瞬の話を聞いていると、その計画を頓挫させる要因は何ひとつないように思われる。 しかし、それが無謀な計画であることは疑いようのない事実だった。 本当に すべてが瞬の笑顔のようにうまくいくのかと、一輝の私室を出てから、氷河は憂うことになったのである。 虜囚に与えられるにしては贅沢な部屋の上等の椅子に投げ出すように腰を下ろし、氷河は瞬に尋ねた。 「本当に、そう何もかも うまくいくのか」 瞬は、不安に囚われている哀れな息子を励ますように、半分以上が厳しさと険しさでできている優しい笑みを返してきた。 「ヒュペルボレイオスの王が氷河の言う通りの性格で、死を待つだけの病に罹っている人間なら、十中八九。自分の未来に明るい希望を持っていない人間は、あまり深くものを考えないんですよ。自分も自分以外の人間も どうなっても構わないと思っているから」 「万一、母が――」 瞬にも瞬の兄にも、この計画は、結局は他人の身柄のやりとりにすぎない。 この計画が破綻しても、彼等は何の痛手も被らない。 我が身は安全なところにあるというのなら、それはスキュティアの城にいる氷河も同様で、だからこそ氷河は、ひとりヒュペルボレイオス王の許にいる母の身が案じられてならなかった。 瞬の言う通りにして うまくいくのかという不安。 だが、他にどんな手段があるかと自身に問うと、何も思いつかない――というのも事実なのである。 今になって、氷河は、瞬には“誤った行為”と断じられた無謀を自分が断行した理由がわかったような気がした。 それは、自分が母のために何事かを為しているという実感が得られる行為だった。 だからこそ――母の命を他人の手に委ねずに済むからこそ――氷河はそれをしたのだ。 だが、今 母の命はスキュティア王家の兄弟の手に委ねられている。 瞬は、今日中に、ヒュペルボレイオス王の意向を探る使者を北の国に遣わすと言っていた。 縁もゆかりもない他人のために そんなことをしてくれる瞬を信じたい。 だが、氷河の不安は、どうあっても消えてくれなかった。 そんなふうに 不安と憂いに囚われている氷河を、瞬は切ない目で見詰めていた。 そして、氷河は、瞬のその眼差しに憧憬が混じっていることに気付かなかったのである。 瞬を信じ切れていない自分と、自分に信じ切られていない瞬が目を合わせることを避けるため、氷河は椅子に腰掛けたまま、天を仰ぐように顔を上向かせていたから。 「大の男がみっともないと思うか」 「……いえ。これが兄のことだったら、僕も今の氷河と同じように不安でいても立ってもいられないでしょうから」 「……そうだ。不安でたまらない。ヒュペルボレイオスの王の目的が俺の不幸を見ることなら、母は俺のせいで――」 「大丈夫。大丈夫です」 ふいに、氷河の頬に二つのものが触れてくる。 優しい響きの声と、不思議な感触の手。 氷河の頬に触れてきた瞬の手は、氷河の頬と ほぼ同じ熱さを持っていて、そのせいで、氷河は、二人の肌が触れ合った瞬間から、どこからどこまでが自分で どこからどこまでが瞬なのかの別がわからなくなってしまったのである。 触れ合っている場所から、二人が一つに溶け合っているような不思議な感触に、一瞬 氷河はうっとりしそうになり、そんな自分に慌てて活を入れた。 「おまえは、ついこの間 知り合ったばかりの俺に、なぜこんなに優しいんだ」 「優しくなんかありません。僕は、せっかく氷河と知り合えたんだから、その出会いを我が国の益に結びつけようと画策しているだけです」 瞬は、瞬の優しさに合理的な理由を付加してきたが、氷河は、瞬のその言葉を 言葉通りに受け取ることができなかった。 言葉とは裏腹に――瞬の手は、優しさだけを 氷河の中に送り込んでくるものだったから。 「いや。優しい。本当に俺に血迷っているんじゃないかと思うほど優しい」 「うぬぼれないでください」 「血迷ってくれていないのなら残念だ。おまえ以上に綺麗で才長けて優しい人間には、これから百年生きても、俺は二度と出会うことはないだろうから――。おまえが女なら、今の自分の立場を顧みずに、さっさと求婚しているところだ。いや、男でも――」 そこまで言ってしまってから、そこまで言えてしまう現状を、氷河は訝ることになったのである。 瞬に言葉を遮られないことを奇異に思った氷河が、瞬の上に視線を巡らす。 氷河の前に立っている瞬は、あろうことか、その頬を朱の色に染めていた。 まるで、『お利口さん』以外の言葉で褒められたことのない子供が、生まれて初めて『可愛い子』という言葉をもらって どぎまぎしているような、そんな様子をして。 二人の目が合うと、更に困惑したように、瞬は氷河の頬に添えていた手を引いてしまった。 つい先程まで、一国の王に問答無用であれこれと指示を出し、その国より広い領地を治める領主を子供扱いしていた瞬の あまりに そして、氷河は、慌てて、自分の心を瞬でないものに向けようとした。 母の身を案じていなければならない今この時に、初恋を知った思春期の少年のように胸をときめかせたりなどしてどうするのだと、氷河は懸命に自らを叱咤した。 |