国境を侵し他国に攻め入ってきた重罪人を放ったらかしにして、スキュティア王がチェスに興じ始め、スキュティア国の家臣団が その勝負の行方に固唾を呑み始めた時には、ほとんど「俺を無視するな!」と叫んでしまいそうになったのだが、それがただの遊戯ではなく、他国の軍に降った虜囚の命を賭けた重大なゲームだったことに、氷河はすべてが終わってから気付いた。
そうと知っていたら、虜囚を処刑すべく奮戦してくれていたらしいスキュティア王の勝利を、せめて心中で祈ることができたのに――と、氷河は思ったのである。
結局チェスでの勝利は、虜囚の命を救おうとした 妙に綺麗な顔立ちの子供のものになり、おかげで氷河の計画は何もかもが狂ってしまった。
その事実に、氷河は呆然とすることになってしまったのである。

こんなはずではなかったと焦慮を覚え始めていた氷河が連れていかれたのは、玉座のある広間から さほど離れていない、おそらくは王への謁見者のための控え室らしい部屋だった。
派手でも瀟洒でもないが、品良く丁寧に作られた上質の絹張りの椅子が数脚とお茶用の華奢なテーブルが2つあるだけの温かい印象の部屋。
既に氷河の両脇に兵はついておらず、氷河をその部屋に導き入れたのは、王に勝利の栄誉を譲る家臣の美徳を心得ていない、さきほどの綺麗な子供。
その子供が、椅子に掛けるように、氷河に手で示してくる。
氷河がその指示に従うと、子供は にこにこ笑って、氷河の正面に立った。
視線の高さが、氷河のそれより子供のそれの方が僅かに高くなる。

「え……と、氷河さんでしたね。僕のことは、瞬と呼んでください。とりあえず、今のところは敵同士なので呼び捨てで。構いませんか?」
これから友人になろうとしている二人でもあるまいに、互いの名や その呼び方など、それこそどうでもいいことだと、氷河は少しく苛立ちながら思ったのである。
こんな時でなかったら、顔立ち以上に綺麗な目をした この子供の名を口にする許しを与えられたのは実に幸運なことと喜ぶこともできていただろう。
そうではない現在の自分の境遇が、更に氷河の苛立ちを大きなものにした。

“瞬”が“敵”の前で無表情を保つべく努めている氷河の顔を覗き込んで、また やわらかい花のように微笑する。
「さあ。ここなら誰もいません。我が国の者も、あなたの国の者も。こんな馬鹿げた捕らわれ方をした訳を話してください」
瞬のその言葉を聞いて、氷河は、今の自分は他国の子供の瞳に心を奪われてなどいられないのだという事実を思い出したのである。

「俺に従ってきた兵たちは――」
「あなたの副官と曹長クラスの数人はこの城で監禁されています。兵卒には、ちょうどいいので、イストロス川の防波堤の石運びをしてもらうために あの地に留まってもらいました。武器は取り上げさせていただきましたし、当然 厳しい監視付きですが、食事等は十分に与えるよう指示してあります。せっかくの労働力ですから。兵たちは皆、大層大人しくしているそうです。誰もがどこか悲壮な様子をしていると、つい先程、現場監督からの報告がありました」

「……」
ともかく彼等は生きている――殺されてはいない――ということを知らされた氷河は、その一事だけで、この綺麗で生意気な子供にどんな無理難題をふっかけられても我慢してやろうという気になったのである。
200人の兵は、氷河のために死を覚悟してくれた、氷河にとっては自分の命よりも大切な者たちだった。

「ですが、あなたが正直になってくれないと、彼等の命の今後の保証はできません」
氷河を諭すような笑顔で、綺麗な顔の子供が冷酷な言葉を投げてくる。
賭けられているのは、主君の覚悟を知って 他国にまでついてきてくれた健気な兵たちの命。
脅迫として、それは十分な力を持っていた。
だから、氷河は観念したのである。
この綺麗な子供に逆らっても無駄。
逆らい続けると、傷を負うことになるのは自分の方なのだと。

