星の綺麗な夜だった。
祝いの夕餉は、そのまま祝いの酒宴になっているらしい。
階下の大食堂の暖かいざわめきが、微かに瞬の部屋にまで伝い上ってきていた。
早めに席を辞した瞬は、自室のバルコニーに椅子を引き出し、手擦りに両手と頬を預けて、冬の星座を眺めていたのである。
白鳥座のアルビレオや大犬座のシリウス――今夜は、妙に、二つの星から成る連星が目につく。
それは、氷河と彼の母のように見え、自分と兄のようにも見えた。
そして、なぜか、瞬には、天の離れた場所にある似たような大きさの星が、自分と氷河に見えて仕方がなかったのである。

そんな瞬の背後で、扉の開く音がする。
瞬は、星を見詰めたままで、後ろを振り返らなかった。
これから口にする嘘を、兄に表情で見破られてしまわないために。
「僕には兄さんがいますから、羨ましくなんかありませんよ。平気です」
「誰が羨ましくないと?」
「えっ」
兄のものではない声に、瞬は弾かれたように後ろを振り向くことになったのである。
てっきり母を知らない弟を兄が慰めにきたものと思っていたのに、そこにいたのは、母に愛され母を愛している幸福な息子だった。

「おまえが羨むような人間が、この世に存在するのか」
「……」
瞬が羨んでいる相手が誰なのか――に、氷河は気付いているのか いないのか。
先日まで容易に読み取れていた氷河の表情と感情が、今夜はひどく読み取りにくい。
嘘をついても始まらないと開き直って、瞬は正直に真実を告げた。
「……氷河が。あんなに綺麗で優しいお母様がいる氷河が、僕は羨ましい」

瞬の告白に対する氷河の反応は、実にふざけた――あるいは、おどけた――ものだった。
「おまえ、ブラコンなだけでなく、マザコンでもあるのか?」
「いけませんか」
「いけなくはないが――」
いけなくはないが意外ではある。
氷河は、そういう顔をした。

もちろん瞬は、彼がそんな顔をする訳がわからなかったわけではない。
両親はいないが、一国の王が兄で、その兄に愛され守られ、瞬は何不自由ない暮らしができている。
非公式とはいえ、国政や領地経営にも口出しが許され、瞬の毎日はそれなりに充実している。
敵として認識しなければならないような存在もなく、生きる目的や理想も、瞬は持っていた。
これ以上 いったい何を望むのかと、それは氷河でなくても思うことだろう。
瞬もそう思っていた。
瞬は、氷河に出会うまで、自分の中にそんな願いがあったことにすら気付いていなかったのだ。

「僕は多分、正義を守りたいとか、ヒュペルボレイオスの王の卑劣が許せないとか、そんな崇高な気持ちから 氷河に力を貸そうとしたんじゃなかったんだと思います。僕はただ、氷河と氷河のお母様に幸せでいてほしかったんです。ただそれだけ。そうしたら――」
「自分の母が生きていたら、自分も幸せでいられたはずだと思うことができるから?」
「よく……わかりません」
瞬には、本当に今の自分の気持ちが よくわからなかった。

氷河と彼の母に幸せでいてほしい。
その願いが叶えられ、いかにも深く信じ合い愛し合っている母子の姿を実際に見て、自分がこんな切ない気持ちになることがあろうとは、瞬は思ってもいなかったのである。
顔も憶えていない母や父を慕い欲する気持ち。
自分の中にある肉親を求める気持ちはすべて、兄という存在によって満たされていると、これまで瞬は思っていたのだ。
それが錯覚だったのか、あるいは、息子が母という存在を求める気持ちは 他で代用できないほど特別なものなのか――瞬にはよくわからなかった。
だが、自分が本当は何を望んでいるのかなどということを、今更知ったところで何も始まらない。
瞬の母は既に亡く、それは叶わぬ夢でしかないのだ。

「余計なものをすべてを取り除いたら、そこに残るのは愛だけで、人はそれを守ればいいんです。それだけは命をかけて。氷河はそれを守りきった。本当によかったと思います。僕も嬉しい」
「俺は何もしていないぞ。すべてのお膳立てはおまえがしてくれた」
「僕を動かしたのは、お母様を思う氷河の心です」
「それでも、すべてはおまえのおかげだ。おまえが俺の無謀な侵略行為に事情があると気付いてくれなかったら、俺はどう転んでも母を悲しませることしかできずにいただろう」
「……」

仰々しい謝辞など、瞬は欲しくはなかった。
瞬は、そんなものが欲しくて氷河の命を救ったわけではなかったし、すべてが終わってみれば、スキュティアの王と その弟の手助けがなくても、氷河はいずれ母を取り戻すことができていただろうと、瞬は思わないわけにはいかなかったから。
ヒュペルボレイオスの王の命運は尽きかけていたのだ。彼がヒュペルボレイオスの王位に就いた時にはもう。

