「瞬」
サル以下の男という評価の定まった氷河は、翌日もまた瞬の名を呼んだ。
昨晩同様、瞬が びくびくしながら掛けていた椅子から立ち上がる。

星矢は、昨日までは、『求められたわけでもないのに 他人の恋路に第三者が口を挟むと ろくなことにならない』という考えのもと、あえて見て見ぬ振りを続けていた。
しかし、瞬を振りまわし、瞬が振りまわされている人物に対して“サル以下の男”という評価が確定した今、これ以上 見ざる・言わざる・聞かざるの三猿を貫き続けるのは、どう考えても二人のためにならない。
そう考えた星矢は、だから、あえて その日、 他人の恋に首を突っ込む野暮を決行したのだった。

『愛』という文字は、足を引きずり行き悩む人間の姿と心をかたどった象形文字だという。
まさに氷河への愛のために 足を重くしているのだろう瞬を、そして氷河を、星矢は呼びとめた。
「おい。この頃、おまえら、おかしいぞ」
「……」
「……」

少々 率直が過ぎる星矢の問いかけに返ってきたのは、氷河と瞬が作る沈黙だった。
氷河は致し方ないにしても、毎晩あれほど物言いたげな様子を見せていた瞬でさえ、ただの一言も言葉を発しない。
それどころか。
あろうことか、瞬は、まるで恋人同士の道行きに水を差す非人情な冷血漢を見るような目を 星矢に向けてきたのである。

瞬のその視線には、さすがの星矢も 少なから ひるむことになった。
が、星矢としても、今更あとにはひけない。
無理に自分の気を引き立たせて、星矢は逆に瞬を睨みつけた。
それで すぐ気弱な目になるところは、いつもの瞬である。
「瞬! 嫌なら嫌とはっきり言っちまえよ。毎日毎晩、氷河に呼ばれるたびに びくびくおどおどしてさ! 毎日毎晩、そういう場面を見せられる俺たちの居心地の悪さも考えろよ。氷河だって、おまえが本気で嫌がってるって知ったら無理強いはしないだろ。サル以下でも、一応 氷河は人間なんだから!」

いったいなぜ ここで突然『サル以下』などという言葉が出てくるのか――おそらく それは氷河には解しかねるものだったろう。
勝手に『無理強いはしない』と決めつけられたことにも、彼が不快感を覚えなかったはずはない。
だが、彼は、星矢の言いたい放題に文句をつけるようなことはしなかった。
氷河は、その件に関しては何も言わずに、星矢ではなく瞬を見詰めていた。
無言で――氷河は瞬の反応と答えを待っている――ように、星矢には見えたのである。
してみると、氷河は、彼に名を呼ばれるたびに 瞬が毎日 おじけていることには気付いていたのだろう。
その上で、氷河は、瞬に対して沈黙を守っていたのだ――おそらく。

そんな氷河を卑怯だと思い、だからこそ星矢は再度 瞬に念を押すことができたのだった。
「やなんだろ。氷河と寝るのが」
と。
瞬が言えないというのなら、瞬の仲間が代わりに はっきり言ってやるしかない――と思ったから。
だが、それでも瞬は無言だった。
視線を床に落とし、瞬は、ひたすら唇を固く引き結んでいる。
瞬はいったい何を案じ、何を恐れているのか――。
星矢は、さすがに気になって、気遣わしげな目で瞬の顔を窺い見ることになったのである。
「瞬。遠慮することないんだぞ。遠慮して、我慢して、何も言わないでいる方が、結局はよくない結果を生むことになるに決まってんだから。ちゃんと話せば、氷河もきっとわかって――」

星矢の口調が責める者のそれから、諭す者のそれに変わった時だった。
それまで下ばかりを向いて ひたすら沈黙を守り続けていた瞬が、突然 顔を上げ、必死の形相で、星矢に訴えてきたのは。
「氷河は悪くないの! 氷河のせいじゃない! 氷河は悪くないんだ!」
ほとんど悲鳴のような瞬の声に、星矢は驚き、そして少々たじろぐことになったのである。
なにしろ星矢は、『氷河が悪い』などということは、まだ・・一言も言っていなかったのだ。

「へ……? いや、俺は別に氷河が がっつきすぎだとか、氷河が下手くそなんだろうとか、そんなこと 言ってるわけじゃないぞ。その手のことってのは二人のことだし、氷河だけを責めてるわけじゃない。だから、おまえがはっきり言うべきだって、さっきから言ってるだろ」
「氷河は悪くないの!」
「いや、だからさぁ……」

氷河は悪くない――その一事を訴えるのに必死な瞬の耳には、どうやら仲間の声が届いていないらしい。
瞬の必死の理由がわからなかった星矢は、瞬のこの取り乱しようの説明を、当然のことながら某金髪男に求めることになった。
星矢たちよりはドア寄りの場所に立っている氷河に視線を巡らす。
が、瞬の耳に星矢の声が届いていないように、氷河の目にも星矢の姿は映っていなかった――のかもしれない。
星矢の視線になど気付いた様子もなく、氷河の目は ただ一点――瞬の上だけに据えられていた。
瞬を見詰めている氷河の表情は 正しく無表情で、星矢は氷河の顔の上に どんな感情も見い出すことができなかった。
驚きも、焦慮も、きまりの悪さ、罪悪感、その他 どんな感情も。

氷河は このまま仲間たちに何の事情説明もせずだんまりを決め込むつもりでいるのかと、星矢が胸中に憤りめいた思いを生みかけた時、氷河はやっと その重い口を開いた。
もっとも、やっと氷河が開いた口から出てきた言葉は、二人がこうなった経緯の説明ではなく、自身を弁護するための言葉でもなかったが。
二人のために腐心している星矢を完全に無視して、氷河は瞬に、
「俺が欲しいか」
と尋ねたのである。

切なげに――というより、むしろ苦しげに――眉根を寄せていた瞬は、すぐには氷河に答えを返さなかった。
優に1分以上 迷い ためらう様子を見せ、だが、瞬は、結局は頷いた――頷いてしまったのだ。
瞬の答えを確認した氷河が、全く嬉しくなさそうに、軽く顎を引く。
「なら、来い」
「は……はい……」
氷河は、瞬に手を差しのべることさえしなかった。
だというのに、つい先刻まで迷い ためらっていたはずの瞬は、小走りといっていいような動作で氷河の許に駆け寄っていったのである。
二人の仲間を案じ、瞬の身を案じていた星矢に、いっそ清々しいほどはっきりと背を向けて。

瞬のその恩知らずな振舞いに、星矢は唖然とした。
が、すぐに、それは瞬の本意から出た行動ではなく、氷河の激昂を避けるための行動なのだと(無理に)思い直す。
だから、星矢は、このまま逃げるつもりなのかと責める目で、氷河を睨みつけたのである。
だが――。

瞬を伴ってラウンジを出ていく際、氷河はちらりと後ろを振り返った。
そして、声には出さず、唇の動きだけで、『あとで』と星矢に告げる。
おそらく それは『説明はあとで』という意味なのだろう。
咄嗟の対応に迷った星矢に向けられる氷河の表情は、瞬以上に迷い、星矢以上に当惑している人間のそれだった。






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