この ひと月の間の瞬の不可解な態度の理由はわかった。
それは、昭和一桁以前に生まれた日本男児もかくやとばかりの氷河の無意味なプライドが、瞬を誤解させたせいだった。
プライドと言えば聞こえがいいが、要するに それは“不精”である。
氷河は、瞬に恋した男が当然 為すべき行為を省略して、自分がしたいことだけをしたのだ。
それは責められ なじられて当然の悪行だったが、星矢と紫龍は、氷河を責めることより、瞬の心を安んじさせることを優先することにした。
それこそが、瞬を好きだという男と、瞬の仲間である者たちに課せられた急務。
他の何をおいても成し遂げなければならない最優先事項だろうと、二人は考えたのだった。

何はともあれ、一刻も早く瞬の誤解を解いてやらなければならない。
そう考えて、星矢は その場に瞬を引っ張ってきたのである。
引っ張ってきて、どう話を切り出すべきかに悩み、星矢はさっさと自分のバトンを紫龍に放ってしまった。
バトンを押しつけられた紫龍が、ごく短い時間 何ごとかを黙考してから、おもむろに口を開く。

「ああ、瞬。今 ちょっと氷河と話をしていたんだが、俺たちにも、おまえの言う通り、氷河には何か悪いものが憑いているように思えてきたんだ。で、氷河に憑いている悪い魔物を追い払おうと思うんだが、追い払うにしても、今ひとつ その魔物の正体が判然としなくてな。瞬、おまえ、おまえが知っている限りのことでいいから、氷河に魔物が憑いた時のことを詳しく話してくれないか」
「え……?」

星矢はどうやら、何のためにお出ましを願うのか、そのあたりの事情を何も告げずに、問答無用で瞬をこの場に引っ張ってきたらしい。
いったい何が起きたのかと困惑しているようだった瞬は、紫龍のその言葉を聞いて、僅かに安堵したような表情を浮かべた。
が、それも一瞬のこと。
瞬は、すぐに、星矢に この場に連れてこられた時よりも更に困惑が深まったような表情を浮かべることになったのである。
それは当然のことだったろう。
『氷河に魔物が憑いた時のことを詳しく話す』ということが、何を話すことなのかということに思い至ったならば。

氷河に憑いている悪い魔物を追い払うため――と言われても、瞬は、その時の様子を仲間たちに語ることを ためらわないわけにはいかなかったらしい。
しかし、氷河に憑いている悪い魔物を追い払うために――瞬はそのためらいを振り払ったようだった。
到底 明瞭とは言い難い声で、瞬はその時のことを仲間たちに語り始めた。
紫龍の背後にあるソファに、懸命に苛立ちを抑えているように むっとした顔で座っている氷河を ひどく気にしているような目をして。

「1ヶ月くらい前の夜だよ。そろそろ眠ろうと思って自分の部屋に入ろうとしてたとこを、僕、氷河に呼びとめられたの。大事な話があるって言われて、それで氷河の部屋に入って、大事な話って何なのかって訊いたんだよ。そしたら、氷河は急に恐い顔になって、物も言わずに僕の腕を掴みあげてきたんだ。僕、びっくりして、でも、動けなくて――動けなかった。けど、そんなはずないって思ったんだ。そんなはずないでしょ。僕、聖闘士なんだよ。小宇宙だって腕力だって、僕は、氷河と互角程度のものを持ってると思う。なのに、動けなかった。そうしているうちに、氷河は僕を……あの ……抱きしめたり、着ているものを脱がせようとしたり、キスしたり、あちこち触ったり……あの……いろんなことをしてきて――。その時には僕、完全に自分で自分の身体を動かせなくなってた。何か変だって思って、恐くなって、でも、僕、なぜだか だんだん――」
「気持ちよくなってしまった、と」

それ以上 瞬に詳細説明を強いるのは酷なことだと判断した紫龍が、瞬の代わりに、氷河の行動が瞬をどういう状態に至らせたのか、その結末を口にする。
瞬は、一度きつく唇を噛みしめてから、苦しそうな顔で頷いた。
「きっと、氷河に憑いてる悪い魔物のせいなんだ……! でなきゃ、あんなことされて、僕が あんな気持ちになるなんてことはありえないもの! 氷河に憑いている悪い魔物が、不思議な力を使って、僕をおかしくするんだ……!」
「……」

氷河に悪い魔物が憑いていないことを知っている紫龍としては、瞬の必死の訴えに安易にコメントをつけることはできなかったのである。
真実を言えば、瞬が傷付く可能性があり、かといって、瞬を傷付けないために その場しのぎの嘘を言うわけにもいかない。
結局 紫龍は、瞬の事実誤認には何のコメントもつけず、別の事実を口にした。

「瞬。氷河は、おまえが好きだから、そういう行為に及んだのだと言っている」
が、その事実は、瞬にとっては、決して事実たり得ないものだったらしい。
瞬はすぐに紫龍に反駁してきた。
「そんなはずないよ! 氷河は僕に何も言わずに――急に形相が変わって、恐い顔になって、僕を睨んで動けなくして、それで……僕にひどいことをしたんだ!」
「……」

今夜は一発決めると固い決意をした男の顔がどういうものなのか。
星矢も紫龍もそんなものを見たことはなかったが、それがどういうものなのか、全く想像できないわけでもない。
氷河は、そういう顔をしていたのだろう。
そして、それまで瞬の前では優しい男を装っていただけに、瞬にはその変貌が、悪魔に取り憑かれた男のそれに見えたのだ。

