都心の最高級ラグジュアリーホテルのフロントでアフリカ帰りのお嬢様の偽名を告げると、すべては手配済みだったらしく、すぐにコンシェルジュが氷河の側にやってきて、彼が行くべき場所への案内に立ってくれた。
第二のお嬢様がこのホテルに滞在しているのは事実らしい。
親も財もなく身ひとつでアンドロメダ島に送られた瞬には、特別の後援でもつかない限り、こんなホテルに泊まるのはまず無理なことである。

彼女は やはり瞬ではないのか――あの特別製の瞳の持ち主が 瞬以外にもいたというだけのことなのか――。
期待と不安がないまぜになって 足ももつれそうになる氷河が案内されたのは、ホテルの本館ではなく別館にある小さな貸し会議室だった。
部屋の中央に、会議用の大テーブルの代わりの小さなアンティークのティーテーブルがあり、南側が外に面していて、窓からホテルの庭を見渡すことができる。

第二のお嬢様は既に部屋に来ていて、ホテルの売りになっている和洋折衷の広い庭を眺めていた。
コンシェルジュが立ち去って1分もしないうちに、ウェイターがお茶と焼き菓子を運んでくる。
そうして、会談の支度が済むと、第二のお嬢様は初めて口を開いた。
「ティーラウンジやレストランより――ここなら我々の会話を人に聞かれずに済むでしょう」
「俺は、人に聞かれて困る話をするつもりも聞くつもりもない」

敵が(?)あまりに用意周到だと、招じ入れられた側は 罠にかかったような気分になる。
氷河の声は、我知らず不機嫌なものになった。
第二のお嬢様が、そんな氷河に やわらかい笑みで対抗してくる。
「聖闘士って、普通の人間にはない力を持っているんでしょう? その力が恐いので、人目があって、でも話を人に聞かれる心配のない場所を選んだんです。ここなら、庭を散策している人たちが時々こちらを見ることもあるかもしれないし」

つまり彼女は、この用意周到は、聖闘士ならぬ身の一般人の当然の用心――と主張したいらしい。
それまで氷河は自分が人に恐れられるようなものだという自覚を持ったことがなかったのだが、彼女の説明を受けた氷河は、彼女の用心を不快に思う権利が自分にないことを認めざるを得なくなった。
グラード財団総帥を挑発するようなことを平気でしてのけていた大胆な少女の 思いがけない小心と慎重を、意外に思いはしたのだが。

「恐いもの知らずのお嬢様だと思っていたが」
「ライオンは恐くありませんが、人は恐ろしいです」
彼女の意見は至極尤もなもの。
その意見に賛同して、氷河は掛けていた椅子で脚を組み直した。
氷河の得心を確かめて、第二のお嬢様が本題に入ってくる。

「アフリカの現状を聞きたいというお話でしたが、それは当方の要請に応える意思があるということですか」
「アフリカの話を聞きたいというのは、アポをとりやすくするための方便だ。もちろん、あんたが話したいというのなら、いくらでも聞いてやる。瞬の話を聞いてくれるなら。そして、あんたが俺の知りたいことに答えてくれたら」
「あなたの泣き虫のお友だちのこと? どんな方だったんです?」
氷河の申し出を、彼女は予想していたものらしい。
これなら話は早そうだと安堵して、氷河は彼女の要請に応えることをしたのである。
つまり、自分が知っている限りの瞬に関することを、氷河は彼女に話してきかせた。

瞬の生い立ち、境遇、性格、瞬の兄のこと、幼い頃の幾つものエピソード、別れの際に瞬が流した涙、瞬が告げた健気な決意。
それらを氷河がどんな思いで受けとめたか、そして決して忘れなかったこと――。
氷河は一つの可能性を考えていたのである。
つまり、“瞬”は もしかしたら、自分が“瞬”であることを忘れてしまっているのではないかという可能性を。

世の中には、少し深酒をしたくらいのことで記憶を失う人間がざらにいる。
修行中の事故で脳に物理的ダメージを受けたか、あるいは、望まぬ環境に置かれることによる心因的抑圧に耐えかねて、瞬は自分が瞬という人間であるという記憶を失った――。
そう考えれば、特別製の瞳を持った人間が二人いることの辻褄は合うのだ。
男子である瞬がどこぞのご令嬢として旧友たちの前に現われたことの謎は解けないが、瞬なら自分が男だったことを忘れても大した支障はないだろうし、アンドロメダ島で瞬を預かった人物が、記憶を失って聖闘士になるための修行継続が困難になった瞬を、アフリカにいた日本人夫妻に託したということも、考えられないではない。
ならば、“瞬”に関する情報を与えれば、それが何らかの引き金になって、彼女は自分が瞬であることを思い出してくれるかもしれない。
氷河は、そう期待したのである。

だが。
瞬のあれこれを必死になって語っているうちに、それが徒労にすぎないことに、やがて氷河は気付くことになった。
瞬の思い出を懸命に語れば語るほど――語っている氷河は切ない思いが募ってくるばかりだというのに――当の“瞬”は全く心を動かされた気配を見せてくれなかったのだ。
見知らぬ他人の話として聞いても、それは、不運な子供の悲しく健気な物語のはずである。
だというのに、第二のお嬢様は、氷河の前で、瞬の物語を、涙ひとつ流すことなくクールに聞き流してみせたのだった。

「おまえは同情心が薄いのか? こんな話を聞かされたら、瞬なら あっというまに、溺れるくらいの涙を流していたのに」
少なからぬ失望に囚われながら氷河がそう言うと、彼女は、瞬の物語ではなく、氷河の徒労に同情したように、軽く首を左右に振った。
「アフリカの風は熱くて乾燥していて、涙を流してもすぐに乾いて蒸発してしまうんです。泣いても無駄。泣いても何も解決しません。おかげで泣き方も忘れてしまいました」
「泣いたら、涙の乾く おまじないをしてやろうと思ったのに」
「どんな おまじないですか。あなたは半分ロシアの方だそうですね。ロシアのおまじない?」
「まあ、そんなところだ。――ロシアの、俺のマ……母がよく――」