「国王に、母を人質に取られた」
呻くように、その事実を瞬に告げる。
瞬は僅かに その瞳を見開いたが、すぐに気を取り直したように、氷河に問い返してきた。
「国王というのは、ヒュペルボレイオスの国の現在の王?」
「あの馬鹿の他に誰がいる」
「失礼。そうですね。そんな卑劣なことをする国王が そう大勢いるとは思えません」

現実には“人質”という慣習は、多くの国にある。
だが、それは、主君に忠誠を誓う者が形式的かつ自発的かつ一時的に 自ら差し出すもの。
預かった側は、その人質を丁重に遇するのが、忠誠を誓われた人間の当然の勤めとされていた。
人質というものは、力ある者が その力にあかせて“取る”ものではなく、“差し出される”ものなのだ。
普通に名誉を重んじる支配者・権力者には。
だが、氷河は、自国の王に母を取られた――略奪されたのだった。

「スキュティアの国をヒュペルボレイオスに併合するまで、あるいは俺が死ぬまで、母は解放しないとヒュペルボレイオスの国王に言われたんだ」
『ヒュペルボレイオスの』の部分に力を入れて、氷河が、国王から提示された人質解放の条件を告げる。
綺麗な子供は、それを奇妙な条件だと感じたようだった。
前者はヒュペルボレイオス国の益を図ることを目的とする条件と言えないこともなかったが、後者はどう考えてもそうではないのだ。
子供の疑念は氷河の疑念でもあったのだが、事実、ヒュペルボレイオスの王が氷河に提示した条件はその2つだったのだ。
氷河は、母の命を救うために、その2つの条件のいずれかを成し遂げなければならなかった。

「今のヒュペルボレイオスの国王は、俺の又従兄で、ほとんど付き合いはないが、とにかく俺とは そりが合わない男だ。幸い、俺の領地は都との間に距離がある。だからずっと疎遠にしていたんだが、さすがに即位の祝典に出ないわけにはいかなくて、俺は母と共に都に赴いたんだ。そこで、母を奪われた」
「それは……」
「首尾よくスキュティアを手に入れても、そうなればそうなったで、あの愚王は俺が戦死するまで俺をこき使い続けるだけだろう。俺は平和な国を乱し奴隷を増やすような卑劣な侵略行為の片棒を担ぐことはできない。そんな汚名には耐えられない。となれば、母を解放させるには、俺が死ぬしかない」

とはいえ、ただ自害するだけでは、あの王は、氷河が王の命令に背いたと臍を曲げかねない。
だから氷河は、王の命令に従ってスキュティアに兵を出し、その上でスキュティア国に処刑されることを企んだのである。
その計画を、綺麗な目をした子供が 詰まらぬ遊戯で台無しにしてくれたのだ。
氷河の最も激しい怒りは、もちろんヒュペルボレイオスの王に向けられていたが、彼は、彼の計画の遂行を妨げてくれた瞬に対しても 少なからぬ憤りを覚えていた。
が、敵国の子供は、氷河のそんな憤りには全く気付いていないらしい。
至極 落ち着いた声で、子供は氷河の計の危うさを指摘してきた。

「女性を人質に取って 家臣に他国の侵略を命じるなんて、そんな卑劣なことをする人物が、あなたとの約束を守って、あなたのお母様を解放するでしょうか」
「だが、他に道はないんだ!」
「お母様がそんなに大事?」
「当たりまえだ! 父亡きあと、母はひとりで俺を慈しみ育ててくれたんだ」
「……」

それまで、色は様々に変化するにしても常に微笑を浮かべていた綺麗な子供――瞬――が、不意に色のない無表情になる。
刺すように鋭い視線で、瞬は氷河を凝視してきた。
氷河は、瞬のその眼差しに困惑したのである――というより、緊張した。
まもなく瞬は、微笑の形は作らず、だが瞳に再び微笑めいた色を浮かべることをした。
そうしてから、瞬の唇が発した言葉は、氷河にとっては なかなか きついものだった。

