「瞬」 氷河に名を呼ばれた瞬は、その瞬間にびくりと身体を震わせた。 三人掛けのソファの、それでなくても端に座っていた身体を更に小さく縮こまらせ、膝の上に置いていた二つの拳をきつく握りしめる。 そうしてから、瞬は、彼の名を呼んだ仲間の様子を、おどおどした上目使いで窺い見た。 その視線の先で――瞬の名を呼んだ男は、瞬の返事を待たずに、彼が掛けていた椅子から立ち上がりかけている。 それを見て、瞬は観念したようだった。 「はい……」 それでもまだ びくびくしながら、瞬もまたソファから立ち上がる。 氷河のあとを追い、殊更ゆっくりドアに向かって歩き始めた瞬は、だが、僅かに2、3歩 進んだところで、まだ就寝の気配を見せずにいる星矢と紫龍の方を振り返った。 「お……おやすみなさい」 こういう場面では ごく普通かつ ありふれた就寝の挨拶。 しかし、瞬は、その普通でありふれた言葉で 仲間に何ごとかを訴えたがっている――ように、星矢には感じられた。 が、用件をはっきり言葉で言ってもらえないことには、星矢たちにも動きようがない。 特に今 このシチュエーションでへたに行動を起こすと、それは非常に野暮なことになりかねない。 それだけならまだしも、氷河の怒りを買いかねない。 だから、星矢は、特大の豆大福に食らいついたまま、あえて無言で瞬にひらひらと手を振ってやったのである。そうするだけにとどめた。 「ああ、おやすみ」 紫龍は、膝の上の『写真で見るユーラシアの農業』のページに落としていた視線をあげ、切なげな目をした瞬に困ったような笑みを向ける。 「あの……」 瞬は、やはり何か言いたげだった。 「なんだ?」 紫龍は、であればこそ、氷河の機嫌を損ねることを覚悟して、物言いたげにしている瞬に水を向けてやったのである。 「あ……」 だが、瞬の勇気(?)は そこまでしかもたなかったらしい。 氷河は既にラウンジのドアの前に立ち、瞬が来るのを待っている。 瞬のそれとは違ったニュアンスで、氷河は――氷河もまた――何やら言いたいことを我慢しているような顔をしていた。 何に憤っているのかはわからないが、何かに苛立っているように険しい目で、氷河は、動きの鈍い瞬を睨んでいる。 氷河の視線を感じとったのだろう。 瞬は結局、自分の逡巡よりも氷河の意思を優先させることにしたようだった。 「な……何でもない。おやすみなさい……」 瞼を伏せ、顔を伏せ、肩を落とし――いかにも 二人の行き先は氷河の部屋。 百歩譲れば、煮え切らない態度を見せる瞬に苛立つ氷河の気持ちは わからないでもないが、迷い、ためらい、怯えてさえいるような瞬の態度は解せない――というのが、昨今の星矢と紫龍の忌憚のない見解だった。 二人は好き合って、そういう関係を持つに至ったのではなかったのか――と。 「あのさー……」 「瞬はいったい――」 氷河と瞬の姿がラウンジから消えると、星矢と紫龍は ほぼ同時に声を発することになった。 一瞬 視線を見交わしてから、これは性格的な問題で、発言の優先権が星矢に与えられる。 「瞬の奴、俺たちに引きとめてもらいたがってるんじゃないか? 毎日毎晩、『おやすみ』のあとに、わざとらしく ぐずついて、何か物言いたげにしててさ。言いたいことがあるなら、はっきり言えばいいのに、こっちは焦れったくてしょうがないんだよ!」 「ああ、おまえもそう思っていたか」 今回に限っていうなら、星矢と紫龍のどちらが先に 自分の意見を口にするかということは大した問題ではなかったようだった。 二人は、同じ事象に関して、同じような ひっかかりを感じていたのだ。 氷河と瞬が 当人たちに確かめたわけではなかったが、その頃から、二人の態度は――特に瞬のそれは―― 一変した。 それまでは、命をかけた戦いを共にしてきた仲間であり、仲のよい友人同士でもあった(はずだった)二人。 いつまで経っても終わりの見えてこない戦いの日々の中で、いったい いつ氷河が瞬にそういう感情を抱くことになったのかは定かではないが、氷河は いつからか瞬に特別に優しく接するようになり、氷河にそうされることには瞬も それなりに――否、かなり――嬉しそうにしていたのである。 