希望と可能性――叶うことがなくても、語っているだけでも楽しい、その二つのもの。 よもや、死を覚悟して足を踏み入れた異国の地で そんなものに出合うことがあろうとは。 氷河は、この邂逅にこそ、神の意思を感じていたのである。 氷河にその二つのものを見せてくれた瞬は、更に、その二つのものを氷河に分け与えようとさえしてくれた。 「ヒュペルボレイオス王に対して、『敵は氷河ではなくスキュティア王』と思わせる根回しが済むまで、しばらくは――そうですね。僕の身辺警護の仕事でもしていてくれますか。何もせずに部屋に閉じこもっているのは退屈でしょう」 「それは構わないが……おまえは、敵に自分の身を守らせるのか」 「敵など、味方にしてしまえばいい」 「簡単に言ってくれるものだ」 「実際、簡単なことだと思うんですけど――」 瞬は心底からそう信じているようだった。 あるいは、そうあるべきだと考えているようだった。 「僕はこれまで、兄の側で、王や法によって裁かれることになった幾人もの人を見てきました。その中には、封建制度という仕組みに縛られ、忠義を尽くす価値のない者のために、仕方なく悪事を働き、敵を作る羽目に陥った人も多くいた。そういう人たちを見るたび、僕は、もっと自由で柔軟な考え方を持てばいいのにと思い続けてきました」 「世の中は、そう単純にはできていない」 「世の中が複雑に見えるのは、単純なことが積み重なって 入り組んでいるからですよ。余計なことや重要でないことを一つ一つ取り除いていくと、最後に残るのは――」 「欲か」 「いやだ。愛に決まっているじゃないですか」 「……」 瞬の唇から発せられた その言葉に、氷河は虚を衝かれたような気分になってしまったのである。 人間という生き物の核には『愛』がある――と、瞬は言っている。 神の愛を喧伝することを仕事にしている宣教師や神官の中にも、そんなことを真顔で言い切れる者はいないだろうにと、氷河は思った。 「詰まらない綺麗事をあっさり言ってくれるものだ」 「でも、少なくとも あなたはそうでしょう? お母様のためなら、自分の命もいらない。僕も、兄のためなら、僕の命をかけることに躊躇はありません。だから……僕には、あなたの気持ちがよくわかるんです」 瞬に、瞬と自分が同じ気持ちを共有しているのだと言われることは 「あんなののどこが――俺の方が はるかにいい男だ」 瞬の兄とは、氷河の館より小さな この城に連れてこられた最初の日に一度会ったきりで、氷河は彼の人となりを ほとんどと言っていいほど知らなかった。 ゆえに、それは根拠のない完全な妄言だったのだが、氷河は言わずにはいられなかったのである。 というより、氷河の中に、瞬の兄に対する妙な対抗心がむくむくと湧いてきて、氷河は ついそう言ってしまっていた。 そして、“命をかけることに躊躇はない人”を他人に貶められた瞬が氷河に対して立腹しなかったのは、まさに、氷河のその発言が根拠のない妄言だということを瞬が承知していたからだったろう。 瞬は至極 穏やかな声で、兄が自分にとってなぜ“命をかけることに躊躇はない人”なのかを、氷河に知らせてきた。 「兄は、早くに亡くなった両親の代わりに僕を育てて、両親の分も僕を愛してくれました」 「……」 自分が その人への愛を自覚する前から、自分を愛してくれていた人。 どれほど長い時間をかけても、その愛に完全に報い切ることのできない人。 そういう人が、愛される側の人間にとって どれほどかけがえのない存在であるのかということは、氷河もよく知っていた。 氷河にとっての母が、まさにそういうものであったから。 その事実に思い至り、氷河は自分の妄言を(少しだけ)反省することになったのである。 「何がいちばん大事なものなのか、それを忘れさえしなければ、人は滅多に自分の人生に迷うことはないんですよ。たとえば、愛と名誉の両方を自分のものにしたいから、人は迷う。どちらかを諦めろというのじゃなく、自分はどちらを優先させたいのかを常に意識していれば、色々な場面での決断は早くなるし、間違いや後悔も少なくなると言っているんです」 「俺は、迷いもなく母への愛を選んで、あげく、その決断をおまえに散々面罵されることになったが」 「愛っていうのは、相手の命ではなく心を思うことですよ」 自分に迷いもなく死を覚悟させた“愛”がそもそも誤った――浅はかな――愛だったのだと非難されたも同然だったというのに、氷河は少しも腹が立たなかった。 思わず反発したくなる真昼の太陽のように真っ当な正論も、穏やかで優しい口調で言われると、反抗期の子供でも、ついそれを素直に受け入れてしまうものだろう。 氷河は、反抗期の子供のように大人しく、沈黙で首肯した。 瞬が、そんな氷河に、彼の“かけがえのない人”のことを尋ねてくる。 「氷河のお母様は、今 お幾つ? 美しい方ですか」 「36。15で父の許に嫁いできて16で俺を産んだ。父亡きあとは、父の分も愛情を注いで俺を育ててくれたんだ。美しいかどうかは――」 「愚問でした。氷河を見ればわかります。息子にここまで慕われるお母様なのなら、聡明で優しい方でもあるのでしょうね」 『当然だ。俺の母だぞ』と氷河が即答しなかったのは、彼が瞬の心を思った――推し量った――からだった。 兄を慕う瞬の言葉が自分を不快にしたように、母を褒める自分の言葉が瞬を不快にすることもあるのではないかということを懸念したから。 もっとも、それは全くの杞憂にすぎなかったようだったが。 むしろ、瞬は、氷河から肯定の即答が返ってこないことを怪訝に思ったようだった。 「肯定しないんですか」 と、不思議そうな顔をして、瞬が氷河に尋ねてくる。 「俺は謙虚な男なんだ。自慢はしない」 氷河は、瞬を笑わせるつもりで そんなことを言ったわけではなかったのだが、氷河のその答えを聞いた途端、瞬は楽しそうにくすくすと笑い出した。 笑いながら、とんでもないことを言い出す。 「あなたを処刑してほしかったら、あなたの母親をスキュティアに引き渡せと、兄からヒュペルボレイオスの王に申し入れてもらいます」 「また唐突な申し出だな。あの愚王が母を引き渡すと思うか」 「渡すと思います。汚名を着ずに、あなたを亡きものにできるのなら」 「俺の母を得ることで、スキュティアにはどんな得があるんだ。その点を愚王に納得させないと、あの王は簡単に手札を渡すようなことはしないだろう」 「得はありますよ。氷河のお母様は美しい人なんでしょう? おまけにヒュペルボレイオス王家の血を引くお姫様なんですし」 「……」 氷河にとって氷河の母は 母でしかなく、母なるがゆえに大切な人だったが、確かに彼女は“氷河の母”であることの他に色々な属性を持った女性である。 その事実に、氷河は初めて思い至った。 客観的に見れば、彼女は確かに多くの利用価値を有した人間ではある。 だが――。 「そう簡単にいくか。母を自由にすることができるなら、俺が処刑される分には文句もないが――」 「その考えは捨てた方がいいと言ったでしょう。約束してください。何があっても、自分が生き延びることを考えるって」 瞬が何を企んでいるのか、本音を言えば、氷河には皆目わからなかったのである。 だが、なぜか 瞬に悪心はないということだけは信じられる。 信じて、氷河は、瞬に小さく顎を引いてみせた。 「おまえに 『なぜか信じられる』という現象は、『信じたい』という願いから生まれるものである。 そして、『信じたい』という願いが何から生まれる思いなのか、氷河はそろそろ気付き始めていた。 |