翌日、氷河が星矢と紫龍に召集をかけたのは、城戸邸のラウンジではなく、彼自身の部屋でもなく、星矢の部屋だった。 つまり、氷河は、彼が話す話を瞬には聞かれたくないと思っている――ということらしかった。 「瞬は、おまえとのナニを嫌がってるんじゃないのかよ」 自分が指定した時刻に5分ほど遅れて仲間の部屋にやってきた氷河に、星矢は極めて単刀直入かつ無遠慮に話を切り出したのである。 昨夜一晩を、星矢は、それこそ煙に巻かれて敵と味方の区別がつかなくなった戦闘機の気分で過ごしたのだ。 善と悪、正義と不義、正道と邪道――どんなことにも はっきり白黒をつけなければ気が済まない人間が灰色の一晩を余儀なくされて、良い機嫌でいられるわけがない。 星矢の苛立ちと焦慮を察してはいるのか、氷河も星矢の直截的な物言いに文句をつけることはしなかった。 代わりに、溜め息を一つだけ、仲間の前で洩らす。 「いっそ、おまえらに見せてやりたいくらいだ。瞬が俺の下で毎晩どんなふうに乱れ喘いでいるか。あれが瞬でなかったら、俺は 即座に多淫症の診断を下しているところだ。瞬がベッドでいちばん多く言う言葉は『氷河、もっと』だぞ」 「へ……?」 星矢は一瞬、自分は今 突然 日本語が理解できなくなったのかと、己れを疑うことになったのである。 氷河はいったい何を言い出したのか――何を言っているのか――が、星矢には全くわからなかった。 星矢の当惑は紫龍の当惑でもあったらしい。 氷河より先に星矢の部屋に来ていた紫龍も、星矢同様、氷河の言は到底信じ難いと言わんばかりに眉をひそめていた。 紫龍のその様子を見て、星矢は、日本語がおかしいのは氷河の方だと信じることができたのである。 「おまえ、俺たちには確かめられないことだと思って、大ボラ吹くなよ! あの瞬が、たとえ おまえを喜ばせるための演技でも、そんなこと したり言ったりするわけないだろ! まかり間違って、何かの弾みで そんなこと口走ったとしても、そしたら、瞬は死ぬほど恥じ入って、次からは厳しく自戒する。一度だけの間違いならともかく、毎晩なんて絶対 無理だ。ありえない」 それは、星矢にしては、実に論理的かつ常識的かつ一般的な意見だったろう。 だからなのか、氷河は、星矢のその意見には反論してこなかった。 二度目の溜め息を洩らし、二人の仲間に、全く別のことを尋ねてくる。 「おまえら、俺が瞬とこういう仲になるまで、瞬が俺をどう思っていると思っていた?」 「え……? そりゃあ――」 星矢が即答をためらうことになったのは、彼が、突然そんな話を振ってきた氷河の意図を疑ったからだった。 氷河は、自分に都合のいい事柄を並べ立てて 己れの非を糊塗することを企んでいるのではないだろうか――と。 星矢がそういう疑念を抱くことになったのは、とりもなおさず、氷河の質問に対する星矢の答えが氷河に都合のよいものにならざるを得なかったから、だった。 「そりゃまあ……おまえにまとわりつかれて、まんざらでもないっていうか、妙に嬉しそうっていうか――」 「どう見ても、俺に気があるようだった」 星矢がはっきりと言わないことを、氷河が自分で断言する。 星矢は、氷河のその主張を、しぶしぶながら認めないわけにはいかなかった。 「まあ、そう見えなくもなかったな。少なくとも瞬は おまえを嫌ってはいなかったろう。かなり好意を抱いていたんじゃないか? これは俺の私見だが」 氷河に疑いの目を向けている星矢をなだめるように、紫龍が、彼の見た現実を口にする。 事実は事実なのだ。 星矢が疑念を抱く気持ちはわからないではないが、偏見をもって物事を見ることは、人に明白な事実を見誤らせる。 