「では、まず、あなたの命という犠牲の上に 自分が生き延びたことを知った時、あなたのお母様が自分が生きていることを喜ぶかどうかを考えてください」
「……」
「考えるまでもないことでしょう。では、お母様を救い出す方法を考えましょう」
「……」
考えるまでもないことへの氷河の返答を、瞬は待っていてはくれなかった。
待たずに、氷河の母の居場所はどこなのかとか、一緒にさらわれた者はいたのかとか、そういったことを、矢継ぎ早に 哀れな息子に問いかけてくる。
そんな瞬の前で、氷河は――本音を言えば、思考の転換が追いつかず、往生することになった。
先走る異国の子供を、慌てて元の場所に引き戻す。

「ちょ……ちょっと待て。なぜ おまえがそんなことに首を突っ込んでくる」
「……理由が必要ですか? 僕はそういう卑劣が嫌いなの。特に権力を持つ者の卑劣は、多くの人間を不幸にしますから」
「……」
瞬は至極あっさり答えてくれたが、しかし、これは瞬には全く関わりのないことである。
スキュティアの王宮に出入りし、王とも ほぼ対等に話をしていたところを見ると、瞬の身分は“取るに足りない子供”ではない。
そんな人間が、へたをするとヒュペルボレイオスの王に敵対するような事柄に関わることは、どう考えても危険である。
それは、スキュティアの国に不利益をもたらすことがないとは言えない行為なのだ。

氷河には、異国の子供が告げた“理由”をそのまま受け入れてしまうことはできなかった。
何も知らない子供が正義感に燃えているだけのことと思えたなら、瞬の言い分をそのまま信じることもできたのだが、これまでの言動を見る限り、瞬が そこまで軽率な子供でも軽薄な子供でもないということは、火を見るより明らか。
当然、氷河は、瞬が告げた“理由”の裏を探ることになったのである。
そして、そういう顔――瞬を信じていない顔――をした。
瞬が、氷河の いかにも人を疑っているような顔を見て、困ったように苦笑する。

「得心できませんか? なら、あなたがとても綺麗だからという理由でもいいんですが」
「……」
これはどう考えても馬鹿にされている。
まだ若造の部類とはいえ この国の3倍の領地を治めている大領主が、成人までまだ何年もありそうな子供に からかわれているのだ。
この状況は全く愉快なことではなく、氷河は当然のごとく むっとした顔になった。
色々言いたいことはあったし、事実 氷河は言おうとした。
氷河がそうしなかったのは、口を開きかける直前に かろうじて、自分が囚われの身であることを、彼が思い出したから――だった。
意識して感情の乗っていない声を作り、彼の命をスキュティア王から預かったと言う子供に お伺いを立てる。

「俺には、おまえに質問することは許されるか」
「どうぞ」
「おまえは剣をいているようだが、男か」
自分が他国の生意気な子供に怒りをぶつけることができないのなら、せめて生意気な子供に自分と同じ怒りをプレゼントしてやろうという、それは氷河なりに考えた意趣返しだった。
が、瞬は、そんなことで腹を立てるほど素直な子供ではなかったらしい。
瞬はにこやかに笑って
「僕はこの国の王の実弟です」
と答えてきた。

広間でのやりとりから、王の近親なのだろうと察してはいたのだが、スキュティアの王とこの子供――少年――は、血縁にしてはあまりに似ていない。
だから氷河は自分の推察に確信を持てずにいた。
何か特殊な嗜好の持ち主であるところのスキュティア王が、寵姫を男装させて側に置いているのかという考えもあったのだが、どうやらそうでもなかったらしい。
スキュティア王と この綺麗で生意気な子供はただの・・・血縁――兄弟であるらしい。
氷河は、その事実を知って、なぜか ほっと安堵の息を洩らすことになった。






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