こんなふうに氷河を苦しめ傷付けるために、自分は日本に帰ってきたのではない――。 “瞬”と同じ目を持った人間に行動を起こさせたのは、その思いだった。 その時を先延ばしにせず、一日も早くすべてにけりをつけ、一刻も早く自分は氷河の前から消え去らなければならないという思い。 『あせらずにゆっくりと、どんな些細なことも見逃さず、観察し、見極め、判断し、確かな真実を手に入れてくるんだ』という師の忠告が脳裏をよぎったが、そんな悠長なことをしていたら、この偽りは “瞬”の生還を願っていた人に更に深い傷を負わせるだけである。 そう考えたから、そんな事態だけは避けたいと思ったから、氷河との会談の翌日、 そして、ギャラクシアン・ウォーズなる馬鹿げたイベント開催の目的を、沙織に問い質した。 「聖域に潜んでいる巨悪を白日の下に 引き出すことが、ギャラクシアン・ウォーズの目的です」 沙織の返答は、彼女が察していた通りのものだった。 城戸沙織が現在の聖域のあり方に不審を抱いているのなら、その目的は合理的で、有効なものだろう。 だが、それは、人としての情に欠けるやり方でもある。 「そのために聖闘士を利用するの」 「そうです」 「彼等は――親のない子がほとんどで、幼い頃から苦しい修行に耐えて、やっと聖闘士の資格を得たのだと聞きました。そんな彼等に、あなたは この上また試練を与えるとおっしゃるんですね」 「耐えてもらわなければならないわ」 淀みのない声で そう答える少女の瞳の奥にあるものは、人智を超越した神の冷酷か、心弱い人間を愛し見守る神の慈悲か。 城戸沙織の瞳の奥を、彼女はじっと見詰めたのである。 その奥にあるものを見極めるために。 だが、所詮 非力な人間の一人にすぎない身の彼女には、沙織の真意にまで到達することはできなかった。 それゆえ、彼女は言葉に頼らざるを得なくなった――言葉で尋ねることしかできなかった。 「あなたは女神アテナなのですか?」 と。 「――そうだと思います。あなたは何者です? 聖域からの刺客にしては、あまり凶悪そうには見えないけれど」 「それはどうか」 “言葉”は、信頼を抱いている人間の口から出たものでなければ信じることはできない。 まして、『自分は女神だと だから――結局、彼女は、沙織に対して聖闘士としての力を用いるしかなくなってしまったのである。 沙織の周囲の空気を操り、そうすることで沙織の動きを封じ、呼吸を困難にする。 彼女が真の女神なのであれば、彼女は この程度の拘束は すぐに消滅させてしまえるはずだった。 たとえ今はまだ女神としての力を完全に取り戻せていないのだとしても、真実の女神がこんなことで命を落とすはずがない。 苦痛に眉を歪める沙織の前で、彼女は待ったのである。 城戸沙織が、神としての力を発揮する時を。 だが、沙織をその苦痛から解き放ったのは女神の力ではなく、異変に気付いて客間に飛び込んできた彼女の聖闘士たちだった。 「あんた、何してんだよ! 沙織さんを自由にしろ! 今すぐ!」 呼吸ができない苦しさに顔を歪めている沙織の姿を見るや、星矢は、苦しむ沙織の前に佇むアフリカ帰りの令嬢を怒鳴りつけてきた。 星矢の拳には 尋常の人間には容易に生むことのできない力が込められ始め、それは今にも二人目の令嬢に向かって放たれようとしている。 星矢に少し遅れて その場にやってきた氷河や紫龍も 同じような状態にあることが、彼等同様 聖闘士である者には すぐに感じ取ることができた。 「彼女は、星矢からお姉さんを奪った。星矢に望まぬ修行を強いた。今また くだらないイベントで星矢を利用しようとしている。それでも星矢は彼女を助けたいと思うの? それは、星矢の人としての心? それとも、聖闘士としての義務感なの?」 