瞬の懸念は杞憂に終わった。 兵を率いて北方の穀倉地帯に向かった一輝が、侵略軍と対峙したのは その日の夕刻。 奇跡の山越えをしてのけ、電光石火の早業で砦を攻め落としてしまった敵軍は、だが、その途端に足並みを乱し、総崩れになり、その敵将はあっけなくスキュティア軍に捕えられてしまったのだ。 兄が北に向かった翌日午前中にもたらされた その知らせに、瞬は安堵の胸を撫でおろし、同時に、これには何かの策略によるものではないのかという疑念を抱くことになったのである。 その気になれば数十万の兵を動員することもできる北の大国。 にもかかわらず、スキュティアに攻め入ってきたのは僅か200の、どうやら正規軍ではなくヒュペルボレイオスの一領主の私兵らしい。 山越えの困難を考慮し、少数精鋭の軍編成を行なったのだとしても、ならば なおのこと、突然の総崩れに理由がつけられない。 それは、あまりに不自然な――理屈に合わない――事態だった。 敗軍の将は、身分は 北の国の東北の地域を治める一領主にすぎない。 だが、彼の領地は、小国スキュティアの優に3倍はある。 北の国の者が、より豊かな実りのある南方の土地を欲することは、さほどおかしなことではなかったが、今現在でも彼の領地の農作物の収穫量はスキュティア国一国の倍はあるだろう。 それでいて、彼の領地の主産業は農業ではなく、牧畜や鉱業林業なのだ。 そんな豊かな土地を治めている領主がなぜ こんな無謀を企んだのか。 瞬の中に生まれた疑念は、どうあっても消えてくれなかった。 ヒュペルボレイオスの領主の国境侵犯から3日後。 軍装を解いたスキュティア国の王と重臣たちが居並ぶ広間に引き出されてきた敵将の姿を見て、瞬の疑念はほとんど確信に変わったのである。 ヒュペルボレイオス国の東の広大な土地を治める領主は、敗軍の将にしては あまりにも堂々としすぎていたのだ。 堂々としているどころか、彼は傲然と顔をあげ、彼を捕らえて処刑しようとしている他国の王を、むしろ満足そうな表情で睥睨していた。 それは虚勢と見ることもできたが、彼の軍装には乱れもなく、表情にも 屈辱や疲労の影がない。 瞬の目には、彼が 最初からこうなることを覚悟して――あるいは、期待して――他国の領地を侵し、捕えられたようにしか見えなかったのである。 何かが変だと、不自然だと、瞬の胸中で警鐘が鳴り始める。 それは瞬自身にも耐え難いほど大きく速く鳴り響き、瞬を混乱させることになった。 そうして、その警鐘に背中を押されるように、瞬は その言葉を口にしてしまっていたのである。 「彼の命を賭けましょう。チェス盤の用意を」 そう瞬が言い出した時、一輝とその場にいた家臣たちは、皆 一様に驚くことになったのである。 王の帰城まで ひたすら兄の身を案じていた王弟。 瞬にとって 今回の争乱を引き起こした者は、彼の兄にしてスキュティアの王である者の身に害を為そうとした極悪人にして危険人物であるはずだったのだ。 「瞬。突然 何を言い出したのだ。この者の犯した罪は明白だ。許したら、しめしがつかない」 「でも、何か……違う……。彼は、最初からこえなることを覚悟していたような――野心や欲にかられた侵略者とは違う。彼の目は……」 「瞬……!」 一輝は弟の判断に絶対の信頼を置いていた――これまでは。 それが兄の判断と異なるものだったことは、これまで ほとんどなかったから。 時に 救ってはならない者を賭けて勝負を持ちかけてくることはあったが、それは一輝が知らない情報を得ていた場合、あるいは、わざと兄との勝負に負けて 兄の裁定に疑念を抱いている家臣を納得させるための深慮であることが多かったのだ。 しかし、今、彼等の前に立つ敗軍の将の罪は明白、情状酌量の余地もなければ、家臣も全員が厳罰を望んでいる。 もちろん彼は非力かつ無害な女子供でもない。 一輝は、今回ばかりは、この男ばかりは、許すわけにはいかなかった。 北方に懸崖な山々があるからと油断して守りを手薄にしていた場所を あまりに的確に衝かれたことに、彼は少々――多分に――誇りを傷付けられていた。 