- II -






「こいつの母親を貰い受けてどうするのだ。ヒュペルボレイオスの王がこいつを殺したがっているのなら、人質にもならん!」
瞬を信じたい氷河にも危ぶまずにいられない瞬の計画を聞かされると、瞬を信じきっている(はずの)瞬の兄は、彼の私室に ほとんど怒声と言っていいような大声を響かせた。
その大音声を、瞬はせいぜい春の微風程度にしか感じていないようだったが。
瞬は、台風のように そよ風を、涼しい顔で受け流した。

「そうですね。兄さん、馬鹿の振りをしてください。仮痴不癲かちふてんの計でいきましょう」
「仮痴不癲の計? 俺に阿呆の振りをしろというのか!」
「そう言いませんでした? 兄さんの役どころは、美女の幻影に取りつかれて まともな判断ができなくなった元賢王といったところです。名誉な役でしょう?」
「……」
顔を強張らせ、一度絶句してから、瞬の兄ががっくりと両の肩を落とす。
「いったい何を考えているんだ……」
先程の怒声の100分の1も力のこもっていない小声で、彼は愚痴めいた独り言を、その口の中で転がした。

「氷河を見て、その母親の美しさに興味を持った。妻に迎えたいと、ヒュペルボレイオスの王に言ってください」
「10以上年上の年増をか」
「僕の妻にと言ってもいいんですけど、それだと少々説得力に欠けるでしょう? 氷河のお母様を貰い受けて、二人の間に子ができたら、その子供はヒュペルボレイオスの王位継承権を持つことになる。つまり、氷河のお母様を手に入れれば、氷河はむしろ邪魔な存在になる。だから迅速に処刑する」
「なに……」
「――という野心ゆえの申し出だと、ヒュペルボレイオス王には思わせるんです。表向きの理由は美女への興味、隠れた目的は、ヒュペルボレイオス王位への野心。ヒュペルボレイオス王は、表向きの理由だけだと裏があるのではないかと勘繰るタイプの人のようですから、ちゃんと裏の目的も準備して、交渉の場ではそれをさりげなく垣間見せるようにする。もちろん、氷河のお母様を取り戻したら、そんな卑劣な王との約束はきっぱり反故にしてしまいしょう」

「瞬!」
瞬の兄が、なじるように弟の名を呼ぶのを、氷河は実に尤もな反応だと思ったのである。
美女の息子の氷河でさえ、今ばかりは瞬の兄に同情した。
無論、人類の長い歴史の中には、20も年上の寵姫を愛し続けた王もいるし、90歳の妻との間に子を成すという奇跡を遂げた男もいる。
だが、彼等の所業は特殊で特別なものだから――普通でないから――、伝説として今の世にまで語り継がれているのだ。
瞬の兄は、伝説の男になりたいという野心は持ち合わせていないようだった。

「あ、何だったら、僕が氷河の美貌に血迷って、とんでもないことになっているから、氷河に天誅を下したいとか、そんなことを言ってもいいですよ。裏を勘繰るタイプの人間は、情報を過剰に与えられると、情報を整理しきれずに混乱して判断を誤るものですから」
「混乱しているのは俺の方だ! 俺は死んでも、たとえ嘘でも、そんなことは口にしたくない!」
「兄さんが言う必要はありませんよ。使者を立てて、その者に言わせればいいんです」
「同じことだ!」
「どうしても嫌なら仕方がないですけど……。敵を混乱させるのにはいい材料だと思うんだけどな……」

考案した計画(の一部)を却下されたことに、瞬は少々不服そうだった。
小さく独り言をぼやく。
そんな瞬の様子を見やりながら、実はその場で最も混乱している人間は、瞬の兄ではなく氷河だったのである。
たとえ嘘でも そんなことを思いつく瞬に、氷河の心臓は先程から不自然なほど強く速い鼓動を打ち続けていた。

「あ、ヒュペルボレイオスの民は王に不信を抱いているようですね。氷河の話では。事実かどうか、兄さんの方で確かめてください。事実なのであれば、これまでの相互不可侵主義を撤廃して、女神アテナの名のもとに僕たちがヒュペルボレイオスを治めてあげるのもいいかもしれません」
「瞬……」
他国の乗っ取り話をその国の王族のいる場所で気楽に言及する瞬に、さすがにスキュティアの王は渋い顔になった。
「お母様を助けてあげて、氷河に恩を売って、名目だけでも氷河を王にすればいい。もしヒュペルボレイオスの王が氷河の言う通りの人物なのなら、ヒュペルボレイオスの民が気の毒です」

それは、名目だけの王にされることになる(かもしれない)当人の前で言っていいことかと、瞬の兄は、極めて常識的なことを極めて常識的に考え、案じているらしい。
瞬が“命をかけることに躊躇はない男”という その一事だけで、彼に対抗心を抱いていた氷河は、今ばかりは瞬の兄に同情の混じった親近感を抱いていた。

