「昼間のお嬢様にもう一度会いたい。彼女の家を教えてくれ」
瞬が生きているかもしれない――。
その希望が胸中に生じた途端、氷河にとって、沙織は憎しみや恨みをぶつけるべき相手ではなくなってしまっていた。
それらの感情がすべて消え失せたわけではないが、彼女への憎悪や軽蔑は、氷河の中で二の次三の次に位置する事柄になってしまっていた。
だから氷河は、彼女に協力を仰ぐということも、ほとんど抵抗なくできたのである。
瞬が生きている(かもしれない)という希望に比べたら、我儘なお嬢様への恨みつらみなど、取るに足りない感情にすぎない。

氷河の憎しみが薄れたことを感じとったから――というわけではないようだったが、その夜 沙織の執務室を訪れた氷河への沙織の対応は、以前のそれとは比べものにならないほど温和なものだった。
氷河は、彼女を6年前の我儘な少女のままでいるものと決めつけていたのだが、おそらく今の彼女はあの頃の彼女とは違う彼女になっているのだ。
昔のままの彼女なら、『余計なことはするな』と甲高い声で怒鳴り、癇癪を起こしていたかもしれなかったが、その夜の沙織は、自分と対等な人間に対する態度を、氷河に示してきた。

「彼女は、エチオピア政府要人やアフリカ日本協議会の理事からの紹介状を持参して 私のところに来たのだけど、彼女の出自には何だか怪しいところがあるの。確かに、アフリカの現状には詳しかったわ。でも、本当に私に支援を求めているのかどうか……。金銭を詐取しようとしているのではないわね。今 私は多忙で――さっさと彼女に帰ってもらうために、彼女の話をろくに聞きもせずに、相当額の寄付の約束をしたのよ。でも、彼女は受け取ろうとはしなかった。だから、金銭ではなく、私たちの様子を探るのが、彼女の目的なのではないかと思うの。今は聖域でも怪しい動きがあって、そちら絡みという可能性も捨てきれない」
「聖域で? なら、ちょうどいい。俺が探ってきてやる。彼女の家はわかっているのか」

氷河の提案に、沙織は少しばかり複雑な――何か苦いものを胸中に抱いているような――表情を浮かべた。
氷河にその提案を提示させたものが、『瞬が生きているかもしれない』という希望であるということが、彼女には つらいことだったのかもしれない。

「……わかりました。アポをとってみるわ。考えが決まったら いつでも呼んでくださいと言っていたから、すぐ会ってもらえるでしょう。私の代理として彼女の話を聞いてきてちょうだい。彼女の自宅は神戸にあるそうなのだけど、ご両親はエチオピアの方にいらして、ご実家はお祖母様が留守を守っているだけなそうなの。彼女自身はFSホテルに部屋をとっていて、今はそちらに滞在しているそうよ。偽名で」
「偽名?」
「アフリカの窮状を憂う人たちの自発的善意によって活動するのが建前のNPO法人としては、援助要請のために活動していることを公にはできない――と言っていたわ。偽名は、鈴木陽菜さん。本名は鈴木葵さん」
「本名の方も偽名くさい」
「どちらも偽名でしょうね。苗字は日本で最も多い苗字。名前の方は、偽名は昨年日本で最も多くつけられた名だし、本名の方は昨々年日本で最も多くつけられた名前だもの。――訪問の時刻は明日の10時でいいかしら。午後の方がよくて?」
「ああ。少しでも早い方が――」

言いかけて、氷河は、沙織のあまりに協力的な態度を奇異に思うことになったのである。
ここに来るまで、彼は、事がこれほどスムーズに進むことを全く予想していなかった。
沙織はむしろ、聖闘士が外部の者と接触することを歓迎しないだろうと、氷河は察していたのである。
「アポまで取ってくれるのは有難いが……いいのか。俺はてっきり、余計なことはせずに邸の中で大人しくしていろと言われるものとばかり思っていた。俺たちに逃げられたら、ギャラクシアン・ウォーズの開催が危うくなるし、俺は あんたからうまく彼女の居場所を聞き出せたら御の字くらいの気持ちでここに来たんだが――」

自身への信頼のなさ――むしろ猜疑心と言うべきか――を遠慮のない言葉で語られた沙織が、寂しげに微笑する。
沙織は、寂しげに微笑しただけだった。氷河を咎めることも、なじることもせずに。
信頼や好意というものは 命じて得られるものではないということくらいは、彼女も承知しているらしい。

「あなた方の自由を束縛するようなことはしないわ。ギャラクシアン・ウォーズも、嫌なら参加しなくていいのよ」
「なに……?」
「あれを計画したのは お祖父様で……でも、お祖父様はもういないのだし、厳しい修行に耐えて せっかく帰ってきてくれた あなたたちを戦わせて、あなたたちが また傷付くようなことになったら、あなたたちが あまりに救われないもの」

そう言って 力なく左右に首を振る沙織は、氷河の見知っている彼女とは、どこか何かが違っていた。
6年前の彼女とも、聖闘士たちが帰国直後に出会った彼女とも。
数日前 氷河が帰国した時、彼女は、死地と言っていい場所から帰ってきた彼に ねぎらいの言葉ひとつかけず、高慢な一瞥を投げてきただけだったのだが。
あの時の沙織と今の沙織は、まるで別人のように氷河の目には映った。
「あんた、どうかしたのか」
素朴かつ率直にすぎる氷河の物言いに、沙織が、少々自嘲の混じった苦い笑みを返してくる。

「どうかしていたのは、昨日までの私の方だと思うわ。お祖父様の遺志を果たすことばかりを考えて、それ以外には何も見えていなかった。愚鈍だと思うでしょう。瞬の死を嘆き憤るあなたを見るまで、私は払われた犠牲の意味を真摯に考えたことがなかったの」
「それは……」
「私の目的はお祖父様と同じだけれど、私は、お祖父様が計画していたものとは違う手段で その目的を果たすことにしたわ。お祖父様のように、目的のために手段を選ばない合理性は、私には持ち得ないもののようだから――」
「……」

目的を果たすために払われた多くの犠牲。
その事実に、沙織は無関心でいるわけでも無感動でいるわけでもないらしい。
少なくとも今は。
氷河は、城戸光政とその孫娘の“目的”が何なのかを知らなかったが、ともかく沙織はその目的を果たすためには、無力な孤児の命や意思を犠牲にすることもやむなしと割り切ることは もうしないと言ってくれている。
彼女はもしかしたら、今は それらの犠牲に傷付いてさえいるのかもしれないと、氷河は思ったのである。

城戸光政と沙織の“目的”のために払われた犠牲の中には、今更ながらの後悔では もはや取り戻すことのできないものも多くある。
命と時間は、その最たるものだろう。
氷河はもちろん、彼女を許す気にはなれなかった。
だが、彼は、これからはもう少し虚心に城戸沙織という人物を見るようにしてみようとも思ったのである。
人は変わるもの――変わっていくものなのだから。






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