その件に関しては、『よい教訓を与えてくれた』と、無謀なこの男には感謝もしていたが、だからといって明白な罪を犯した他国の者に特別の温情を示すことはできないし、したくもない。 兄の考えと立場がわかっていない瞬ではないはずなのに――と、一輝は弟の言を訝った。 しかし、瞬はそんな兄に食い下がってきた。 「彼は、我が国の領民の命を奪ったんですか? 財を略奪したの? 農地を荒らしたの?」 「……いや。完全にこちらの隙を衝いて 我が領地を侵しはしたが、それは麦畑の麦踏みをしてくれたようなもので――。だが、北の砦を襲い、奪った」 「砦にいた兵たちに死傷者は出たのでしょうか」 「それは、一兵も――」 歯切れの悪い兄の返答に我が意を得たとばかり、瞬は気負い込んだ。 「おかしいでしょう。彼は我が国の侵略を目的として攻めてきた者のはず。目的の国の兵が常駐している砦を攻め落としておきながら、我が軍に一人の死傷者も出ていないなんて。彼の侵略行為は あまりに不自然で無謀で無益です」 「それはそうだが、単に この男が極めつけの馬鹿だったということも――」 「その可能性が皆無とは言い切れませんが、そんな愚かな人物が、我が国の3倍の領地、2倍の領民のいる土地を何年も治めていられるものでしょうか」 「む……」 「ヒュペルボレイオスの国では、数ヶ月前に国王が代替わりしています。今までとは何かが違ってきたのではないかと、僕はそれが気掛かりなんです。彼は良い情報源になってくれるでしょう。性急に彼の命を奪うのは 「うー……」 どうして この弟は、花にも少女にも見紛う風情をしながら、こんなにも慎重で賢しいのかと、一輝は軽い苛立ちを覚えてしまったのである。 否、彼が苛立ちを覚えたのは、瞬の主張に異議を唱えられない自分自身に対してだった。 つい先刻まで、この男には すみやかに死をくれてやらなければなるまいと思っていたのに、瞬の理に押されて、彼はその考えにためらいを感じ始めていた。 だが、今 問題なのは、王の意思ではなく、瞬の主張を尤もなものと思い始めている家臣たちでもなく、国民のほとんどが この男の処刑を当然のことと考え期待している事実なのである。 「……賭けましょう。僕はこのまま彼の命を奪うことには賛同できない」 その場で、瞬の言を最も理解できずにいたのは、もしかすると、死を覚悟して他国の王と王弟の前に立っている敗軍の将だったかもしれない。 いったい自分の身に何が起こっているのか――起ころうとしているのか、彼は全く現状把握ができていないようだった。 やがて、王の玉座の脇にチェス盤の乗った卓が運ばれてくる。 一輝は、それでも、いつもとは異なり、勝つつもりで弟との勝負に臨んだのである。 彼はそれまで、特段の事情がない限り、弟との勝負には自分が負けてやっているつもりだった。 が、彼はその日、実はやはり瞬が強いゆえのこれまでの勝負だったのだと、今更ながらな事実を思い知ることになったのである。 要するに、明白な罪を犯した者を賭けた その勝負で、一輝は弟に勝てなかったのだ。 しかも、勝負はあっというまについた。 「チェックメイトですよ」 「瞬、本当にどういうつもりなんだ。何らかの事情があるにしても、この男は 「え?」 そう兄に問われて、瞬は初めて、敗軍の将の 瞬はこれまで、彼の表情にばかり気を取られ、その顔をまともに見ていなかったのだ。 兄の言う通り、たった今 瞬によって処刑を免れた若い男は、実に整った貌の持ち主だった。 北の国の人間特有の、陽の光を吸い取ったような金色の髪。 北の国の人間が求めてやまない晴れた夏空の色の瞳。 体格もよく、かなり鍛えられている。 きつい眼差しが、彼を優男には見せていなかったが、彼に優しく微笑まれたら、女たちはこぞって彼のために命を投げ出すことになるだろうと、瞬には確信できた。 「ああ、確かに こんな綺麗な人なら、使い道はいくらでもありそうですね。失礼。気がつきませんでした。武器は取り上げていますね」 おそらく兄に口を挟ませないために、瞬は、敗軍の将に詫びることと、彼の両脇に長槍を携えて立っている兵たちに彼の武器の携帯の有無を尋ねることをした。 