単純なこと

- I -







「チェックですよ」
「なに?」
温和な顔立ちの弟に静かに告げられた一輝は、それまで ほとんど義務のように――だが、心ここにあらずで――見詰めていたチェス盤を睨みつけることになった。
そして、大袈裟に渋面を作る。
もっとも、彼の渋面は本心からのものではなく、それが本心からのものでないことを知っているのは、たった今 兄のキングを追い詰めている彼の弟だけだったが。

スキュティア国の王の玉座のある広間。
小国ではあるが豊かな国でもあるスキュティアの王宮は、上質の大理石の床の上に 東方から取り寄せた瑪瑙の柱が並ぶ、小規模ではあるが美しい城だった。
その城にある小さな戦場――国王である兄と その弟の間に置かれたチェス盤――の上では、確かに瞬の言う通り、白のルークが黒のキングを追い詰めていた。
黒のキングに逃げ場はなく、防御するための駒もない。
手のない兄のキングを追い詰めると、瞬は微笑んで、「チェックメイト」と自らの勝利を宣言した。

「む……」
一輝は低く唸り、兄弟の周囲で勝負の行方を見守っていた家臣たちは、一斉に安堵の息とも失望の嘆息ともつかない声を洩らす。
一輝は、特に この勝負に賭けられていた囚人たちの処刑を望んでいた家臣たちに よく見えるよう、諦観のこもった素振りで首を横に振ってみせた。
主君の勝ちを期待していた数人の家臣たちが、『こればかりは仕方がない』と言うように、彼等の主君に力ない笑みを返す。

とはいえ、実際のところ、それは一輝が望んでいた負けだった。
一輝は、この勝負に賭けられていた侵略者の妻子には処刑する価値も意味もないと思っていたし、むしろ彼女たちを さっさとこの城から放逐して余計な仕事から解放されることを望んでいたのだ。
彼等の夫であり父であった者が、自ら仕掛けてきた戦に背走し、あげく 自分の部下の手によって命を奪われてしまった今、彼女等は無力な寡婦と哀れな父無し子にすぎないのだから。

だが、彼女等はまがりなりにも、締結されていた約定を無視して他国に侵略の手を伸ばし略奪を目論んだ男の家族。
彼女等はつい数日前まで、彼女等の夫であり父であった男が他国から略奪して得たもので贅沢な生活に興じていた者たちなのだ。
彼女等は この国の領民たちの平和な生活を乱した者の家族として、この国の領民の憎しみを買っており、領民たちは、当然のごとくに彼女等に対して相応の罰が下されることを望んでいるだろう。
ゆえに、この国の王である一輝は彼女等を処刑し、領民の溜飲を下げてやらなければならなかった。
それは、小国とはいえ一国の王である一輝の権威を誇示するのに役立ち、新たな侵略や反逆を禁じるという効果も生む。
だが、それはそれ以上の効果を――つまりは、他にいかなる利益も――生まない行為でもある。
一輝としては無力な女子供の処刑にかかることになる費用を、領内の道普請の費用の一部にでもまわしたいところだったのだ。

そんな兄の立場と考えを察した弟が、兄に彼女等の去就を賭けたチェスの勝負を申し出、そうして、弟が勝った。
一輝は内心では自らの敗北を喜んでいたが、侵略者の家族の処刑を望む家臣たちの手前、渋面を作ってみせなければならなかったのである。

「では、リディアの前領主の奥方と令嬢の命は僕が預かります。わざわざ処刑する必要もない者たちですよ、彼女等は。このまま野に放ったとて、夫や父の復讐を考えることはないでしょう。奥方は もともとリディアの領主に略奪されて妻にされた、いずこかの村娘と聞いていますし……。彼女の夫の このたびの侵略行為には、明日から これまでの贅沢な生活からかけ離れた貧しい生活に耐えることで報いてもらえばいい。彼女たちの処刑場を準備する費用と人手は、侵略者の自滅によって我が国に併合されることになった領地と我が国を結ぶ道の整備にまわす方が賢明です」

主君の敗北に不満を抱いているらしい家臣たちを納得させるために、瞬が、兄の敗北の有意義を唱える。
新たに増えた領地のことを思い出した彼等は、それで得心したようだった。
腑に落ちた顔になった家臣たちを一瞥してから、一輝は、広間の片隅で自分たちの命がかかった勝負の行方を固唾を飲んで見守っていた二人の女を下がらせた。

「好きにしろ。それにしても、最近 俺はおまえに負け続けているではないか。先日もおまえとの勝負に負けて、山羊盗人の命を助けてやらなければならないことになった。これでは、俺が無能な領主として家臣領民から侮られかねない」
「彼は、病に伏している娘さんに山羊の乳を飲ませてやりたいという思いが募って、魔が差しただけでしたから、温情を示してやった方がよかったんです。兄さんを侮る者などいませんよ。何度僕にチェスで負けても、兄さんは本物の戦で負けたことはありませんから。兄さんを侮って剣を向けようと考える者など、この国には ただの一人もいないでしょう」

