幼い子供であるにもかかわらず、瞬は心身共に強かった。 どんな困難にも挫けることなく、必ず打ち克ち、しかも優しく親切。 瞬は、東に暴力によって虐げられている人がいれば、行って乱暴者を懲らしめ、そんなことをしてはいけないと諭し、西に孤独を嘆き悲しんでいる子供がいれば、行って抱きしめてやり、南に病を得て伏している老人がいれば、行って看病してやり、北に寒さに凍える家族がいれば、行って暖めてやった。 瞬に救いの手をさしのべられた人々は、誰もが瞬に感謝した。 瞬の力があるために、世界は平和で、その世界の住人は皆 優しい心を持っていた。 もちろん、時には意地悪な人間や悪事を働く人間が出てくることもあるにはあったが、そういった者たちも、瞬に諭され、あるいは 懲らしめられると、すぐに改心して優しい心の持ち主になるのである。 ある日、氷河が悪者にいじめられているところに通りかかった瞬が、悪者の手から彼を救い出してやった時には、それまで瞬にはいつも素っ気なかった氷河がすっかり態度を改めて、 「ありがとう、瞬。俺はいつも おまえをいじめていたのに。おまえは本当は強かったんだな」 と、感謝の念のこもった目をして言ってくれた。 「ううん。氷河、これからは仲良くしてね」 少しも偉ぶった様子を見せずに 瞬がそう告げると、氷河は瞬に尊敬の眼差しを向けて 嬉しそうに頷いてくれたのだ。 平和な世界。 善良な人間だけが存在する世界。 苦難はあっても、それは必ず乗り越えることのできる苦難で、理不尽な不平等や 耐えられないほどの悲しみなどはどこにもない世界。 その世界で、どんな時にも正義を貫き強く公平な瞬は誰からも好かれ、もちろん瞬自身も幸福だった。 いつまでも、この世界で生きていたい。 この世界に生まれてきて本当によかった。 瞬が心の底から そう思った時、外の世界から瞬を呼ぶ声が聞こえてきたのである。 「瞬! おい、瞬! おまえ、生きてんのか? 寝てるのか? 死んでるのか? 目を覚ませ!」 それは、つい先程 瞬が悪者の手から救い出してやった金髪のいじめっ子の声で、しかも、瞬を優しく気遣う者の口調ではなかった。 むしろ、それは世界の平和を守るため懸命に努めている瞬に呆れ、なじり、責めているような声だった。 その声が、瞬の意識を現実に引き戻す。 目を開けた途端に視界を覆った氷河の瞳の青色に、瞬はびっくりした。 そして、次の瞬間には、大いにがっかりして 両の肩を落とすことになったのである。 城戸邸の浅春の午後の庭。 そこにあるベンチに腰掛け、目を閉じて、瞬は空想の世界に遊んでいたのである。 後ろ髪引かれる思いで 夢の世界から現実の世界に戻ってきた瞬を見おろしている氷河の瞳は、ひどく不機嫌そうな色を呈していた。 「あ……ごめんなさい。生きてる……起きてるよ」 瞬は決して眠っていたわけではなかった。 はっきりと覚醒し、自分が覚醒していることを自覚してもいた。 眠っている時に見る夢は、これほど楽しく素敵なものにはならない。 それは、暗闇にひとり取り残されている夢であることが多かった。 どんなに悲しくて苦しくても、誰も瞬に救いの手を差しのべてくれることはない。 時には、得体の知れない影のような人間に打ち据えられ泣き叫んでいる夢を見ることさえ、瞬はしばしばあったのである。 眠っている時に見る夢は、決して瞬の思い通りにはならなかった。 だが、目覚めている時に見る夢は違う。 瞬が意識して見る夢――瞬が自分の意思で夢想する夢の世界は。 そこでは何もかもが瞬の望む通りの姿をしている。 瞬自身も、泣き虫の ひ弱な子供ではなかった。 瞬の中の空想の世界、瞬が作るファンタジーの国では。 瞬は、その世界に意識を飛ばすのが好きだった。 そこでは瞬は、欠点のない完全な人間になることができる。 理不尽なことを命じる大人たちもいなければ、瞬を泣き虫弱虫とからかう いじめっ子もいない。 誰もが瞬に優しく、瞬に好意を持っている。 もちろん、瞬も、その世界の住人すべてを愛している。 