兵が頷くのを見て、瞬が兄の方に向き直る。 そこには、金髪の敗軍の将とは かなり趣の異なった端厳な貌を憮然とさせているスキュティア王の顔があった。 「領民や家臣にしめしがつかん。この男は当然 国境侵犯の罰を受けるものと、誰もが期待しているのだ」 「わかっています。今回の無謀の理由を確認して、助ける意味がないとわかったら、兄さんの手にお返しします。しばらく彼を僕に預けてください」 一輝は弟の言葉を 視線で受けとめるだけ受けとめて、その数秒後には、彼が受け取ったものを そのまま広間にいた家臣たちに送り投げることをした。 王に渡された言葉を、スキュティアの家臣たちが、例によって『こればかりは仕方がない』という顔をして、発言主に頷く。 瞬は、物わかりのいい兄と家臣たちに微笑してから、チェス盤の置かれた卓用の椅子から立ち上がり、敗軍の将の前にゆっくりと歩み寄っていった。 「大人しくしていてくださいね。あなたは僕のものになりました」 「……」 この国の宮廷での神明裁判の慣習を知らない他国の領主は、何がどうなっているのか全くわかっていないようだった。 それでも、自分がただちに処刑されることはなくなった事実だけは、彼にも わかったらしい。 命の恩人に対して、彼は吐き捨てるように言った。 「さっさと処刑しろ」 「それがあなたのお望みのようだけど、その望みを叶えてあげる義務は僕にはありません」 不可解な虜囚に、瞬がきっぱりした口調で告げる。 途端に、それまで傲岸な態度と表情を崩すことのなかった北の国の領主は、僅かに うろたえ、そして、目で見てとれるほど あからさまに その頬を青ざめさせた。 「頼む。処刑してくれ」 「そうするとどうなるの? 大事な家臣を殺された恨みを晴らそうとしたヒュペルボレイオスの王が、あなたの死への報復を大義名分にして、この国に攻めてくるの?」 「あの男がそんなことをするものか!」 「北の国の王は、そんなことをしない程度には分別を備えている国王ですか?」 金髪の虜囚が自身の主君にあまり好意を抱いていないことを察して、瞬が探りを入れる。 探りを入れられていることは承知しているようだったが、彼は、それは秘密でも何でもないと言わんばかりの口調で、瞬の質問に答えてきた。 「女には毎日乗っているが、生まれてこの方、ただの一度も馬には乗ったことがないらしいと評判の男だ」 それは、あの奇跡の冬山越えを成し遂げた武人でもある人間には 軽蔑に値することだったのだろう。 瞬にそう答えてから、彼は、その事実が不愉快でならないように、端正な貌を 瞬が驚くほど激しく歪ませた。 「馬には、僕でも乗れるのに……」 即位するなり家臣に他国侵略を命じたのだとしたら、北の国の王は野心に満ち 血気に逸った王なのだろうと、瞬は考えていたのだが、事実はそうではなかったらしい。 即位しても、以前の家臣を入れ替えることはしなかったと聞いて、前王の路線を踏襲するものと安心していたのだが、もしかすると それはただ漁色ほどには政治に関心を抱いていないというだけのことだったのかもしれないと、瞬は、あまり楽しくない方向に考えを改めることになった。 それがわかっただけでも、隣国の領主の命を永らえたことには意味と益がある。 瞬は満足して、命拾いをした男に、彼が今 置かれている立場がどういうものなのかを知らせてやったのだった。 家臣たちを完全に納得させるために、広間に響く声で。 「今すぐにあなたを処刑することは、我が国に不利益をもたらす可能性があるような気がしてなりません。この突然の侵略の理由が解せない。あなたが率いてきた軍の突然の総崩れも、わざと捕まるための策略だったようにしか思えない。真冬に あの険しい山を越えることができるほどの兵を従えているあなたが、どうして手もなく我が軍の手に落ちたのか。兄の強さを知っている僕が、本気で兄の身を案じるほどだったのに、こんなにあっさり……。その不自然の理由を 僕が納得できるように説明できるのなら、今すぐ あなたを処刑してさしあげないこともありませんが――いかがですか」 瞬の問いかけに答えられないことが、彼の答えだった。 |