単なる打診のためにヒュペルボレイオスに遣わしたつもりだった使者が、氷河の母を伴ってスキュティアの城に戻ってきたのは、それから数日後のことだった。
それは、この計画を立てた瞬にすら想定外の展開――つまりは、計画通りでない展開だった。
あまりにスキュティア王家と氷河にとって都合のよすぎる展開は、いったい何がどうなっているのかと、瞬を混乱させることになったのである。
使者の説明を受けるまで、瞬は、これはヒュペルボレイオス側の罠なのではないかと疑ってさえいた。
だが、そうではなかった――らしい。

スキュティア王の使者としてヒュペルボレイオスの王宮に赴いた中年の男は、ヒュペルボレイオス王は彼の寝室でスキュティアからの遣いに謁見したと言った。
「ヒュペルボレイオスの王の病状は、もはや隠しようもないものでした」
ヒュペルボレイオス王は既に自分の足で立つこともできなくなっていたのだ。
「目は真っ赤に充血し、髪の毛は半分以上が抜け落ち、首筋や手、顔までが潰瘍で覆われていました。あの分では胸や腹は腐肉状態でしょう。氷河殿の母御を渡すから、一日も早く氷河殿の死の知らせを持ってくるようにと、かすれた声で私におっしゃいました。病が脳にまで達していたかもしれません。まともな判断力があるのかどうかすら怪しい様子で、母御を渡すと言った側から、やはり渡すわけにしいかぬと言い出したりもするのです。もはや家臣も王を見捨てていて、次期国王は氷河殿と見込んでいるらしい家臣が王の言葉の都合のよいところだけを拾い上げ、母御を私に預けてくれたのです。ヒュペルボレイオス王は、あと半月ももちますまい」

使者の報告を聞いているうちに、瞬は気分が悪くなってしまったのである。
彼の罹病は、同情の余地のない自業自得の結果である。
そして、彼は、人間の命と愛を弄ぶという、王としても人としても 許されぬ罪を犯した。
だが、それにしても壮絶すぎる生――と死。
瞬は――瞬の兄も――使者の報告をそれ以上は求めなかった。
それ以上ヒュペルボレイオス王の様子を聞いても、どうにもできない不快感が募るばかりだろうと思えたから。

沈鬱になった兄弟の心を軽くしてくれたのは、母と息子の再会の場面だった。
「マ……母上!」
加減を知らない幼い子供のような勢いで、大きな図体をした男が 細身の母に抱きついていく様は、実際 非常に微笑ましい光景だったのである。
氷河の母は、ヒュペルボレイオスの城で無体を受けてはいなかったようだった。
とはいえ、ヒュペルボレイオスの王が女性には礼節を尽くすタイプの人間だったとは考えにくい。
おそらく、ヒュペルボレイオスの城では、王の命令が既に有名無実化していたのだろう。
さすがに氷河の実母と言うべきか、彼女は20代と言っても通りそうなほど若く美しい女性だった。
そして、やはり氷河に似ていた。

「確かに美人だが、俺はあんなでかい息子はいらんぞ」
すっかり二人だけの世界に浸ってしまっている母子をどういう顔で見ていればいいのか悩んだらしい一輝が、鹿爪らしい顔で弟に言ってくる。
「はいはい」
苦笑で兄をなだめてから、瞬は、死を覚悟するほどの試練を乗り越えて再会を果たした母と子に、再び その視線を投げた。
「氷河のお母様だけあって、本当にお綺麗な方ですね。すごく、優しそう……」
兄が、美しい母子ではなく彼の弟の心を探るように見詰めていることに気付いて、瞬はその視線を大理石の床に落とすことになった。

息子が母を慕い、母が息子を愛しているのは明白である。
美しく幸福な母と子。
しかも、美しい母の息子である氷河は、ヒュペルボレイオス国では 国王に次ぐ広い領地を有し治める領主ということになっている。
彼はこれまで、再三の王の呼び出しにも答えず、自領を出ることがなかったという。
家臣が宮廷に伺候し王に媚びへつらわないということは、彼に野心がないということである。
野心を抱き 今以上を欲する必要がないほど、彼の心が満ち足りているということなのだ。
ヒュペルボレイオスの王が氷河を妬み憎んだ訳が、瞬には わかるような気がしたのである。

腐れ ただれていく我が身。
比べて、若く美しく健康な、場合によっては次の王位までを その手中に収めることになるかもしれない又従弟。
即位の儀に出席するために王宮にやってきた氷河親子を見て、ヒュペルボレイオス王は、国王に即位したばかりの自分を なんとみじめな存在なのかと思うことになったのだろう。
自身の命をかけても守りたいと思っていた人を取り戻し、ただ幸福だけに浸っているような今の氷河は、瞬にさえ羨望の念を抱かせる存在だった――瞬は、氷河が羨ましかった。






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