『あれが俺の初恋だった』と、氷河は言った。
氷河は忘れている。
あの老人のことは憶えているのに、あの時 自分が何をしたのか、何を言ったのかは忘れてしまっている。
でも、僕は憶えているよ。
といっても、あの不可思議な魔王のような人の正体は、僕にも今もって わからないままだけど。

確かに、あれは雪の女王なんかではなかっただろう。
僕は、彼のことを思い出すたび、心の内で彼を『魔王』と呼んできたけど、それも便宜上の名。
彼は、ともかく、人ならざる力を持った何者か、そして多分、とても気まぐれで酔狂な何者かだ。
彼は、ある日突然、アンドロメダ島で死にかけていた僕の前に現われた。
僕は、でも、あまり驚きはしなかった。
あの時、僕は、ほとんど死ぬ覚悟を決めていて、突然 目の前に現われた黒衣の男を ごく自然に死神だと信じることができたから。

「あなたは死神なの?」
と、僕が問うと、彼は、
「そうだな。死の国は氷の国に酷似しているな」
と、答えになっていない答えを返してきた。
そんなことより、なぜ自分が氷の国(?)から この砂と岩だけの島にやってきたのか、その経緯の方が大事なことだと言うみたいに。

あの時、僕は諦めかけていた。
聖闘士になることも、生き延びることも、兄さんやみんなにもう一度会うことも、すべてを諦めかけていた。

アンドロメダ島は、四方を海に囲まれているのに、とても乾いた島だった。
真昼の強烈な陽光と 夜の極端な低温が島を乾燥させ、そこに住む者たちから 命の源である水を奪っていく。
あるものは砂と岩と――アンドロメダ島は、海に浮かぶ砂漠の島だった。

その島の真昼の炎天下。
狂気のように晴れ渡った空の下で、たった一枚の布で灼熱の陽光を遮るために自分の身体をすっぽり覆って、そして、そのまま死んでしまう時を、僕は待っていたんだ。
ここにじっとしていたら、僕はきっとミイラみたいにひからびて、自分がいつ死んだのかにも気付かないまま死んでいけるだろうなんて、そんなことを考えながら。

人は一人では生きていられないと よく言うけど、あれは事実だと思う。
人は一人では生きられない。
アンドロメダ島で、でも、僕は本当に一人きりだったわけじゃない。
アンドロメダ島には、修行仲間が何人もいたし、優しい人もいっぱいいた。
でも、僕は、兄さんと離れ離れにされたことが苦しくて心細くて寂しくて、だから自分はひとりぽっちだと――世界中の人が僕を見捨ててしまったのだと思い込んでいたんだ。
そして、人は、自分がひとりぽっちだと思うと、途端に死が魅惑的なものに思えてくるようにできている。
だから――あの時、僕は死にかけていたんだ。
身体も疲れ果てていたけど、本当に死にかけていたのは、僕の心の方だった――多分。

もし、あの時あそこで死ぬことができなかったとしても、あの不思議な黒衣の魔王に氷河の言葉を知らされなかったら、いずれ僕は死んでしまっていたと思う。
人は、一度何かを諦めると、それが癖になるものだから、いずれは。
あの魔王は、僕に、生きる力を与えてやろうと言った。
だからといって、水や食べ物を分けてくれたわけではなく――彼は、彼が僕の許にやってきた経緯を教えてくれただけだったけど。

彼は、氷河との約束を果たすために ここにやってきたのだと言った。
シベリアで聖闘士になる修行をしている氷河が、沖に流されかけているクマの子供を助けてやって、その一部始終を偶然見ることになった彼は、酔狂で氷河に尋ねたんだって。
「己れのことしか考えない人間にしては珍しい善行だ。その行ないに報いるために、何か願いを一つ叶えてやろう」って。
「まあ、今のそなたに、『生き延びて聖闘士になりたい』以外の願いはなさそうだが」って。

氷河は、
「俺のことは俺が決める。放っておいてくれ」
と言って彼を追い払おうとしたそうだけど。
でも、彼には彼の都合や立場というものがあって、彼は氷河に追い払われてしまうわけにはいかなかったらしい。
「そなたの願いを叶えると、余が決め、そう告げたのだ。一度口にした約束をたがえるわけにはいかぬ。では、海の底にいる母に会いたいか」
「自分の力で会うんじゃなきゃ駄目なんだ。うるさいな。余計なお世話だと言って――」