「過ぎたことより、これからのことを話しましょう。氷河はお母様と領地に帰るの? それとも、ヒュペルボレイオスの都に行って王位に就く?」
「……」
スキュティア王家に恩のある氷河がヒュペルボレイオスの王位に就くことは、スキュティアにとっても悪いことではない。
だというのに、瞬の声は沈んでいて――少しも嬉しそうではなく――あまりに寂しげに聞こえる自分の声に、瞬は自分で驚くことになった。

その時になって、瞬は初めて、ある可能性に思い至ったのである。
この悲しいほどの切なさは、もしかしたら、美しく優しい母を愛してやまない ある人物との別れの時が近付いているからなのではないかという可能性に。
氷河には帰るべき場所がある。
彼には、帰らなければならない場所があるのだ。

「王位に就くことなど考えたこともなかった。この国の者は誰も彼もが そうなるものと決めつけているようだが、俺自身は 自分がこれからどうすればいいのかを決めかねている。故国のことも領地のことも気にはなるが、本音を言えば、俺はこれからもずっとここにいたいんだ。俺の領地の館はさておき、ここはヒュペルボレイオスの王宮に比べると格段に居心地がいい。あそこは王だけでなく家臣たちも腐敗しきっていた。宮廷というものは みんなあんなものだと思っていたのに、ここは――」
「ここで お客様ごっこをしていてどうするの。早く決意した方がいいですよ。民のためにも。いつまでもぐずぐずしていると、僕と兄さんがヒュペルボレイオスを乗っ取ってしまいます」

そう言うことしかできない自分を、瞬は一刹那 心底から哀れな人間だと思ったのである。
そして、放蕩乱淫の末に不名誉な病を得、死に瀕しているヒュペルボレイオスの王を憎いと思った。
彼が健康で有能有力な王であってさえくれたなら、自分は氷河に『危険な故国には帰らず、ずっとこの国にいればいい』と言うことができたのに――と。

瞬の心にもない脅しに――それが大国の王位を手中に収める可能性を持つ者のために言ったジョークだということは わかっているはずなのに――氷河は、僅かに笑うこともせず、真顔で瞬に頷いてきた。
そして、とんでもないことを事後報告してくる。
「そうしてくれると俺も助かる。その方がヒュペルボレイオスの民のためにも最善のことのような気がするしな。たった今、おまえの兄にチェスの勝負を申し込んできた」
「え?」

軽い口調で告げてくる氷河に、瞬は思い切り嫌な予感を覚えたのである。
この国で、王に、遊戯ではないチェスの勝負を申し入れることが どういう意味を持つことなのかを、氷河は既に知っているはずだった。
それは、建前上は、ある人物に関する出処進退に関する神意を問うこと。
だが、実際には、その“神意”を決めているのはスキュティアの王なのだ。
「ま……まさか、ヒュペルボレイオスの王位を賭けるなんて馬鹿なことをしたんじゃないでしょうね!」
「それしか賭けられるものがなかった」
「氷河……!」

いくら王位に執着がなく、それが今現在はまだ彼のものになっていないとはいえ、そんな重大なものを他国の王の意思に委ねるようなことがあっていいものだろうか。
どんな小国であっても、一国の王への宣誓は神聖なもの。
あとになって気軽に『あれは戯れ言だった』と取り消すことは、誰にもできないのである。
「どうして、そんなことを――」
ヒュペルボレイオスの王位を襲うにしても、断固として拒むにしても、それは氷河が自分の意思で決めるべきことである。
これは、迷ったから神の意に従うなどという解決策を採っていいことではないのだ。
神話の時代はいざしらず 今は、人の世を治めているのは、神や運命などできなく人間の意思なのだから。

そんな決定すら自分の考えで成すことができないのかと、瞬は、氷河の優柔不断――もしくは軽率――を責めようとした。
が、氷河は氷河で氷河なりの確たる意思と目的があって、スキュティアの王に勝負を持ちかけたのだったらしい。
氷河は、自らの進退に迷っている人間のそれとは思えないほど決然とした態度と口調で、彼の賭けの目的を瞬に知らせてきた。
彼は、自身の進退に迷ったからではなく、どうしても欲しいものがあって、それを手に入れるために、瞬の兄にチェスの勝負を挑むという無謀に挑んだのだ――と。

「俺が勝ったら、おまえを貰う」
「……!」
氷河がスキュティアの王との勝負に賭けた本当のもの。
それは、まだ彼のものになっていないヒュペルボレイオスの王位などではなかった――らしい。
氷河の真の目的を知らされて、瞬は息を呑んだのである。
本当に、一瞬 呼吸が止まった。






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