「それは……でも、でもさ、なんか、助けなきゃならないような気がするんだ。俺は、城戸沙織を嫌いだし、恨んでる。だけど、それでも――」 第二のお嬢様が言い募る 沙織のこれまでの所業を、星矢は忘れていたわけではなかった。 忘れられるわけがない。 それでも、星矢には、そう答えることが自然だったのだ。 『助けなきゃならないような気がするんだ』と、答えることが。 「紫龍は?」 「沙織さんを放せ。君はなぜこんなことをするんだ。いったい君は何者だ」 「僕が何者なのかなんてことは どうでもいいこと。大事なのは、城戸沙織が何者なのかということだよ。氷河は? 氷河も、彼女を助けたいの?」 「……」 城戸沙織が何者なのか。 氷河には、それこそが“どうでもいいこと”だった。 瞬と同じ瞳の持ち主が――争い事を嫌い、いつも穏やかで優しかった瞬と同じ瞳の持ち主が――人に危害を加えようとしていることの方が、氷河には はるかに大きな問題だったのである。 「なぜ、おまえがこんな――」 「氷河は、彼女を憎んでいるんでしょう?」 「そうだ。だが、その女を殺しても何にもならない」 「そうとは限らないよ。――彼女が女神アテナだと言ったら、氷河は信じる?」 「信じるものか、こんな我儘女が女神だなどと。だが、彼女は死んではならないと感じるんだ。だから……」 氷河は、一度 言葉を途切らせた。 そして、哀願するように叫ぶ。 「だから、やめろ、瞬!」 「それは、あなたの亡くなったお友だちの名前でしょう」 抑揚のない声で、4人目の聖闘士が静かに氷河の訴えを退ける。 だが、氷河は退かなかった。 「違う。瞬は死んではいない。諦めて 現実を受け入れろと、夕べ一晩 自分に言いきかせた。だが、どうしても俺の中の 瞬が生きているという気持ちはなくならない。瞬だろう? おまえが瞬だ」 「僕は……」 「瞬だ。昨日――おまえは、ガキの頃に俺がついた嘘を知っていた」 「嘘?」 「ガキの頃、俺は瞬に、ロシアでは、瞼へのキスは 涙が乾くおまじないで、唇へのキスは もう泣かないためのおまじないだと教え込んだ。俺は、どうしてもおまえにキスしたかったから」 「おい、氷河、おまえ、いったい瞬に何してたんだよ!」 星矢が呆れた口調で氷河を咎めることができたのは、沙織の自由を奪っていた気流の勢いが失われ始めたからだった。 「やけに瞬にこだわると思っていたら……そういうことだったのか」 完全に自由を取り戻した沙織の身体を支えながら、紫龍が、星矢同様 呆れた顔で白鳥座の聖闘士を見やる。 そして、 「ひ……人違いです!」 あくまで瞬ではないと言い張る瞬の頬は、すっかり朱の色に染まってしまっていた。 「瞬……本当に瞬なの?」 沙織に そう問われるに及んで、瞬はもはや“いいウチのお嬢様”を装うことができなくなり、その所作はまるで意地を張る幼い子供のそれに変わってしまっていた。 「違います!」 羞恥のために取り乱している瞬を落ち着かせることになったのは、沙織の静かな言葉だった。 「でも私の聖闘士だわ。それだけはわかる」 「あ……」 アテナの前で、いつまでも分別のない子供のような真似はしていられない。 大きく息を吸い、そして吐き出し、なんとか自分を落ち着かせてから、瞬は沙織に尋ねたのである。 「あなたは本当にアテナなんですか」 「そうだと まだ確信を得てはいないらしい沙織の答えに、瞬が微かに頷く。 「そう……。そうなんだろうね、きっと。僕も氷河たちと同じだから。あなたが あのまま死んでしまっていたら、僕も死ぬしかないと思ったから――」 呟くようにそう言って、瞬は、ふいに操り師を失った操り人形のように力なく、傍らにあったソファに崩れ落ちていった。 |