「氷河が……僕を好き?」 瞬は、本当に、その事実――第三者の目から見れば、火を見るより明らかな その事実――を知らずにいたらしい。 知らずに、氷河の乱暴に耐えていたらしい。 そして、瞬が知らずにいたその事実は、瞬にとっては何よりも――自分が氷河に乱暴されていることよりも、氷河に悪い魔物が取り憑いていることよりも――重要な問題だったらしかった。 それまで、声は涙そのものでできていたが、実際に涙を零すことはかろうじて耐えていた瞬の瞳から、初めて涙の雫がこぼれ落ちる。 瞬のその涙が悲嘆や苦痛によって生じた涙でないことは、瞬ならぬ身の瞬の仲間たちにも容易に察することができた。 「おまえが氷河といる時にどんなふうになってしまうのかは、俺には知りようもないが――」 紫龍が白々しい前置きをしたのは、彼が為した盗聴行為を隠蔽するための卑怯な保身だったろうが、「瞬。多分、おまえも氷河のことを好きなんだと思うぞ。だから、まあ……おまえは氷河にそういうことをされて、いい気持ちになってしまったわけだ。好きな相手に抱きしめられたら、そういう気持ちになるのは ごく自然なことだろう」 彼が瞬に その事実を知らせてやったのは、瞬と――そして、氷河のためだったろう。 「自然なこと?」 瞬に問い返された紫龍は、氷河と瞬が同性同士だという事実は あえて脇に置いて、瞳を潤ませている仲間に頷いた。 瞬は、好き合っているわけでもない二人が その行為によって快感を得てしまうことを“あってはならないこと”だと考えたから、氷河は悪い魔物に取り憑かれたのだという考えを抱くことになった――おそらく。 だが、“好き合っているわけでもない二人”が、実は“熱烈に恋し合っている二人”であったなら、瞬は そんな考えを抱く必要はなくなるのだ。 氷河は瞬を好きで、瞬も氷河を好きでいるのなら、そんな二人が互いを抱きしめ合うことで喜びを得てしまうのは、悪い魔物の介在を要しない自然なことになる。 となれば、瞬は、この ひと月の間 我が身を支配していた苦痛や苦悩をなかったことにしてしまえるのだ。 これ以上に望ましい結末はない。 その結末に至るために、星矢は紫龍の言に後押しを加えた。 「こんな明治一代男のどこがいいのかは知らないけど、おまえは、滅茶苦茶 氷河のことを好きだったと思うぞ。フツー、男が男に優しくされて嬉しいか? 気持ち悪いだけだぞ。少なくとも俺は、氷河に優しくされても全然 嬉しくない。おまえはいつも嬉しそうにしてたけどな」 「あ……」 星矢の後押しの言葉は、瞬に、傷付く以前の自分の心を思い出させることに役立ったらしい。 氷河に優しくされて嬉しかったこと――自分が以前は確かに氷河に好意を抱いていたことを。 以前の自分の心を思い出せたことが嬉しいのか悲しいのか――瞬は、再び その瞳から新しい涙を零すことになった。 「僕……氷河がわからなかったの。自分がわからなかったの。氷河は僕の大切な仲間で、あんなことするはずがなくて、僕だって、あんなことされて気持ちよくなるはずなくて、だから、氷河は何か悪い魔物か何かに取り憑かれて、そのせいで僕もおかしくなってるんだって思って……思おうとして――」 「“魔物”というのは合っているかもしれないな。不思議な力で おまえと氷河を襲った魔物の名前は、おそらく“恋”と言うんだ。氷河はおまえが好きで、おまえは氷河が好きだった。氷河がちゃんと言うべきことを言って、踏むべき手順を踏んでさえいれば、おまえも要らぬ苦しみを苦しまずに済んだ。だが、まあ、許してやれ。氷河も深く反省しているようだし、氷河を許せば、おまえも楽になれる」 紫龍や星矢の言葉は、瞬には、命をかけた戦いを共にしてきた仲間の言葉。 誰の言葉よりも――神の言葉よりも――信じるに足る者たちの言葉である。 その上、瞬は今、彼等の言葉を信じたくてたまらない状態にあった。 「僕、変じゃないの……?」 「少しも」 「僕、氷河を好きだったの……?」 「おそらく現在進行形だと思うぞ。もちろん、氷河もだ」 「僕、変じゃないの……」 自分は瞬を好きなのだから瞬に何をしても許されると考えて、罪悪感のかけらも抱いていなかった氷河とは対照的に、瞬は、氷河との行為を拒みきれない自身の優柔不断を 魔物の悪行を助長することと考え、罪悪感を感じていたのだろう。 だが、氷河と身体を交えることは心地良く――自分の意思ではやめられないほど心地良く――瞬は、どうしても氷河を突き放してしまえなかった。 もしかすると、この ひと月の間、瞬を最も苦しめていたのは氷河の無体ではなく、そんな氷河を突き放してしまえない自分自身の弱さだったのかもしれない。 だが、それは“なかったこと”になるのだ。 氷河が瞬を好きで、瞬が氷河を好きなのであれば。 先程からずっと両手と両膝を床につけたままでいた氷河の前で、瞬は膝を折った。 床につけられている氷河の手の甲に自分の手を重ね、瞬が氷河に尋ねる。 「僕、変じゃないの……僕、氷河の側にいてもいいの……」 そして、瞬が最も恐れていたことは、氷河に魔物が憑いていることではなく、魔物に逆らって 氷河に害を及ぼされることでもなく――自分が氷河の側にいられなくなることだったのかもしれない。 だが、そんな心配も無用のものになった。 「俺を許して、おまえの側にいさせてくれ」 氷河が、無意味なプライドのせいで言わずにいた言葉を瞬に告げることによって。 「俺はおまえが好きだ。世界中の何より、誰より、おまえがいちばん好きだ」 「あ……」 瞬の涙は、すっかり喜びでできたものに変わっていた。 「よかった……。嬉しい……」 そして、自分が謝るべき時に謝ることのできる男は、自分が、世界の何より誰より好きな人を抱きしめるべき時に抱きしめることのできる男でもあった。 言葉は言葉でしかない。 だが、それは、人類が発明した、最大にして最高の道具。 使うべき時に適切に使えば、人類の偉大な発明品は、懊悩の淵に沈んでいた不幸な人間を 世界で最も幸福な人間にすることもできるのである。 |