氷河と目が合うたび、瞬がその視線を脇に逸らすようになったのは、その時からだった。 決して そうしようと意識してのことではないのだが、氷河と目が合うたび、瞬の心臓は恐れに似た感情のせいで大きく跳ね上がり、瞬の目と身体は、氷河の軽蔑の色を浮かべた瞳を見ずに済むようにと、自然に そういう反応を示してしまうのだ。 その“自然な反応”で氷河を不快にしてしまうことを恐れ、瞬は以前より兄の陰に逃げ隠れることが多くなっていった。 瞬が氷河に対してそういう反応を示すようになってから数日が経ったある日のこと。 その日のトレーニングは終わったというのに更衣室にも行かず、トレーニングルームの窓の近くで うろうろしている氷河の姿に、瞬は出くわしてしまったのである。 氷河は何かを捜しているようで、ベンチの下や窓の外を覗き込んでは 唇をへの字に曲げていた。 「氷河は何を捜してるの?」 瞬は、氷河当人ではなく星矢に、氷河の捜し物が何なのかを尋ねた。 たった今 瞬と一緒にサーキットトレーニングを終えたばかりの星矢が、氷河の捜し物の正体を知っているはずがないことは わかりきっていたのに。 「さあ」 星矢は、この頃 瞬が 氷河と目が合うたびに逃げるような素振りを見せることに気付いていたのだろう。 彼は、瞬の知りたいことを、瞬の代わりに氷河に尋ねてくれた。 「氷河ー! 何か捜し物かーっ」 人影の少なくなったトレーニングルームを睨んでいた氷河が、星矢の声がした方に視線を巡らせてくる。 隣りに瞬が立っているのに気付くと、お決まりの睥睨を瞬の上に投じ、それから氷河は低くぶっきらぼうな声で、彼が捜しているものが何なのかを仲間たちに知らせてきた。 「マーマのロザリオ。サーキットトレーニングの前に外して、タオルと一緒にベンチの上に置いたのがなくなってる」 「え……」 氷河がそれをどんなに大切にしていたのかを、瞬はよく知っていた。 中央に青い石が嵌め込まれたそれを、氷河はいつも身につけていたのだ。 「そこの窓の脇のベンチに置いたのか?」 サーキットトレーニングの 氷河は、見るからに不機嫌そうな顔で、無言で瞬の兄に頷いた。 春とは名ばかりの、日中でもまだ空気が冷たい季節。 トレーニングルームの窓は、外に向かって大きく開け放たれている。 その向こうには、少し白味がかった冬の青空。 庭先では、冬の間にも完全に葉を落とすことのなかったタイザンボクの木が 晴れた空の中に枝をいっぱいに伸ばして浮かんでいた。 「それは、もしかすると――」 瞬の兄と共に城戸邸の子供たちのまとめ役を任されている紫龍が、その木を見やりながら、氷河に告げた。 「もしかすると、あの木に巣を作っているカラスが取っていったんじゃないか? カラスは、光るものをコレクションする習性があるから」 言われた途端に、氷河は、ドアにまわることはせず、窓から直接 庭に飛びおりていた。 そのまま問題の木に向かって駆け出した氷河のあとを、瞬たちは(こちらはドアまでまわって)追いかけることになったのである。 いつもの恐れとは違う感情のせいで、瞬の心臓はどきどきしていた。 どうかそこに氷河のロザリオがありますようにと、瞬は祈るような気持ちで願っていたのである。 氷河が何よりも大切にしていた、彼の髪と同じ色のロザリオ。 それが今の氷河の手許に残されている唯一の母の形見――氷河の母の手が触れた唯一のものだということを、瞬は知っていた。 氷河に後れること1、2分。 瞬たちが その場に到着した時には既に、氷河は高さ20メートルはあるだろうタイザンボクのいちばん下の枝に飛び乗っていた。 カラスの巣は 背の高い常緑高木の はるか上の方にあったが、氷河の身軽さをもってすれば、彼がそこに至ることは比較的容易なことだったろう。 タイザンボクの木の枝に取りついている氷河の姿に、某辰巳徳丸氏が気付くことさえなかったなら。 「氷河! 何をしている! すぐに下りてこい! 言うことをきかんと、連帯責任でガキ共全員、今夜の夕飯抜きにするぞ!」 辰巳徳丸氏は、冬の庭に胴間声を響かせながら、タイザンボクの木の下で竹刀を振り回して、氷河を脅していた。 その声にむっとしたらしい氷河は、だが、次の枝に手を伸ばしかけていた手を 結局 下におろすことになったのである。 そのまま、3メートルほどのところにある枝から地面に飛び下り、氷河は 城戸光政の腰巾着の顔を睨みつけた。 「貴様、ここから逃げる気だったな! そんなことをしたら、残されたガキ共がどういう目に合うのかを知った上での逃亡計画か!」 辰巳は、氷河の行動の訳を完全に誤解しているようだった。 問題の木は、城戸邸の広い庭を囲む石塀のすぐ脇にあった。 確かに その木に登り、塀の外側に飛び下りれば、氷河は城戸邸の外に出ることができる。 辰巳の誤解は、ある意味では当然かつ自然な誤解だったかもしれない。 