軽快な陰謀話で兄を閉口させていた瞬が、氷河の方を振り向き、やはり軽快な口調と笑顔で尋ねてくる。
「どうです。いい考えでしょう」
「戦になるのではないか」
瞬ほど楽観的になれない氷河は、どちらかといえば瞬の兄のそれに似た渋面で、自身の懸念を口にすることになった。
「そんなことにはなりませんよ。ヒュペルボレイオスの軍が攻めてきたら、氷河が将軍たちを説得懐柔してくれるから。氷河が王になると言えば、味方になる者も多いでしょう」
「俺を買いかぶるな。俺には それほどの人望も人徳もない。今の王も前の王も虫が好かなくて、俺はずっと中央とは距離を置いてきた」
「人徳なんて、これから養えばいいんです」

「……」
気軽に言ってくれるものである。
もちろん すべては例え話で、現時点ではそれは荒唐無稽な夢想にすぎない。
それでも、氷河は、瞬のあまりの明るさに溜め息を禁じ得なかった。
弟に押され気味のスキュティア王をちらりと横目で見やり、氷河は、先程から確かめたくて仕方のなかった疑念をつい口にしてしまっていた。
「この国を支配しているのは、鞭ではなく飴の方なのか。おまえの兄は名目だけの王か」
「そんなことありませんよ」
瞬からは否定の言葉が、
「よくわかったな。この国の者は皆、俺の言うことより瞬の言うことの方をきく」
瞬の兄からは、肯定の言葉が、ほぼ同時に返ってきた。

瞬が、兄の返答に心外そうな顔になる。
「僕は、兄さんが考えていることを、兄さんの代わりに発言しているだけです。ちょっとだけ表現を優しくして。僕は王としての責任を負っていませんから、色々なことをやりやすいし、皆も気安く接してくれるだけのこと。僕と兄さんが相反する命令を出したら、家臣も民も従うのは兄さんの出した命令の方でしょう。王の権威は兄さんの上にあります」
それは瞬の言う通りなのだろう。
つまり、瞬の兄は、理を備え 分をわきまえている弟に、わざと負けてやっているのだ。
そんな二人の絆に、氷河は妬みのような感情を抱き始めていた。
これ以上 この兄弟の親密さを見せつけられることは御免被りたい。
氷河は、場の話題を、夢想話よりは現実的な計画の方に移行させることを試みた。

「おまえは、本当に おまえの計算通りに事が進むと思っているのか」
これまでと同じように明るく軽快に頷くものとばかり思っていた瞬が、ふいに重く真剣な顔になる。
瞬は、氷河の瞳を見詰め、少し苦しげな様子で頷いた。
「ヒュペルボレイオスの王は単純な人でも複雑な人でもなく、多分“無”なんです。完治が見込めない自分の病に自暴自棄になっている。自国の未来、自国の民の未来なんてどうでもいい。彼はおそらく、自分以外の幸福な人間を、自分と同じように不幸にしたいだけなんです。多分。だから彼は、氷河を不幸にできるのなら、どんなことでもするでしょう……」
「そんな勝手なことが……!」

そんな勝手なことがあるだろうか――それは許されることだろうか――と、氷河は激しく憤ることになったのである。
彼が完治できない病を得たのも、その原因は彼自身の不品行。
それはヒュペルボレイオス王の自業自得である。
それで逆恨みされてしまっては、坂恨みされる側もたまったものではない。

「俺だって、何もかもに恵まれ、完璧に幸せだったわけじゃない」
「そんなことすら わからない人もいるんです。自分の不幸不運しか見ない人――見ようとしない人も。いちばん大事なものがない人は、本当に悲しいほど不幸です……」
悲しそうな目をした瞬に哀れまれているヒュペルボレイオスの王は、氷河より更に10歳以上年上である。
それが、まだほんの子供と言っていいような小さな少年に哀れまれている。
氷河は、瞬の心とは全く違う意味で、ヒュペルボレイオスの王を哀れむことになった。

「おまえ、本当に、俺より年下なのか」
なぜそんなことを問われるのかが、瞬にはわからなかったらしい。
いずれにしても、それはわざわざ答える必要のない自明の理。
瞬はわかりきった質問には答えずに、自分の計画の総括に入り、スキュティア国の王に指示を与え始めた。

「とりあえず、我が国の民には、氷河は 母を人質に取られて やむなく我が国に攻めてきた気の毒な一人の子供にすぎないという話を広めて、氷河への同情論を生むようにしましょう。一緒に、氷河の処刑の準備も進んでいるという噂を流せば、同情論は更に湧くことになるでしょう。それで兄さんが侵略者を迅速に処罰しないことへの国民の不満は消せると思います。最終的に民意を受け入れて処刑を取りやめれば、兄さんは寛大な国王という評判を得ることができるようになるわけですから、これは我が王室にとっても益になることです。もちろん、ヒュペルボレイオスの王には、欲しいものを手に入れたら スキュティアの王は さっさと氷河を処刑したがっているのだと思わせなければなりませんから、ヒュペルボレイオスに送る使者には その点をよく言い含めておいてくださいね」

スキュティアの王は、一国の王に細かいことまで あれこれと指図してくる弟に、言葉ではなく 大きく長い吐息で答えたが、彼が弟の命令を実行に移すことは確実なことのようだった。






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