僕を目覚めさせたのは、吹雪が過ぎ去った雪原を照らし出す新しい朝の陽射し。
僕が身じろいだせいで、氷河も目が覚めたみたいだった。
僕は、いかにも老人ぽい ぎこちない仕草で彼を抱きしめていた腕を解いた。
金色と銀色が混じったみたいな光が氷の上で跳ねていて、とても綺麗だった。
凍える夜を一晩 耐え抜いて、僕たちは新しい朝の光の中に立つことができた――僕たちは生きていた。

僕は過酷な土地の美しい光にしばらく見とれていたんだけど、氷河が僕を見詰めているのに気付いて――僕のことを誰なのか窺うように見詰めているのに気付いて――僕はどきっとした。
でも、すぐに慌てる必要なんかないことに思い至ったんだ。
僕は若さを失って老人になってしまっている。
きっと氷河には僕が僕だとわからないだろうから。

実際、氷河にはわからなかったみたいだった。
氷河は、僕の名を口にすることはなかった。
代わりに彼は、突然、
「晴れた!」
って大声で叫んで、僕に背を向けて大きく伸びをした。
氷河はもう大丈夫。
そう思って安堵の息をついた僕は、次の瞬間にはアンドロメダ島に戻っていたんだ。


アンドロメダ島は、いつのまにか日が暮れかけていた。
朝の希望の光に満ちていた白い氷原から、夕暮れの砂漠へ。
あんまり急に周囲の光景が変わったことに戸惑いを覚えていた僕は、変わってしまったのは周囲の光景だけではないことを、やがて思い出した。
嫌でも思い出さないわけにはいかなかった。
老人のそれになった僕の身体は、一日の厳しい訓練を終えた直後のそれよりも疲れて重くなっていたから。
その時になって、僕は、僕の選択の本当の意味を知ったんだ。

僕はもう聖闘士にはなれない。
僕はもう、焼けた砂の上を軽快に走ることも、海に飛び込んで綺麗な魚の群れを眺めることもできない。
僕はそういうものになってしまったんだ。
重くのしかかってくる自分の身体の感覚が、その事実を僕に思い知らせて、僕の心を苛んだ。
僕はもう聖闘士にはなれない。
氷河にも兄さんにも懐かしい仲間たちの誰にも、もう会うことはできない――。
徐々に冷たくなっていくアンドロメダ島の砂の上にうずくまって、僕は泣き出した。
今度こそ本当に、僕は死ぬしかないんだと思って、僕は泣いた。

不思議だよね。
氷河に会うまでは――氷河が僕のために願ってくれたことを知るまでは――僕なんか死んでもいいって思っていたのに、氷河が僕のこと忘れずにいてくれたってことを知った途端に――自分がひとりぽっちじゃなかったってことを知った途端に――僕は生きていたくなったんだ。

「後悔しているのだろう」
あの黒衣の魔王が、いつのまにか僕の前に立っていた。
俯いたまま、僕は首を横に振った。
「後悔しているはずだ」
魔王が――残酷な魔王が――同じことを、重ねて僕に問うてくる。
どうして彼は そんなことを僕に訊くことができるんだろう。
僕が後悔してるのかどうかなんて、そんな わかりきったことを。
「そうだよ。僕は後悔してる。僕は心弱い人間だった。後悔してる。僕は 本当は ひとりぽっちじゃなかったのに、そのことを忘れていた。そのせいで氷河を危険な目に合わせた。後悔してるよ! なのに、僕の後悔は やり直す時間もない。みんな僕が悪いんだ。後悔してるよ!」

魔王は――何だか僕がすごく馬鹿なことを言ったみたいに――僕から頓珍漢な答えを聞いたみたいに、奇妙に空気を揺らした。
「余が言っているのは、そなたが その若さを余に差し出したことだ。その軽率を後悔しているかと訊いているのだ」
「だって、僕、他に何も持っていなかったんだもの! 他にどうしようもなかったんだもの!」
他にどうしようもなかったことまで後悔したら――そんなことしたって何にもならないことくらい、子供の僕にだってわかる。

魔王は、僕がそんなこともわかっていないと決めつけていたみたいだった。
彼は、砂の上でうずくまって顔を伏せている僕を高みから見おろし、そして、呻くように言った。
「わからんな。人間というものは。子供の頃には、こんなにも美しくて清らかで聡明でさえあるのに、大人になると、誰もが自分のことしか考えられなくなる」
「そんなことないよ」
この人は何を言っているんだろう?
自分のことしか見えなくて、自分のことしか考えられなかったのは、昨日までの僕のことだよ。
子供だった僕のこと。
大人になるっていうのは、そんな子供でなくなることだ。

「だが、現実はそうなのだ」
「そんなことない……。少なくとも、氷河は違うよ。氷河はまだ子供なのに、僕を助けてくれた。大人になったら、氷河はもっとたくさんの人を助ける人になるんだよ」
「あの者が損得勘定のできない子供だからだ。あの子供もそなたも大人になれば――」
「そんなことない!」
僕はその時、老人で――どんなに生きていたくても、まもなく死ぬしかない老人で――だから恐いものがなくなってしまっていたのかもしれない。
僕は、もしかしたら生まれて初めて、真正面から人に刃向かっていった。
そんな僕を見やって、黒い大人が薄く笑う。

「では、賭けをしよう」
「賭け?」
「そなたに若さを返してやる。その代わり、そなたとあの者が そんな大人になったら、また若さを余に――いや、そなた自身を余に差し出せ。余はそなたが気に入った。どんな大人になるのかを見てみたい」
「あの……」
若さを返すと言われて――もう一度 やり直すチャンスをくれると言われた途端、僕はまた元の臆病者に戻った。
希望を失った途端に強気になって、希望を取り戻した途端に弱気になるなんて、僕はかなり変な人間みたい。

「“そんな大人”って……努力しなければなってしまうものなの? 努力すればならないものなの?」
僕は、若さを返してもらえるのは嬉しいけど、“そんな大人”がどんなものなのか よくわからなくて不安だったんだ。
けど、子供が“そんな大人”になる仕組みは、彼も知らないみたいだった。

「それはわからぬな。人間がなぜ“そんな大人”になるのかさえ、余にはわからないのだから。いっそ、この世界を滅ぼしてやった方が人間たちのためにはよいのではないかとさえ、余は思う」
「僕……僕は、そんな大人にはならないと思う。氷河が僕のためにしてくれたことを忘れないもの」
「それはわからぬぞ。だが、期待していよう。そなたが、その清らかさを失わないことを」
彼は楽しそうに興味深げにそう言って、最初に僕の前に現われた時と同じように、煙みたいに ふっと消えていった。






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