この城戸邸に集められた子供たちに課せられる厳しいトレーニング。 不運で不幸な子供たちに愛情を注ぐ大人の不在。 城戸邸に集められた子供たちが未練を抱く要素は、城戸邸には何ひとつなかった。 同じ境遇にある仲間たちへの思いの他には。 だが、それは誤解なのである。 少なくとも今は、氷河は、そんなことを考えて塀際に立つ高木に登ったのではなかった。 にもかかわらず、氷河は、反抗的な目で“大人”を睨んだまま、ひたすら無言で言い訳の一つも口にしない。 瞬は、そんな氷河の態度を見て、はらはらしていたのである。 氷河が言い訳の一つも口にしないことの理由がわかるだけに、瞬は彼の代弁をするわけにもいかなかった。 氷河は、大切なマーマの思い出を、無理解で思い遣りのかけらもない“大人”に語りたくないのだ。 それは彼にとって、本当に大切なものだから。 氷河の仲間たちでさえ、彼のロザリオがどういうものなのかを語ってもらえたのは ただ一度だけだった。 瞬の不安と胸騒ぎは的中した。 瞬の懸念通り、氷河の反抗的な態度は、大人気ない大人の神経を逆撫ですることになったらしい。 「この糞生意気な毛唐が!」 辰巳が、到底上品とは言い難い声を響かせて、手にしていた竹刀を振り上げる。 彼は氷河を打ち据える気だ! と思った次の瞬間、瞬は、ほとんど反射的に 氷河に抱きつくようにして二人の間に割って入っていたのである。 そして、氷河に抱きついたまま、瞬は、辰巳を見ずに辰巳に向かって叫んでいた。 「氷河は、僕と違って逃げたりなんかしない! 氷河は、ここを出るなら、正々堂々と正門から出ていくよ!」 はたして それが氷河に逃亡の意思がないことを伝えるのに適切な言葉だったかどうか――。 それはさておくとして、ともかく、いつも兄の陰に隠れているばかりだった瞬の 瞬らしくない果敢な行動や大声は、その場にいる者たちの心や意識を刺激することには力を発揮した。 それまで 氷河同様、辰巳の理不尽に腹を立て 彼を睨みつけているだけだった星矢が、頭から湯気を立ちのぼらせている辰巳を なだめるように口を開く。 「あのさー。あんた、誤解してるぞ。氷河は、カラスが氷河のロザリオを取っていったんじゃないかって思って、この木の上にある巣の中を捜してみようとしてただけだ」 「出まかせを言うなっ」 「出まかせじゃないって! いや、そりゃ確かにそう 「かもしれない……?」 星矢は、仲間の濡れ衣を晴らすために、そう言った。 が、結果的に、星矢の言葉は、かえって 彼の仲間たちに不利益をもたらしかねないものになってしまったのである。 星矢の説明を聞いた辰巳は、いかにも“嫌らしい”と表したくなるような光を その目に浮かべ、そして、にやりと意地悪く笑った。 「よかろう。確かめてみよう。もしなかったら、どうなるかわかっているんだろうな、おまえら」 それは辰巳の姑息な策略だった。 星矢は迂闊にも、辰巳に下種な罠のエサを提供してしまったのだ。 辰巳の魂胆に気付いた氷河が、首を左右に振る。 「星矢、もういい。諦める。あるかもしれないってだけのことで、おまえらに迷惑は――」 「氷河、でもさ……」 もしそこに氷河のロザリオがなかったら、辰巳は、氷河が塀の横に立つ高木に登ろうとしていたのは城戸邸から逃亡するためで、星矢は仲間の逃亡計画を隠蔽するために嘘をついたのだと 決めつけるだろう――そういうことにしてしまうだろう。 そして、子供たちを痛めつけるための格好の口実を得た彼は、連帯責任と称して、ここにいる子供たち全員に何らかの罰を与える。 だから――仲間たちのために、氷河は大切なロザリオを諦めると言っているのだ。 そんな決意に至った氷河の心を思い、瞬は泣きたくなってしまったのである。 まだ ほんの子供にすぎない氷河が これほど優しいのに、立派な大人であるはずの辰巳が これほど下卑た性根の持ち主であることが、瞬は恐くもあった。 これから自分たちが生きていく世界――人の世が、どこもかしこも こういう仕組みになっているのだとしたら、それは本当に恐ろしいことだと、瞬は戦慄したのである。 「今更 言い逃れは聞かん。誰か、ハシゴを持ってこい!」 辰巳は、自身の下劣な心を下劣と自覚してもいないらしく、むしろ自分が思いついた意地の悪い計画に悦に入っているようだった。 その場にいる者たちの誰もが彼の指示に従おうとしないことに かえって得意顔になって、辰巳が自分でタイザンボクの木の下にハシゴを運んでくる。 7、8メートルほどの中折れ式のハシゴを伸ばして木の幹に立て掛けると、彼は意気揚々と、だが、かなりの へっぴり腰でハシゴの段を登り始めた。 「氷河に登らせた方が早いのに」 辰巳の無様な格好を下から眺めていた星矢が 呆れたようにぼやいたが、もし問題のカラスの巣の中に氷河のロザリオがなかったらと思うと、瞬は気が気でなかったのである。 |