氷河が軟禁されることになった部屋は虜囚を閉じ込めるための牢ではなく、必要な家具はすべて揃った賓客用の部屋だった。
清潔な寝台。椅子や卓。
部屋には王宮の庭を望むことのできるバルコニーがあり、自由に外の空気を吸うこともできる。
望めば、武器以外の物は衣類でも書物でも遊戯の道具や楽器まで揃えてもらえそうだった。
大食堂で王たちと食事を共にする光栄は さすがに与えられなかったが、氷河の許に運ばれてくる食事は王たちが食しているものと同じものだと、氷河の食事を運んできた給仕は言っていた。
その上、氷河は、あろうことか、午後のお茶まで楽しむことができたのである。
手足を縛められることもない。
しかも、毎日“王の実弟”が虜囚の部屋にやってきて、何か不便はないかと尋ねることさえしてくれるのだ。
快適この上ない華麗な牢で、氷河は、今の自分は いったい何者なのかと、自身の身分と境遇を疑うことになったのである。

もちろん、瞬の訪れが迷惑なわけではなく――決して当人には言えなかったが、氷河は、瞬に会い、瞬の顔を見、瞬の声を聞き、瞬と会話を交わすことを『非常に楽しい』と感じていた。
瞬は、不要なことは話さないが、必要なことばかりを話すわけでもなく、その話題が何であれ、氷河は瞬と話していること、その時間が心地良くてならなかった。
聡明で機転が利き、氷河はいつのまにか、話さなくていいことまで瞬に話してしまっていたのだが、不思議と後悔はしない。
瞬は、特に氷河の母親に興味があるらしく、その話を聞きたがった。
そして、氷河は、母のことならいくらでも語ることができたから。

「スキュティアの国は 飴と鞭で統治されているという噂は聞いていたが、スキュティアの飴がこんなに甘いものだとは思ってもいなかった。これは到底 侵略者略奪者に与えられる境遇じゃないぞ」
「僕は甘いだけじゃなく、ちゃんと塩気もありますよ。あなたが、ヒュペルボレイオスの王位継承権を持つ人だというのは本当?」
その塩気が美味いのだとは、口が裂けても言えない。
突然 瞬に塩辛い話題を振られても、氷河は既に その塩辛さに眉をひそめることもできなくなってしまっていた。

「上に三人もいる」
「その三人は、虚弱だったり、無能だったり、残虐で人望がなかったりして、王位を継げそうにない人たちのようですね。彼等の即位は、ヒュペルボレイオスの民も望んではいないでしょう。現国王もあまり芳しい噂は聞きません。だから王はあなたを厄介払いしたかったのかな」
「俺が王位簒奪を企んでいるとでも思ったんだろう。現国王は自分の子が望めないからな」
「どうしてです」
「どこぞの女から たちの悪い病気を貰ってきたらしい」
「病気?」
「梅毒。既に身体の一部が腐れただれ始めているという噂だ」

これまで いつも滑らかだった瞬の声と言葉が、初めて滞る。
それは、瞬が通常用いる語彙の中にない単語だったらしく、瞬は一瞬 きょとんとして、幼い子供のような表情を浮かべた。
そうして、記憶の辞書の中から、滅多に使わない その単語を、瞬は何とか探しあてることができたらしい。
瞬が 少女めいた顔を僅かに歪めることになったのも当然のこと。
それは、現代では完治の見込みのない、不名誉な病の名だった。
「あ……」
たとえ王妃になれると言われても、それなりの身分を有する良家の子女がヒュペルボレイオスの王の妻になりたいと望むことは まずないだろう。
それ以前に、病の進行具合いによっては、王自身の余命の心配をしなければならない。

あまり瞬には聞かせたくない話だったが、それはヒュペルボレイオスの隣国の王族には非常に重要な情報でもあるはずである。
『ヒュペルボレイオスの王の余命は残り少ない』ということは。
未来への展望がある者が考えることと、未来への展望を持てない者が考えることは、必ずしも同質のものにはならない――かもしれない。
そう、氷河は考えたのである。

そういった考えは、氷河がスキュティアに来てから抱くようになった考えだった。
これまで、氷河は、突然自分の上に降ってきた試練を乗り越えることだけを考えて、彼にその試練を与えた男の心情に思いを馳せたことがなかったのだ。
所詮、ヒュペルボレイオスの王と自分は価値観が違い、人種が違う。
氷河は これまで、そんな男の心情を察することは、それこそ時間の無駄――という考えでいた。
だが、瞬と言葉を交わし、様々なことを話し合っているうちに、その行為が非常に重要なことだということが、氷河には――氷河にも――わかってきたのである。
敵が――敵でなくてもいいだろうが――置かれた状況を考え、その心を推し量ることによって、人間の目には適切な対処方法が見えてくるのだ――という事実が。

「あなたが僕の国でいつまでも処刑されずに生きていたら、あなたの王はどう動くと思います?」
瞬が、なんかと気を取り直したように、氷河に尋ねてくる。
瞬にしてみれば、兄と区別するために用いた言葉だったのだろうが、『あなたの王』という瞬の言い方がひどく不快で、氷河は右の目を軽くすがめることになった。