食い下がる彼を あくまでも拒もうとした氷河は、でも、その時 ふと思いついたように言ったんだって。
「そうだな。俺のことはどうでもいいけどさ――俺には瞬っていう名の仲間がいるんだ。瞬がもしつらい修行に挫けて、生きることを諦めかけていたら、その時に瞬を助けてやってくれ。あいつ、俺たちの中でいちばん ひ弱で、頼りなくて、泣き虫なんだ」
「わかった。約束しよう」
そうして、その約束を果たすために、彼は僕の許にやってきた。
身体は ひ弱で、心は更に弱く、そのせいで死にかけていた僕の許に。

彼は、僕に水をくれたわけでも食べ物をくれたわけでもない。
もちろん、強靭な生命力なんてものを与えてくれたわけでもない。
彼はただ、僕の身を案じる仲間の存在を 僕に知らせてくれただけ。
その時には僕はまだ気付いていなかったけど、その時点で、彼は既に彼の約束を果たし終えていたんだ。
ちょっと前まで “死”をしか見ていなかった僕の目と心が、“死”以外のものに心を動かされた時点で。

「氷河は元気で頑張っているの」
僕は、懐かしい金髪の仲間のことを、彼に尋ねた。
その答えは驚くべきもので――本当に驚くべきものだった。
「あの子供は今、シベリアで死にかけている」
と、彼は答えてきたんだ。
「余が、そなたを助けるという約束を あの者と交わしたのは、ついさっきだ。あの者が、自分を生き延びさせてくれと願ってくれれば、余もこんなところまで来なくて済んだものを」

彼は人ではなかった。
彼の告げた言葉が事実なら、彼は一瞬で1万キロの距離を移動してきたことになる。
そして、僕と氷河は1万キロ離れた場所で、同時に死に直面していたことになる。
「そんな……! だったら、僕なんかより、氷河を助けてあげて!」
「そんな約束はしなかった」
「どうすれば助けてくれるの」
「無理だ。交わされた約束は叶えられなければならないが、交わされなかった約束は叶えられる必要がない」
「僕を助けなくていい。僕をこのまま死なせて。そして、代わりに氷河を――」
「それはできない」

彼の答えはにべもなく 冷たくて、僕を狼狽させた。
でも、それは変な話だと思う。
僕は心弱く、すべてを諦めて、死んでしまった方が楽になれると信じて、このまま死んでしまおうと考えていたんだ。
そうすれば すべての苦しみ――それは孤独ということだ――から解き放たれて、僕は楽になれるんだと思っていた。
それこそが本当の幸せなんだろうとさえ、僕は思っていたんだ。
なのに、僕は氷河には死んでほしくなかった――諦めてほしくなかった。
僕は、氷河には生きていてほしかったんだ。

「余があの者と交わした約束は、そなたを助けることだ。そなたがあの子供を助けたいのなら、そなたはその代償を払わなければならない」
「だから、僕の命をあげると」
「それでは、余があの子供との約束を破ったことになる。どうしてもそなたの願いを叶えたいのなら、そなたはその代償として、そなたの持っている、命以外のものを余に差し出さなければならない」

「……」
僕がどんなにみじめでみすぼらしい人間なのかが見てわからないのかと、僕は泣きたい気持ちで思った。
命の他には何も持たない無一物。
僕がそういうものだってことは、一目見たらアホウドリにだってわかることなのに。

「僕、命の他には何も持っていないの」
悲しい気持ちで告げた僕の呻きを、でも、彼は事もなげに否定した。
「そなたは、余に差し出せるものをたくさん持っているぞ」
「え……?」
「その優しさ、清らかな心、美しさ、若さ――そなたは、この地上に生きる人間たちの中で最も恵まれた人間の一人だ」
「そ……そんなものでいいの?」

そんなものに、氷河の命に匹敵する価値があるなんて、僕には信じられなかった。
でも、今は その価値をどうこう論じていられる時じゃない。
僕は、彼に向かって、
「なら、心以外のものなら何でもあげる!」
と叫んでいた。
彼が、薄笑いを浮かべて頷く。
「では、その若さを」

何だか その薄笑いが、僕をからかっているように冷たく軽薄で――僕は一瞬、僕は彼に騙されているんじゃないかって不安になった。
「若さをあなたにあげたら、僕、おじいさんになっちゃうの?」
恐る恐る尋ねた僕に、彼が なお一層楽しげな冷笑を返してくる。
「いやなら、それでもいいのだぞ。あの子供が死ぬだけだ」
「……!」

氷河が死ぬ。
僕を助けようとしたせいで、氷河が死んでしまう。
脅すように言われた僕に、迷い ためらっている時間はなかった。
「いいよ、若さをあげる。氷河を助けて!」
「よろしい。契約成立だ」
僕の決意に頷いた魔王は、まるで彼を楽しませるために懸命に道化たことをしているピエロを見るみたいな目で僕を見おろし、傲岸に笑っていた。






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