「な……なに、馬鹿なことを言っているんです!」 驚愕が作った その沈黙は、長いものだったのか短いものだったのか――。 ともかく、しばしの絶句のあと、瞬は氷河を怒鳴りつけることになったのである。 ――が。 言葉は完全に非難のそれだというのに、瞬の声の響きは完全に言葉を裏切っていた。 つい先刻まで深く沈みきっていた瞬の声は、今は、上擦り、かすれ、そして、弾んでいた。 自分が氷河の無謀無思慮を喜びそうなってることに気付いて、瞬は慌てて そんな自分を戒めることになったのである。 「ど……どうして氷河は、そんな無謀なことばかりしようとするの! 兄さんは強いんだよ。家臣たちの前で僕に自然に負けてみせる技術は、一朝一夕で身についたものじゃない。兄さんに勝つためには、相当の経験と技術が要る」 「俺の負けと決めつけることもあるまい。おまえがどちらについて助言するのも自由という条件つきの勝負だ」 「僕が氷河の味方につくと思っているの」 「おまえがどちらにつくか、それこそが俺の賭けだな」 「……」 氷河は、『決めるのはおまえだ』と言っている。 この勝負で問われているのは、神意ではなく 瞬自身の意思なのだと、氷河は言っていた。 彼に暗に『どちらにつくのか』と問われて、『兄』と即答できない自分に、瞬は尋常でなく戸惑うことになったのである。 これは迷わなければならないことだろうか――と。 兄とスキュティアの利益を考えたなら、兄の弟でありスキュティアの国民である自分が望むべきことは、わざわざ改まって考えるまでもないことではないかと。 そんなふうに自分を迷わせる氷河が、瞬は憎らしくてならなかった。 「い……今まで、そんな素振り、おくびにも出さなかったくせに」 「昨日まで俺はスキュティアの虜囚だったんだぞ。母の安否も気遣わなければならなかった。そんな俺が優雅に恋の告白などしたら、おまえに軽蔑されることはわかりきっているじゃないか。だが、母は無事に戻ってきた。俺にはもう何の憂いもない。今日からは、今まで我慢してきたことを存分にさせてもらう」 「我慢してきたこと……って……」 そう問い返したことは大いなる誤りだったと、瞬はすぐに気付いた。 瞬に問われるなり、氷河は早速、今まで彼が我慢してきたことの実践に取り掛かってしまったのだ。 瞬の腰を抱き上げるようにして掛けていた椅子から立ち上がらせ、瞬に抗う隙を与えずに、氷河が瞬の身体を抱きしめる。 瞬の頬に自身の頬を押し当てるようにして、氷河は瞬の耳許で囁いた。 「俺はおまえが好きだ。綺麗なだけの人間や聡明なだけの人間や優しいだけの人間は この世にあふれているが、そのすべてを兼ね備えている人間に、俺はここに来て初めて会った。俺は、俺をおまえの許に導いてくれた あの愚王に、今は感謝してさえいる」 「ぼ……僕は男子です」 「そんなことも気にならないほど、おまえが好きだ」 「そんなこと、急に言われても――」 「急でなければいいのか」 言葉尻を取られて戸惑い慌て、瞬は初めて、自分を抱きしめている男の胸を押しやるために その手に力をこめた。 氷河は、その力に逆らうことはせず、大人しく瞬から離れてくれた。 が、それは多分に瞬の判断ミスだった。 二人の間に少し距離ができてしまったせいで、瞬は氷河の青い目を 正面からまともに見ることになってしまったのである。 冬の空を覆うように白くきらめく美しい星々。 その小さな星々は、今は 青い宝石を際立たせるための控えめな小道具にすぎなかった。 「母が愚王に囚われた時、俺は、たとえ自分の命が失われることになっても母を救いたいと思った。もし同じことが おまえの身に起こったら、俺は決して死のうなんて考えず、生きて おまえを取り戻すことを考える。必ずおまえを取り戻して、二人で生き続けることを考える。母は俺に命を与えてくれた人だから、俺の命は母のものだが、母が俺に命を与えてくれたのは、おまえと生きるためだったのだと、俺は確信している」 「あ……」 真冬の冷たく冴えた空気と、氷の粒のように白くきらめく冬の星。 そこに晴れた夏空のように青い瞳を持ち出してくるのは卑怯だと、瞬は氷河を恨んだのである。 つい その空の暖かさに身を委ねたくなってしまうではないか――と。 「世の中が複雑に見えるのは、単純なことが積み重なって 入り組んでいるからだと、おまえは言っていたな。余計なことや重要でないことを一つ一つ取り除いていくと、最後に残るのは愛だけだと。人はそれだけを命をかけて守ればいいんだと、おまえは言った」 「い……言いましたけど……」 目の前に迫る氷河の青い瞳は、暖かいのではなく熱いのだと、その段になって瞬は気付いた。 氷河は、母の身を案じて、これまで その判断力や決断力、実行力を鈍らせていただけだったのかもしれないと、瞬は思ったのである。 今の氷河の燃えるような瞳には、断固とした意思と、そして自信のようなものがたたえられていた。 そのことが、逆に、瞬から自信を奪っていく。 「あ……あの言葉は撤回します」 「撤回する?」 「だ……だって、僕は、よ……余計なものをすべて取り除いてしまえば、残るものは一つだけだと思ったんだもの。だから、単純なんだと思っていたんだもの。兄さんへの愛と氷河への愛があったら、僕は二つの間で迷うだけだ。人が生きてくってことは、そんなに単純なことじゃない」 あれほど確信を持ち 偉ぶって告げた言葉を、今になって弱腰に撤回する。 氷河は その無責任・軟弱を軽蔑するに違いないと 瞬は怯えたのだが、瞬の前言撤回は、むしろ氷河を喜ばせることになったようだった。 「いつのまに一つ増えたんだ」 実に嬉しそうな様子をして、氷河が尋ねてくる。 言わなくていいことを無意識のうちに洩らしてしまっていた自分に気付き、瞬は頬を真っ赤に染めることになってしまったのである。 今更 否定することもならず、氷河と目を合わせることは更にできず、唇を引き結んで横を向く。 そんな瞬を見て、氷河は冬の庭に笑い声を響かせた。 「おまえは、時々、びっくりするほど可愛い」 「ど……どうして、氷河はそんなふうに僕をいじめるの! 僕は氷河にひどいことなんてしたことないのに!」 追い詰められた駄々っ子のようなことを言って氷河を責めている自分を、瞬は心底からみっともないと思ったのである。 だが、他にどう言って氷河を責めればいいのかが、今の瞬にはわからなかった。 泣きたい気持ちになって唇を噛んだ瞬の頬に、氷河が右の手で触れてくる。 その触れ方が いかにも気遣わしげなことが、瞬を更に困惑させた。 いっそ勝ち誇った専制君主のように接してくれたなら、心置きなく氷河に反発することもできるのに、氷河はそうすることすら瞬に許してくれないのだ。 「おまえをいじめるつもりはない。俺はただ、おまえが俺を好きでいてくれるのかどうかを確かめたかっただけだ」 「……」 そして、氷河は、彼が確かめたかったことを確かめ満足した――ということなのだろう。 だが、確かめられてしまった瞬の方は、満足するどころではなかった。 弱みをすっかり露呈させられ、瞬にはもう戦うための武器はない。 そんな瞬に追い討ちをかけるように、氷河が告げてくる。 「明日、正午、おまえの兄の私室で勝負する。おまえを賭けて」 瞬は本当に、いっそ母を失った赤ん坊のように大声をあげて泣きわめいてしまいたかった。 |