「考えられるのは、俺の身柄を引き渡せと要求し、そして敵に内通したという濡れ衣を着せて処刑するパターンか。あるいは、今回の侵略は俺が勝手にしたことだから、さっさと処刑しろとスキュティアに要求してくる。まあ、そのどちらかだろうな」
「でも、僕は、どちらの要求も突っぱねます。そうしたら?」
「俺がスキュティア王家の力を頼んで、ヒュペルボレイオスの王位簒奪を計画しているのだという疑心暗鬼に陥る――かな。そうなると、俺の母の身が――」
「あなたに反旗を翻させないために、あなたのお母様は大切な人質です。むしろ、あなたが死ねば、人質には用がなくなったと判断して 始末することを考え始めるかもしれません。あなたには、迂闊に死ぬことは許されていません」

「……」
瞬に出会うまでは、自分は死ぬしかない―― 一日も早く死ななければ――と、氷河は考えていた。
だが、今は、死ぬことだけはしてはならないと思う。
スキュティアに来るまでは――瞬に出会うまでは――母の命を守ることさえできるなら 自分の命などどうなっても構わないと思っていたのに、今は、氷河は死にたくなかった。
今の氷河には、生きて見詰め続けていたいものがあったのだ。

「氷河は生きていた方がいいです。お母様のためにも。ヒュペルボレイオスの王は、氷河が生きている限り、切り札の命を奪おうとはしないでしょう」
「そのようだ。俺の目的を果たすためには、俺は生きていた方がいい。だが、スキュティアは――俺が生きたまま この城に身を寄せていることで、迷惑を被ることになるのではないか」
「そんなことにはなりません――しません」
瞬は明るく笑って、氷河の懸念を一蹴した。
瞬は いつも、与えられた試練を より良い状況を手に入れるための材料にし、負わされた荷を 益になる財に変えようとする。
そんなふうに生きている。
瞬は、ヒュペルボレイオスの王とは対照的な――むしろ対極にあると言っていいかもしれない――人間だった。
瞬は、いつも希望だけを見ている人間なのだ。
いったい瞬の希望の行く手には何があるのか、氷河が興味を抱くことになったのは その点だった。
それ・・を見詰め続け 見極めたいという欲求が、強い力で氷河の心を生に傾かせる――のだ。

「僕は、兄に、あなたを利用して敵国を手に入れようとしている狡猾な王の振りをしてもらおうと思っています」
「振り? 本当にその野心はないのか?」
氷河は、決して、瞬の言う『振り』という言葉が偽りなのではないかと疑ったわけではなかった。
むしろ、『振り』ではなく 本気であってくれればいいという期待をこめて、氷河は瞬に問い質したのである。
この瞬の兄なら、おそらくスキュティア王も 絶望よりは希望を見詰めるタイプの男なのだろう。
そういう人物を王に戴く方が、ヒュペルボレイオスの民のためには良いことのような気がした。

「もちろん、本当に手に入れてしまってもいいんですけど……。大きな国というのは、厳格に法だけで民を治めなければならなくなるので、僕たちの今のスタイルは通用しなくなるでしょう? 僕たちがヒュペルボレイオスの王にとって代わることが ヒュペルボレイオスの民の益になると自信をもって言うことは、僕にはできないんです。ただ、ヒュペルボレイオスの領民が他国人の王を望んでいるのなら話は別ですけど。あなたを傀儡の王にすることもできますし、スキュティアの王家がヒュペルボレイオスを直接統治してもいい。僕の兄は、今のヒュペルボレイオス王よりはヒュペルボレイオスの民や家臣に歓迎されそうですし、それも意外と容易にできるかもしれませんね」
自国が他国をのっとる可能性を、例え話にしても、瞬は全く悪びれた様子を見せずに語る。
『民のためになる』という条件が満たされさえすれば、それは必ずしも悪事ではない――と、瞬は考えているようだった。

「ともかく、今よりは良い状況になるようにしましょう。僕たち、せっかく こうして出会えたんですから。きっと 神があなたの力になれと、僕に命じているのだと思います」
「神など――」
「神を否定はしないでくださいね。我が王室は、女神アテナにこの土地を与えられ、世襲で治めることが許された家ということになっているんです。神は、人間の力に期待しているんですよ。多分」

神などというものは本当に存在するのかどうか わからないし、本当に存在するのだとしても当てにはならない――と言おうとした氷河を、瞬が遮る。
神の存在と力を肯定しているようで、その実 瞬の主張は氷河の意見と大して変わらないものだった。
『神は、人間の力に期待している』
それは、つまり、神は人間に『神に頼らず、自分の力でどうにかしろ』と言っているのだ――ということではないか。

瞬と言葉を交わしているうちに、氷河はなぜか ひどく楽しい気分になってきていた。
それは今日に限ったことではなく、昨日も一昨日も その前の日も――瞬と向き合っている ほぼすべての時間が、氷の心を高揚させる時間だった。
瞬の考えと言葉は、いつも そのほとんどが 希望と可能性にっている。
その二つは、母をヒュペルボレイオスの王に奪われた時に氷河が失ったもので、ヒュペルボレイオスの宮廷では ついぞ接したことのないものでもあった。






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