「僕はそれで聖闘士になれたの。僕が聖闘士になれたのは氷河のおかげだよ」
幼い頃を懐かしむ色を瞳にたたえて 昔話を語り終えた瞬に、星矢は、
「そういや、そんなこともあったなー……」
と、しみじみした口調で答え、頷いた。

星矢が憶えているのは、実はカラス騒動だけだったのだが、瞬にとっては意味深く大切な思い出であるらしい その出来事を カラスで総括するわけにもいかない。
口調だけでも、しみじみした様子を作ったのは、星矢なりの思い遣りだった。
とはいえ、本音を言うなら、星矢は、瞬がそんな昔話を語り、瞬の仲間たちが その昔話を神妙な態度で拝聴している現在の状況に、全く合点がいっていなかったのではあるが。

戦いのない平和な ある日の午後。
恋する某金髪男が、いつものように切ない目をして、彼の片思いの相手を見詰めていた。
それは星矢には見慣れた光景だったのだが、同時に 彼はその光景に ひどく食傷してもいた。
だから星矢は、夕食までの暇潰しを兼ねて、瞬に、
「おまえ、氷河のことをどう思ってる?」
と訊いてみた(だけ)だったのだ。

当然、瞬から返ってくる答えは、『かなりの変人』とか『ものすごいマザコン』とか、そういうものになるのだろうと、星矢は踏んでいた。
万々が一、その質問に対する瞬の答えが『僕、氷河のこと好きだよ』というようなものであったなら、事態は急転直下の解決を見ることになるだろう――という期待も、少しは抱いていたが。

いずれにしても星矢は、『おまえ、氷河のことをどう思ってる?』に対する瞬の答えが、これほど長々しい昔語りになるとは、夢にも思っていなかったのである。
そもそも瞬が語った昔話は、星矢が発した質問への答えになっていない。
星矢が知りたかったのは、恋も知らない幼い頃の瞬の話ではなく、そろそろ恋ができるだろう歳になった今の瞬が、今の氷河をどう思っているのかということだったのだ。

しかし、瞬は、決して星矢の質問内容が理解できていなかったわけでも、質問の意味を取り違えていたわけでもなかったらしい。
瞬の長い昔語りは、現在の瞬が現在の氷河をどう思っているのかという星矢の質問に答えるための壮大な前振り――その答えに必要不可欠な前提説明であったらしかった。

一通り 昔話を終えた瞬が、城戸邸の庭に面したラウンジの窓の前に立ち、彼自身の登場する昔話を黙って聞いていた氷河に、いわく言い難い視線を投げる。
視線を氷河の上に置いたまま、瞬は、今度こそ やっと、星矢に問われたことへの答えを口にした。
「あの時から、僕、ずっと氷河を尊敬してるんだ。人に力を与えられるのって、すごいことだよね」
「尊敬? 氷河を?」

瞬のその答えは、星矢の顔を、クリスマスのディナーに 柏餅を出された子供のそれにした。
そして、次の瞬間には、星矢はげらげらと声をあげて笑い出してしまっていたのである。
なにしろ星矢は、氷河ほど“尊敬”という言葉から遠いところにいる男もいないだろうという考えの持ち主だったのだ。
星矢のその考えは、壮大かつ感動的な瞬の昔話を聞かされたあとの今でも 微動だにするものではなかった。

しかし、星矢の爆笑は、瞬には非常に不本意で、納得のいかないものだったらしい。
それどころか、不愉快なものですらあったらしい。
瞬は、細い眉を吊り上げて星矢を問い詰めてきた。
「星矢! どうして笑うの!」
「いや、だって、氷河がおまえに そんなもっともらしいこと言ったのは、氷河が あの頃からおまえに――」
「理想の自分になるために、人は 夢の世界ではなく現実の世界で努力しなければならないことを理解したのなら、次はぜひ、この世には 努力しても報われない人間がいるということをわかってほしいものだ」
氷河が突然、数年の時を経て再び、もっともらしいこと(?)を言って、星矢の言葉を遮る。

「え?」
瞬は、氷河の唐突な発言に、少なからず驚くことになったのである。
なにしろ、今 この場にいるのは、努力が報われて聖闘士になった者たちだけだったから。
もちろん、努力した人間の努力が必ずしも報われるものではないという事実は、瞬とて よく知っていた。
他でもない瞬自身が、そういう者たちとの争いに勝利して聖衣を手に入れ、故国に帰国してきた人間だったのだから。
その切ない事実は知っている。
だが、氷河が――よりにもよって氷河が――今ここで その事実に言及する訳が、瞬にはわからなかったのである。