「瞬様のおっしゃる通りです」
瞬に賛同の意を示したのは、つい先ほどまで主君の勝利を期待していた家臣の一人だった。
そんな家臣が、瞬の肩を持つように、
「ご兄弟のチェスでの勝負は神の意思を問うものです。何も賭けていない時にはご兄弟の勝負は五分五分で全く互角だというのに、何者かの命を賭けた勝負となると、その結果は、私が存じあげているだけでも、陛下の5勝50敗。おそらく女神アテナは、王に寛容を望んでいるのでしょう」
家臣たちは、一輝の負けに慣れていた。
罪人の命を賭けた兄弟の勝負はいつも拮抗したもので、見守っている者たちは そのたび はらはらさせられるのだが、気がつくと、一輝は弟の駒に追い詰められているのが常だったのだ。

今回の侵略者の妻子も、数日前に賭けられた山羊盗人も、本来は処刑・処罰を免れ得ない者たち。
だが、前者の処刑は無益で、後者の処罰は同情されるべきもの。
神の意思は、それらの者たちが生きて改心することにあるのだ。おそらく。

神ならぬ身の人間は、誰もが完全に善であり正であることはできない。
やむを得ない事情 もしくは過失や過誤によって、罪を犯すことが決してないとは言い切れない。
誰にでも過ちを犯してしまう可能性はある――自分が罪を犯すこともあるかもしれない。
だが、その時に助かる道があると思えることは、侵略者の妻子や つましい農民だけでなく、王に忠誠を誓っている家臣や貴族たちの心にも幸いなことではあったのだ。

「まあ、俺も神の裁定には逆らえんからな」
一輝が、法に照らせば処罰を免れ得ない罪人を許せば、家臣や領民から不満が出るが、それを瞬が救う分には、家臣領民たちも『致し方ないこと』と納得する。
情状酌量の余地がある者、あるいは処罰を科すことで禍根を残しかねない者の去就は、領主とその弟のチェスの勝負で決定されるのが、この国の慣習になっていた。
二人の勝負は神明しんめい裁判であり、神意を問う行為。
今回のように、瞬が兄との勝負を申し出ることもあったが、神の慈悲を得られると信じる者、あるいは神の慈悲を望む罪人が、法を超越した兄弟の勝負による裁定を希望することも許されていた。

あくまでも法を遵守し 領地領民を厳しく治める領主と、人の情に従い寛容を示す弟。
領民や家臣たちは、法と厳格な王を恐れて自らを律するが、しかし、情の深い弟によって救いの道があることも知っている。
いわゆる飴と鞭から成る この仕組みは、家臣や領民を被支配の圧迫から解放し、不満を拡散させることにも役立っていた。

チェスでの勝負は、国王(つまり、法である)一輝と、弟の考えが対立した時に行なわれることになっているのだが、瞬が兄にチェスでの勝負を持ちかけるのは、兄が この者は助けたいと思っている時、処罰の必要はないと思っている者に限られていた。
この者は法を曲げても助けるべきと兄が考えた時、弟である瞬が、そんな兄の考えを察してチェスでの賭けを持ちかける。
二人は その心根が非常に対照的な兄弟――冷徹な兄と心優しい弟――ということになっていたが、その実、兄弟の考えが異なっていることは全くなかったのである。

兄弟が治めているスキュティアという土地は、国と言うには あまりに狭く小さな土地で、領民も5万人ほどしかいなかった。
統治者の世襲が許され、かつ、他の何者にも支配されていなかったので、便宜上 王国を名乗っているにすぎない。
神話の時代、神々の格別の寵愛を得て 女神アテナに与えられた土地と支配権――というのが、スキュティア国の起源ということになっていた。
気候は穏やかで地味ちみは豊か。各種の資源も豊富で、愚王が出たことがないため、王室は民に愛され、国内は長く平和を保ってきた。

今回のように他国の者が侵略を試みた例は過去にも幾つかあったのだが、それは野心に燃えた新興の者――言ってみれば、成り上がり者――が、神への畏怖より欲を優先したあげくの愚挙愚行。
伝統ある大国は、決して この小国に侵略の手を伸ばしてくることはなかった。
それが女神の加護によるものであれ、支配者の武勇・賢明によるものであれ、スキュティア国が外敵の侵略をことごとく退けてきたのもまた、厳然たる事実だったから。
戦いの女神の加護を受けているがゆえに強く平和な国――というのが、スキュティア王国に対する他国の一般的な認識だった。






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