「おおっ、これは先日 お嬢様が失くしたと言っていたエメラルドのネックレス! 去年 行方不明になった旦那様の懐中時計! なんだ、このコーラの王冠は。今時 ビー玉なんて、どこから持ってきたんだ。ああ、これか、氷河のロザリオというのは――」
幸い、氷河のロザリオはそこにあったらしい。
氷河のロザリオを発見することで その嗜虐趣味を発揮させる口実を失ってしまった辰巳は失望したような声になったが、詰まらなそうな彼のぼやきは、瞬の頬を紅潮させることになった。
瞬が氷河の顔を覗き込むと、表情そのものにはあまり変化は見られなかったが、確かに氷河の瞳も輝いている。

その段になって、瞬は、自分が恐怖と悲しみのために足がすくみ、氷河に抱きついたままでいたことに気付いた。
氷河の手が、瞬の肩の上にある。
彼から離れるきっかけを見付けられず、氷河に抱きついたまま、瞬が困り始めた時だった。
あろうことか、せっかく見付かった氷河のロザリオを 辰巳が塀の外に投げ捨てようとしている姿が、瞬の目の中に飛び込んできたのは。

「だめっ!」
辰巳の卑劣を止めようとする瞬の声は、泣き声でも悲鳴でもなかった。
それは怒りと祈りでできた厳しい命令だった。
無力な子供の非難に良心の呵責を覚えたわけでもないだろうが、辰巳は、人として最低な その行為を実行に移すことだけは思いとどまってくれたのである。
「ふん、こんな安物」
吐き捨てるように そう言って、彼は氷河のロザリオをハシゴの上から無造作に放り投げた。
それを無事に受けとめて、瞬はほっと安堵の息を洩らしたのである。

「はい、氷河」
氷河の大切なロザリオを氷河に手渡せることが嬉しくて、昨日まで彼を恐れ避けていたことも忘れ、瞬は笑顔でそれを氷河の前に差し出した。
氷河が、二つ並んだ瞬の小さな手の平の上にあるものを、無言で見詰める。
やがて氷河は、瞬の手の平に自分の手の平を重ね、冷たい金属を温めるようにしてから、彼の母親の形見の品を握りしめた。

「ありがとう、瞬」
「僕は なんにもできなかったけど――」
結局 氷河のロザリオを見付けてくれたのも、それを氷河の手に返してくれたのも、“意地悪な大人”だった。
この奇妙な事態がおかしくて、少し悲しい。
そういう顔をした瞬に、氷河は首を横に振ってみせた。
「そんなことはない」
そして、氷河は、瞬の前で、瞬にとっては ひどく思いがけない言葉を口にしたのである。

「おまえ、泣き虫だけど、弱虫じゃなかったんだな。ちゃんと強いんじゃないか。心配して損した」
「え?」
瞬の胸に“思いがけなさ”を運んできたのは、『弱虫じゃない』という言葉でも、『ちゃんと強い』という言葉でもなかった。
そうではなく――瞬を驚かせたのは、氷河の『心配して損した』という言葉だった。

「心配……しててくれたの?」
「仕方ないだろ。今のままでいたら、一人で修行地に行った途端、おまえ――」
驚き瞳を見開いている瞬に気付いた氷河が、はっと我にかえったように言葉を途切らせる。
そうしてから、彼はぷいと横を向き、
「別に心配してなんかいない」
と言い訳のように言葉を吐き出して、瞬に背を向けてしまった。

「あ……」
あまりに意外で――それは本当に瞬が想像してもいなかったことで――瞬は、氷河に彼の真意を確かめることさえ思いつかなかったのである。
大切なロザリオを取り戻した氷河は、そのまま すたすたとトレーニングルームのある棟の方に向かって歩き出し、星矢たちはそんな仲間のあとを追いかけていった。
「あってよかったな!」
氷河と、氷河の無愛想をものともせず 嬉しそうに仲間に声を掛けていく星矢たちを、瞬は その場でぽかんと見詰めることになったのである。

仲間たちから掛けられる声に無言で頷いていた氷河は、タイザンボクの木の下から動けずにいる瞬との間に10メートルほどの距離ができると、ふいに足を止め、後ろを振り返った。
そして、いつものように少し怒っているように見える顔と目で、瞬に言った。
「瞬。おまえはきっと、誰かを助けるためになら、夢の中のおまえみたいに強くなれるんだと思う。誰かに勝つためじゃなく誰かを守るためだと思えば、おまえは努力できるし、聖闘士にだって正義の味方にだってなれる。おまえが強くないなんてことはないぞ。絶対」
「氷河……」

その言葉を言うために10メートルの距離が必要な氷河。
滅多に仲間たちに笑顔を見せない氷河。
氷河がそんなふうな子供でいる理由が、瞬は初めてわかった――わかったような気がした。
氷河は、おそらく、とんでもない照れ屋なのだ。
そして、おそらく、自分が優しいという事実を人に知られることを、弱みを握られることと同義だと感じている。
もしかすると氷河は、優しい人間が 卑怯で卑劣な人間に利用され虐げられる場面に幾度も出合ってきたのかもしれない。
人間は意地悪で優しくない方が得だと思っているのかもしれない。
だから、人に感情や表情を読み取られることを恐れ避けているのかもしれない――。

瞬は、優しいのに優しく見えない氷河の態度の訳をあれこれと考えてみたのである。
いずれにしても、自分の優しさを人に知られまいとする氷河の用心は、少なくともその場では無意味なものだった。
なにしろ瞬は、並みの人間以上の視力を有する子供だったから。
10メートル離れたところからでも、瞬には氷河の瞳の様子をはっきりと見極めることができたのだ。

それは、9月の誕生石と同じ色を呈しているせいで冴えて見えたが、決して冷たいものではなかった。
冷たいどころか――氷河の瞳は燃えるような青色をしていた。
一見したところでは全く違う印象を受けるのに、氷河の瞳と眼差しは、非力で泣き虫の弟の身を案じる瞬の兄の瞳と眼差しに酷似していた。

どうしてこの瞳を恐いと感じていたのか。
冷たいと感じていたのか。
瞬は、昨日までの自分の心を 強く訝ることになったのである。
氷河は、現実から逃げることはするなと言いはしたが、努力込みの夢までは否定しなかったではないか。
冷たく突き放しているようにさえ聞こえる氷河の言葉のすべては、泣き虫の仲間の身を案じるがゆえの言葉だったのだ。

自分たちが生きている世界――自分たちがこれから生きていく世界に、もし“立派な大人”が一人もいないのだとしても、“優しい大人”が一人もいないのだとしても、きっと大丈夫なのだと 瞬は思ったのである。
今はどんな力も持っていないにしても、そこに“優しい子供”は大勢いる。
そして、不器用で照れ屋の氷河は、その不器用さゆえに、決して“優しくない大人”になることはできないに違いないのだ。

「あ……ありがとう……!」
照れ屋で不器用な仲間を怯えさせないために、瞬は、10メートル離れた場所から、希望でできた その言葉を氷河に告げたのだった。






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