完全な世界、理想の世界には、愛するに値しない人間など存在しないのだ。 一つとして欠点のない素晴らしい夢の世界から、理不尽と不公平が横行する現実の世界に引き戻された瞬は、だから、ひどく落胆することになったのである。 現実世界では瞬は完全無欠で無敵のヒーローでも何でもなく、無力で ひ弱な ただの孤児だったから。 「こっちの世界でも、氷河があんなふうに優しかったらよかったのに」 瞬はまだ完全には現実世界に戻りきれていなかったのかもしれない。 その呟きを、瞬は声に出して言ったつもりはなかった。 呟いたにしても、現実世界で呟いたつもりはなかった。 が、瞬は、その考えを現実世界で 実際に声に出して言ってしまっていたのである。 瞬の呟きを聞きとめた氷河が、それでなくても不機嫌そうだった顔を更に歪めて、瞬を問い質してくる。 「なに? おまえは何を言ってるんだ? まるで俺がおまえに優しくないみたいじゃないか。『あんなふうに』とはどういうことだ」 「あ……そういう夢を見てたの。それだけ」 「夢? おまえは今、起きていたと言ったばかりだろう」 そこで突っ込まないでほしい――と、正直 瞬は思ったのである。 どうして氷河は、こう意地悪なのだろう――と。 「起きてる時に見る夢だよ。いつも見てる。僕の夢の世界では、僕はすっごく強い正義の味方なんだ。今日は、悪者にいじめられてる氷河を助けてあげた。氷河は、僕に『ほんとは強かったんだな』って言って褒めてくれたよ。すごく優しかった」 氷河に怒られ馬鹿にされるのを覚悟して、瞬が正直に自分の夢の内容を氷河に語った理由はただ一つ。 咄嗟に上手な嘘が思いつかなかったから――だった。 たった今まで瞬が見ていた夢の世界では、嘘をつく必要がなかったから。 『平気だよ』『大丈夫だよ』『僕、頑張るから』――現実の世界では、瞬は嘘ばかりついていたのだが。 案の定、氷河は、瞬の夢物語に相当に立腹したようだった。 「馬鹿らしい! 泣き虫のおまえが“すっごく強い正義の味方”だと!」 吐き捨てるように そう言って、氷河は瞬を睨みつけてきた。 いつもの瞬であれば、氷河にこんなふうに頭ごなしに怒鳴りつけられたなら、無言で俯くだけだっただろう。 反駁しないことで、自分に向けられる怒りをやりすごす。 それが、幼い瞬が幼いなりに身につけた処世の術だった。 だが、今日ばかりは、こればかりは、瞬も無言で氷河の怒りをやりすごしてしまうことができなかったのである。 その夢は、瞬には何よりも大切な慰めで、何があっても決して失いたくないもの、誰にも否定されてしまいたくないものだったから。 「で……でも、夢を見るのはいいことでしょう? ここに来る前にいた教会の神父様に、僕、そう言われたよ。どんなにつらいことがあっても、夢見ることを忘れちゃいけないって」 「その神父だか牧師だかが言った夢っていうのは、どんな努力をしても実現したい理想の自分や理想の世界のことだろう。努力込みの理想のことだ。努力を伴わない夢は、ただの想像で、夢想で、逃避だ。おまえは“泣き虫で弱い自分”っていう現実から逃げてるだけなんだ!」 「あ……」 確かに瞬は、強く優しい人間になりたいと熱烈に願っていたが、そのための努力は ほとんどしたことがなかった。 いつも、ただ そんな自分を夢見るだけで。 氷河の正論――おそらく、正論なのだろう――に、瞬はしょんぼりと肩を落とすことになったのである。 そして、氷河がもう少し優しかったらいいのに――と、瞬は、またしても儚い夢を見た。 「そういう逃げはよくない。危険だ。そんな夢ばっかり見ていると、現実に耐えられなくなって、現実の自分が許せなくなって、ろくなことにならないぞ、絶対」 氷河は容赦なく瞬の夢を否定し、壊そうとする。 厳しい顔で厳しいことを言う氷河の前で、瞬は、『現実から夢の中に逃げることで、かろうじて生きていられる人間もいるのだ』と、そんなことをぼんやりと思ったのである。 だが、他者にそれを伝える適切な言葉が思いつかず、瞬は結局、氷河の前で無言で俯くことになったのだった。 いつもの通りに。 |