そんな瞬には、紫龍もさすがに深い同情を覚えたのである。
まったくもって氷河はけしからぬ男だとも思った。
だが、事実は事実なのだ。
「あー……。氷河は、おまえのことが大好きなんだが、恥ずかしくて言えなかったんだそうだ。おまえは自分の気持ちをわかっていてくれると、氷河は勝手に思い込んでいた。さっきは、氷河には 何か悪いものが憑いているようだと言ったが……俺たちは本当は、氷河の話を聞いて、氷河には魔物も悪霊も憑いていないという結論に達したんだ」
「そ……そんなはずないよ! 氷河には、何か不思議な力を持った魔物が憑いてるんだ! だって、そうでなかったら、どうして僕が あんなふうになっちゃうの!」
“あんなふう”になっていることは、瞬も自覚できているらしい。
自覚できているからこそ、瞬は、そんな自分に懊悩しているのだろう。

「そりゃ、よっぽど おまえの感度がいいか、おまえらの身体の相性がいいか、おまえが好き者だったんだってことなんじゃ――」
たとえ推測以上の事実だったとしても、それは瞬に言ってはならない言葉だった。
言ってはならない言葉だったのだと気付いて、星矢は一応 彼の推測を最後まで口にすることをやめたのである。
ほとんど最後まで言ってしまってから。

瞬の感度がいいのか、二人の身体の相性がいいのか、あるいは瞬が好き者なのか。
瞬がそのいずれか一つ、あるいは複数に当てはまる人間だったとしても、そういう人間が同時に“地上で最も清らか”な人間であることは不可能なことではない。
そして、瞬は、不可能を可能にすることが得意な青銅聖闘士の一人なのである。
地上で最も清らかな人間であるところの瞬が、好きでもないのに、『好き』と言われたわけでもないのに、同性の仲間に突然そんなことをされ、しかも“いい気持ち”になってしまったのだ。
瞬がそんな自分を認めることができず、それを氷河に取り憑いた不思議な力を持った悪い魔物の仕業なのだと思おうとしたのだとしても、それは致し方のないことだったのかもしれない。

「星矢や紫龍まで悪い魔物に取り憑かれちゃったの !? 氷河には、何か不思議な力を持った悪い魔物が憑いているんだ! でなかったら、僕があんな――」
瞬の声には涙が混じっていた。
か細い涙声で、瞬は、
「でなかったら、僕があんなふうになるはずない……」
と、それだけを繰り返す。

そんな瞬の前で、星矢と紫龍がお手上げ状態になった時だった。
それまで当事者の片割れでありながらソファに腰をおろしたまま無言を貫いていた氷河が、突然 掛けていた椅子から立ち上がり、立ち上がった その足で、這いつくばるように瞬の前で土下座をしてみせたのは。
さすがの氷河も、それ以上、切ない涙声の瞬の訴えを聞いていることには耐えられなかったらしい。
まして、瞬をそんなにも苦しめている原因は、氷河自身の不精と詰まらぬプライドで、彼自身は ほとんど重要性を感じていなかった ごく短い言葉なのである。

『俺はおまえが好きだ』という一言を、瞬に告げるか告げないか。
その一事がこれほど重要な問題だということを、氷河は全く考えずにいた――思い至ってすらいなかった。
氷河の頬を蒼白にしているものは、何よりもまず、瞬がそれほど苦しみ傷付いていることに気付いていなかった彼自身の迂闊だったろう。

「すまん、瞬。俺が悪かった! 俺が悪かった! もう少し待てばよかったんだ。俺が焦りすぎた。おまえが誰より大切で、だから、誰にも渡したくなくて、焦って、そのくせ、好きだと言うこともできず――俺は本当に馬鹿で臆病な不精者だ。だが、好きなんだ。俺はおまえが好きで、好きだからあんなことをしたんだ。それだけは わかってくれ。いや、わからなくてもいい――わからなくてもいい、せめて 知ってくれ……!」

突然、氷河に目の前で這いつくばられて、瞬はひどく驚いたようだった。
なぜ氷河がそんなことをするのか、その理由さえ わかっていないように瞳を大きく見開く。
やがて、瞬は、この事態にどう対処したものかを迷い、幾度も瞬きを繰り返すことになった。

星矢たちの驚きは、だが、瞬以上だったかもしれない。
好きだの愛してるだの、そんなセリフは男の沽券に関わるから口にしないと偉そうに言っていた氷河が、人目もはばからず――瞬以外の人間の目があるというのに――土下座などという行為をしてのけたのだから。

氷河の価値観からすれば、土下座という行為は、相当に屈辱的な行為のはずである。
余程のことがない限り、男がそんなことをすべきではないと認識している行為のはずだった。
氷河がそれをしたということは、つまり、瞬を傷付ける行為が 氷河にとっては“余程のこと”だということ。
そして、氷河は 詰まらぬプライドに拘泥するような どうしようもない男だが、彼は 自分が謝らなければならない時には そのプライドを捨てて潔く謝罪できる男だということだった。
氷河は確かに馬鹿な男だが、彼は自分の非を認めることをしない、救い難いタイプの馬鹿ではない。
氷河にここまでの悔恨を見せられてしまったために、星矢たちも、『馬鹿だから』という理由で、氷河を見捨てることはできなくなったのである――見捨てるべきではないと思うことになった。






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