今 氷河の目の前にいる、瞬と同じ瞳を持った少女は、既に そんなおまじないを信じる歳ではない。
それ以前に、彼女が瞬でないのなら、自分はそんなおまじないを彼女に施してやる必要がない。
そう思わざるを得ないことに落胆して肩を落とした氷河の瞼に、そして唇に、第二のお嬢様が人差し指で そっと触れてくる。
彼女は、氷河の徒労に対しては深く同情しているようだった。
「あなたのおまじないは不要です。自分の涙は自分で拭きます」
きっぱりした口調で、そう言い切ってから、彼女は再び気の毒そうな目で氷河を見詰めてきた。

「瞬さん――とは仲がよかったんですか」
どうやら彼女は どこまでも前向きな考え方の持ち主らしく、死んでしまった者よりも生きている者の方に関心を抱くタイプの人間のようだった。
“瞬”の話は、冷徹と言っていいほど無感動に聞き流してみせた彼女が、“氷河”の心情には大いに興味を持っている様子で、氷河に尋ねてくる。

「いや」
氷河の短い答えは、彼女には意外に思えるものだったらしい。
彼女の誤解は当然のものだったろう。
仲のよい友人だったからこそ、この聖闘士は“瞬”という人間にこれほど執着しているのだと、氷河の態度を見た者なら誰でも――彼女でなくても――思うのが自然である。
だが、それは誤解だった。
氷河は、瞬の“仲のよい友人”ではなかった。

「俺が一方的に……好意を持っていただけだ」
「あなたの方が一方的に?」
そんなことで念を押してくるなと、本音を言えば氷河は思ったのである。
事実であるだけに、余計に悔しいではないかと。

「瞬は可愛くて、よく泣いて――可愛い子だった。よく、女は白馬の王子様を待っている生き物らしいと、男共は女を馬鹿にするが、その男共が何を望んで生きてるかといえば、実は『可愛いお姫様にもてたい』の一事に尽きる。男が戦争に行くのも、家族や恋人を守るためで、闘争心だの攻撃性だのが女に勝っているからじゃない。守りたいものがあるから、男は戦いに行くし、好きな相手に振り向いてほしいから、やせ我慢をして強い振りもする」
「あの……それがいったい……瞬さんというのは――」
彼女の困惑はわかったが、氷河はそれを無視して、彼の話を続けた。
子供の頃の“氷河”の心を、誰でもいいから誰かに知ってほしかった。

「瞬には兄貴が一人いて、奴は、典型的な“男”だった。守るものがあるから強い男だった。俺はいつも奴を羨んでいたんだ。瞬が俺のものだったら、俺だってもっと強くなれるのに――とな。瞬はいつも兄貴ばかりを見ていて、俺はそれが癪で、俺の方がいい男なのにとガキのくせにいきがって、瞬に振り向いてもらうために ろくでもないことを繰り返していた。だが、それで いっ時 瞬の気を引くことができても、結局 瞬の目は兄に戻ってしまう――」
ライオンも恐くないというアフリカ帰りのお嬢様が、哀れな片思い話を語り続ける男を、ひどく痛ましげな目で見詰めている。
いったい俺は何をしているのかと、さすがに氷河は自分自身に呆れてしまったのである。
これは長々と語る必要のないこと。
事実は一つだけなのだ。

「理屈はいくらでも後付けすることができる。俺はただ――ただ、瞬が好きだったんだ。瞬が好きだった。瞬は、俺のことなんか憶えてもいないだろう――」
「そ……んなことはないでしょう。こんな綺麗な瞳の持ち主は、忘れようとしても忘れられるものではありません」
死んだ人間には同情心を抱くことのない ドライなお嬢様も、生きている人間には 慰め力づける価値があると思っているらしい。
彼女の慰撫に、氷河は首を横に振った。

「瞬がアンドロメダ島へ送られる時――これが瞬に会える最後かもしれないと思って、それこそ泣きそうな顔になっていた俺に、瞬は『必ず生きて帰ってくる』と言った。城戸邸に集められた子供たちの中で いちばん弱い自分が帰ってこれたら、他のみんなは当然 帰ってこれるはずだから――と。自分が生きて帰ってくれば、みんなも生きて帰ってこれる。だから、みんなのために自分は必ず生きて帰ってくる――。あの いつも涙で潤んでいるような瞳で俺を見て、瞬は笑って そう言ったんだ。あの時、俺は初めて気付いた。誰かのために生きているのは、誰かを守るために生きたいのは、本当は瞬の方だったことに。あの時 俺は、初めて 自分の小ささに気付いて――俺が本気で瞬を好きになったのは、別れの時だ。多分。瞬は何も知らない」

だから もう一度会いたかったのだ。
もう一度会って、あの時 告げ損ねた言葉を、今度こそ瞬に告げたかった。
だが、それは見果てぬ夢だったらしい。
過ぎた時は取り戻すことができず、伝え損ねた思いが瞬の許に届くことは決してない。
チャンスを掴み損ねた人間が得られるものは、苦い後悔の念だけなのだ――。

それが現実で、当然の結果なのだと わかっていても、氷河はもう一度 彼女に尋ねずにはいられなかったのである。
「おまえは瞬ではないのか」
――と。
瞬と同じ瞳を持った少女は、
「そうだったらよかったのに……。残念です」
と答えて、悲しげに首を横に振った。






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