が、某天馬座の聖闘士は、今このタイミングで氷河がその発言に及んだ訳も、その発言の意味も、正しく理解していた。
氷河が今このタイミングで その発言に及んだのは、天馬座の聖闘士に余計なことを言わせないため。
そして、氷河の発言の意図は、他の誰でもない現在の氷河自身が、正しく“努力しても報われない人間”だったから――だということを。

「氷河なんかもう、足掛け7、8年も努力し続けてるのに、全然報われてないもんなー」
星矢に言わせまいとして横槍を入れた言葉を、結局 瞬の前で言われてしまった氷河が、むっとした顔で星矢を睨みつける。
星矢は、素知らぬ顔をして、そんな氷河の上から視線を逸らした。

氷河は、余計な口出しをしてくれた星矢を睨みつけることよりも、星矢の発言を嘘でも否定することを 優先させるべきだったろう。
彼がその機会を逸したために、『足掛け7、8年の氷河の努力が全く報われてない』という星矢の言を、瞬は事実として認識することになった――事実と認めないわけにはいかなくなったのである。

「そんな……氷河が何年も努力して報われないことなんて……」
瞬には、そんな事態があるということが信じられなかった。
それ以前に、想像ができなかった。
『“正しい夢”には努力が伴っていなければならない』と瞬に教えてくれた氷河に限って、努力が足りないということはないだろう。
もちろん、努力が必ず報われるものではないという残酷な現実は、瞬もよく知っている。
それでも――瞬にとって氷河は、“努力できる”という才能によって、必ず その努力を成果に結びつけることのできる人間だったのだ。
瞬は、そう信じていたのである。今この時まで。

「あの……もし、僕で力になれることがあったら――」
氷河の努力が足りないということはありえない。
だとすれば、氷河が成し遂げられずにいるという彼の目的は、彼以外の人間の力を要することなのかもしれない。
そう考えて、瞬は、ごく控えめに 彼への助力を申し出てみたのである。

「あ、瞬なら力になれるかもな」
氷河より先に星矢の方が、瞬の提案に乗り気な反応を見せる。
「むしろ、力になれるのは瞬だけだと言うべきだろう」
それまで傍観者を決め込んでいた紫龍までが、瞬の提案を歓迎する素振りを見せてくれた。
それで瞬は背中を押された気分になったのだが、肝心の氷河が、瞬の協力提供を全く喜んでくれなかったのである。

「貴様等、黙れ!」
氷河の鋭い声が、星矢と紫龍を一喝する。
その声の鋭さ激しさに驚いて、瞬は瞳を見開くことになった。
氷河に恩義を感じている仲間が彼に助力を申し出、仲間たちが瞬の助力を有効なものと認めてくれた。
にもかかわらず、氷河が仲間の申し出を怒声で拒む理由が、瞬には全くわからなかったのである。
自分は氷河の気に障るような思い上がったことを言ってしまったのかと、瞬は疑い怯えることになった。
氷河の激昂に肩をすくめた星矢が、そんな瞬に、慰めにも死刑宣告にもとれる言葉を投げてくる。

「まあ、つまり、氷河はおまえに尊敬されても嬉しくもなんともないってことだよ」
「僕に尊敬されても嬉しくない……?」
それは、瞬には、尋常でなく衝撃的な言葉だった。
瞬は、決して 氷河に喜んでほしくて、彼を尊敬していると言ったわけではなかった。
彼に助力を申し出たのも、氷河に喜んでほしいからではなく、純粋に彼の力になりたいと思っただけのことだった。
それでも瞬は、星矢のその言葉に落胆せずにはいられなかったのである。
幼い頃の氷河が、夢の世界に逃げていた非力な子供に力を与えてくれたように、自分も氷河に力を与えることができたなら、僅かでも あの時の氷河の好意に報いることができるかもしれない――。
瞬の申し出は そう考えての、いわば報恩を意図した申し出だったのだ。
だが、血を吐くほどの努力で かろうじて聖闘士になれたような人間には、まだそんな力は備わっていなかったらしい。

現実の世界には、努力しても報われないこと、望んでも叶わないこと、期待通りにはならないことがある。
『理想の自分になるために、人は 夢の世界ではなく現実の世界で努力しなければならないことを理解したのなら、次はぜひ、この世には 努力しても報われない人間がいるということをわかってほしいものだ』
瞬は、氷河に求められたことを、図らずも我が身で実感することになったのだった。






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