そして、現場に立ち合った者が4人しかいないところで、私見が3つ一致すれば、それは十分に妥当かつ客観的な見方と言っていいだろう。 氷河が、紫龍に頷く。 「俺もそう思って、ある日、事に及んだ。ひと月ほど前のことだ」 「うん、それで」 話は いよいよ問題の“その時”に及ぼうとしているらしい。 氷河にまとわりつかれて、まんざらでもない様子を見せ、妙に嬉しそうにしていた瞬が、大変貌を遂げることになった、歴史的“その時”。 星矢は、我知らず 身を乗り出して、続く氷河の言葉を待ったのである。 そうして、星矢たちが氷河に知らされた事実(?)は、事件性があるのか ないのかの判断に迷う、実に微妙なものだった。 それは確かに ありふれたことでも、日常茶飯に類するようなことでもなかったが、未曾有の大事件というわけでもなかったのだ。 「瞬の反応は極めて良好、感度は抜群、つつがなく事は成り、俺が満足したのは改めて言うまでもないことだが、瞬は俺以上に満足していたと思う。初めてで、男同士で、こんなことがありえるのかと、俺はそれこそ奇跡を見る思いだった。瞬は、全くへたくそで、ぎこちなくて、怯えてさえいるようだったのに、とにかく いい反応で――いや、すごいんだ。すごかった」 ――と、氷河は言ったのだ。 もちろん、それは、氷河の自己申告にすぎない。 氷河一人の主観から成る見解であり、そこに誤認がないとは、誰にも言い切れない。 当然、安易かつ完全に信じるわけにはいかないが、星矢たちは『それは嘘だ』と断じる根拠を持ってもいなかった。 となれば、この場は、氷河の報告を前提にして話を進めていくしかない。 ゆえに星矢は、氷河の報告に『それは嘘だ』と反駁することはせず、彼に その先の言葉を促したのである。 「で?」 ――と。 ところが、星矢の催促に対する氷河の返答は、 「で? とは?」 という、寝とぼけているとしか思えないような代物だった。 氷河が阿呆のように馬鹿げた反問を返してくるのに、星矢は少しく苛立ちを覚えることになったのである。 ここからが本当の本題。 なぜこういう事態が生まれたのかが ついに判明する、山場にして峠(のはず)。 だというのに、『で? とは?』はないだろう。『で? とは?』は。 「だーかーらー! そんなにうまくいったのに、なんで瞬はあんなに沈んでるんだよ! おまえに名前を呼ばれるたびに びくびくしてさ!」 「瞬も満足したというのは、おまえの独りよがりな思い込みだということはないのか? 俺たちの目には、瞬はおまえの部屋に行くことを嫌がっているようにしか――いや、むしろ恐れているようにしか見えないんだが」 星矢と紫龍が知りたいのは、氷河にまとわりつかれて、まんざらでもない様子を見せ、妙に嬉しそうにしていた瞬が、大変貌を遂げるに至った経緯と原因だった。 にもかかわらず、氷河から返ってくる言葉は、 「おまえ等に、俺の下で喘いでいる瞬を見せてやりたいぞ。本当に」 という、要領を得ないもの。 もし氷河が嘘をついておらず、仲間たちに隠し事もしていないのであれば、これらのことから導き出される結論は ただ一つだけだった。 すなわち、 「もしかして――もしかして、もしかすると、実は おまえにも瞬がおまえにびくついてる理由がわかってないのか?」 という結論である。 果たせるかな、星矢のその問いかけに対する氷河の返答は、 「皆目」 の一言。 その一言で、星矢は、自分たちのこの会合は、何も得るもののない会合になることが最初から決まっていたという事実を知ることになったのである。 否、得たものはあった。 星矢は、この会合において、甚大至大な徒労感と疲労感だけは手に入れることができていたのだ。 |