい……そうしたら、俺は楽になれる」
そう。確か、俺は、そんなことを彼女の胸の中で呟いた。
そうしたら彼女は、俺を抱きしめている腕に力をこめて、小さく首を横に振ったんだ。
そして、掠れた声で言った。
「氷河のマーマは、氷河に生きていてほしいから、自分の命をかけたんだよ」
その言葉を聞いた途端、それまで彼女の温かさの中で夢見心地でいた俺は即座に明瞭な意識を取り戻した。
「俺を……マーマを知ってるのか !? 」

突然まともな――覚醒した者の声で、俺がそんなことを訊いたから、彼女はびっくりしたようだった。
やがて、俯くように彼女が頷く。
「どこで、いつ、マーマに会ったんだ !? 」
マーマはここの海の底に沈んでいるが、この付近で暮らしていたわけじゃない。
この辺りで俺のマーマを知っている人がいるはずがないんだ。
なのに、彼女は俺のマーマを知っている。
俺が奇異に思うのは当然だ。
もっとも、彼女はマーマを直接知っているわけじゃないようだったが。

「……知ってるのは、氷河のマーマが氷河を愛していたってことだけだよ。彼女が、氷河に幸せになってほしいと思っていたことだけ。彼女の願いを叶えるために、氷河は死んじゃいけない」
そう言って、彼女は俺の手を握りしめてくれた。
老人の――水気のない、かさついた しわくちゃの小さな手で。
でも、その手は信じられないほど温かかった。
彼女が心の底から俺に生きていてほしいと願ってくれているのがわかって、俺はふいに泣きたくなったんだ。

実際、俺は泣いた。
俺のマーマは若くて綺麗な人だった。
若くて綺麗なまま死んだ。
でも、本当は、こんなふうにしわくちゃの手になるまで生きていてほしかった。
そうしたら、マーマのしわくちゃの手を、俺はどれだけ愛しただろう。
俺のマーマを知ってる人――マーマの願いを知っていて、その願いを叶えるために俺に『生きろ』と言ってくれる優しい人。


「マーマが幸せだったら、生き続けていたら、こんなふうに優しいおばあさんになっただろうと、俺は思った」
聞く者をしんみりさせるような初恋話なんて、あんまり人に聞かせるべきじゃないのかもしれない。
幸い 星矢は“しんみり”が長続きしない奴だから、すぐに気を取り直して、俺の初恋話にクレーム(というのか?)をつけてきたが。

「で……でも、それはマザコンの続きで、親切にしてくれたおばあさんへの感謝の気持ちだろ。普通、それを恋とは言わないだろ」
それは星矢の言う通りだ。
彼女のおかげで俺が生き延びて、『どうもありがとう』で済んでいたら、それは恋とは呼べない、ただの出来事だったろう。
だが――。

「そんなふうにして、俺たちは一晩 抱き合って吹雪をしのいだんだ。朝になって、俺は初めて彼女の顔をまともに見た。俺を見詰め返している彼女の目は素晴らしく澄んでいた。素晴らしく美しかった。どんな宝石より、月の光より澄んでいて、春の陽光より暖かかった。若い頃には滅茶苦茶綺麗な人だったんだろうと思ったな。いや、あの時でも十分に美しかったが」
恋なんて言葉でしか知らないガキだったのに、彼女の瞳を見詰めているうちに、俺の胸はどきどきしてきた。
あの時は、自分の反応にびっくりしたさ。
なんで俺はこんな老人に、こんなにどきどきしているんだろう――と。
だが、それは事実で現実だったんだから仕方がない。

「俺が瞬に惚れたのは、多分、瞬が彼女と同じ目をしているからだ」
「どんな宝石より、月の光より澄んでいて、春の陽光より暖かい目――ってか?」
「ああ」
からかうような口調で、星矢が俺の口にした言葉を繰り返す。
その軽い口調のおかげで、俺は、奴に素直に頷くことができたんだ。
念のため、瞬にフォローを入れる。
「瞬、おまえが老人に見えるという意味じゃないぞ。彼女は本当に奇跡のように美しい目をしていた」
「うん」

瞬は気を悪くした様子は見せず、ゆっくり静かに頷いてくれた。
俺は、いろんな意味で安心した。
瞳だけとはいえ老人に似ていると言われても瞬が気を悪くしなかったこと。
瞬が俺の初恋を笑わなかったこと、妬きようもなかっただろうが焼きもちを焼かずにいてくれたこと。
俺の瞬への思いが もしかしたら他人との初恋の延長線上にあるかもしれないという事実を、瞬が嫌がらなかったこと。
いろんなことに。

「それだけでも、俺がおまえにイカれるには十分だったのに、おまえは十二宮で、彼女と同じように俺の命を救ってくれた。おまえこそが俺の運命の人だと、俺が確信するのは当然だ」
だから、瞬が同性だってことは、俺の恋の障害にもならなかった。
これは運命の恋なんだ。
俺は落ちるべくして、瞬との恋に落ちた。
誰にも――神にも、仲間たちにも――文句は言わせない。

俺の固い決意を感じとったのか、星矢は俺の恋に――俺の今の恋に――文句はつけてこなかった。
まあ、星矢は粗忽ではあるが馬鹿ではないからな。
星矢は俺の今の恋に文句はつけず、俺の恋の顛末を尋ねてきた。
「それで?」
「それだけだ」
「それだけ?」
そう、それだけだった。

「これ以上 彼女の瞳を見詰めていたら俺の心臓は破裂してしまうと思って、俺は彼女の瞳から視線を逸らした。立ち上がって、村のある方を眺めて、彼女に礼を言っていなかったことを思い出して、もう一度 彼女の方を振り返ったら、彼女の姿はもう姿は見えなくなっていたんだ」
日本風に言うなら、俺はキツネにつままれた気分で、一人で村に帰った。
ヤコフの家で温かいシチューを食ったら、それだけで体力回復。
なぜ死んでしまいたいなんて考えたのか、昨日の自分が理解できないほど、あっという間に、俺は心身共に元気になった。

もちろん、元気になった俺が最初にしたことは、彼女を捜すこと。
だが、俺は、どうしても彼女を見付けられなかった。
誰もそんな老婦人のことは知らなくて、村にもそんな人はいないと、みんなが言った。
この辺りで老人がひとりで生きていられるはずがないとも言っていたな。
吹雪の中で、夢でも見たんだろうと。
どうせ夢に見るのなら、雪の女王とか、もっと若い女に助けられる夢を見ればいいのにと、さんざん馬鹿にされた。

そのうち、俺も、あれは夢だったんだと思い始めて――いや、自分を納得させるために、そう思おうとしたんだ。
「だが、夢なのに――夢のはずなのに――俺の中の彼女の記憶は薄れるどころか、どんどん鮮やかになるばかりで……。そう。あれが俺の初恋だった。多分」

実ることなく儚く消えていった幼い日の初恋を語る男の口調や表情なんてものは、誰も似たりよったりのものだろう。
相手が70過ぎの老女だろうが、幼稚園で同じ組になった女の子だろうが、それは変わらない。
切なさとちょっとした寂しさで、それはできている。
俺も多分、そういう声や顔で俺の初恋を語ったんだと思う。
だからなのか、星矢もそれ以上は、俺の初恋をからかうことはしなかった。






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