他の仲間たちへのそれとは あからさまに違う態度を示されることには戸惑っていたようだったが、氷河は星矢たちへの態度を変えたわけではなく、瞬に対する態度だけを変えただけだったので、瞬も結局、『それは氷河を咎めるようなことではない』という結論に至ったらしかった。 もちろん二人は同性同士である。 氷河の恋は、祝辞や花束と共に全世界から祝福されるような恋ではない。 だが、星矢たちは、一つの目標を定めたら 他には何も目に入らなくなる氷河の性格を知っていた。 瞬が同性だろうが、聖闘士だろうが――よしんば、瞬が花であっても、人間ならぬ小動物であっても――つまりは、瞬がどういう属性を持つ存在であっても――氷河は自分の意思を通そうとするだろうことを、星矢たちは知っていたのである。 ゆえに、氷河の恋の成否は、瞬が氷河の気持ちを受け入れることができるかどうかという一点にかかっていると、星矢たちは考えていた。 そして、瞬は、ひと月ほど前のある日から、自室のベッドを使わなくなった。 では 瞬は 氷河の気持ちを受け入れることにしたのだと、星矢たちは、その時には、ほとんど安堵だけでできた感懐を抱いたのである。 が、それ以降、二人の様子が――特に、瞬の様子が――おかしくなってしまったのだ。 同性同士の恋の“普通”がどういうものなのかを星矢は知らなかったし、それは紫龍も同様だった。 が、普通は、恋が実ったばかりの恋人同士の身辺はもう少し華やいでいるものなのではないだろうか? ――と、氷河と瞬の仲間たちは疑念を抱くことになったのである。 隠そうとしてもにじみ出る幸福感や高揚感といったものが見てとれるのが、恋を成就させたばかりの二人の“普通”なのではないだろうか――と。 だが、氷河と瞬に限って言うなら――彼等の周囲には、そういった華やぎや楽しげなものは感じられなかった。 特に瞬の周囲には、そういった幸福めいた空気は全く感じられなかった。恋が成ったというのに。 とはいえ、二人が以前と何も変わらなかったわけではない。 二人は大いに変わった。 特に瞬は変わった。 瞬は、日を追うにつれ、目に見えて沈みがちになり、氷河に出会い その姿を認めるたび、氷河に名を呼ばれるたび、まるで死刑執行の時を待つ罪人のように、びくつくようになってしまったのである。 だが、瞬は、決して氷河に逆らうようなことはしなかった。 瞬は、氷河に名を呼ばれると、そのたびに 怯え逡巡しながらも 必ず氷河のあとについていくのだ。毎晩。 無為に死を待つことと、他者に死を与えられること――いずれにしても得られるものは同じ死である究極の選択で 後者を選ぶ悲壮を漂わせ、瞬は氷河のあとについていくのである。毎晩。 「考えられるのは、あれだな。瞬は、氷河を好きではいるんだが、氷河との行為は好きではないというパターン」 「氷河が がっつきすぎてるのかもしれないぜ。それで、氷河に付き合ってると身がもたないと思って恐がってるとか」 「それはないだろう。仮にも瞬は聖闘士だ。身体面の問題なら、体力ではなく、生理的嫌悪のために身体が拒否反応を起こしているパターンだろうな。だが、氷河が求めてくることを拒むこともできず、悩んでいるのかもしれない」 「なら、氷河も、そこいらへんを察して、一日おきくらいにしてやればいいのに」 「氷河は、常人の数倍の体力を有する聖闘士であるだけでなく、なにしろ 盛りのついた年頃だからな。自分でも抑えがきかないでいるのかもしれん」 「なんだよ、それ! マスかきを覚えたサルじゃあるまいし」 「サルの方がまだましだ。サルは自分ひとりで処理をして、他人を巻き込まん」 「氷河はサル以下かよ!」 恋が実った二人に 毎日を浮かれ過ごしてほしいわけでは、決してない。 星矢たちは、そんなことは決して望んでいなかった。 ただ、敬遠し合っているのか 親しみ合っているのかの判別に困るような難しい場面を、第三者のいるところで展開しないでほしいのだ。 二人の仲間としても、二人の恋の部外者としても、対応に困るから。 二人きりでいる時になら、どんな複雑な恋愛心理劇を演じてくれてもいい。 だが、部外者がいる場所では、せめて単純でわかりやすいラブストーリーを演じるにとどめておいてほしい。 星矢たちが、氷河と瞬に望んでいるのは、ただそれだけだった。 |