助けたいのに助けてやれない氷河のお姫様というのは、沙織のことだろう。
それならば、確かに氷河の夢は実現の難しい夢である。
なにしろ、氷河のお姫様は 人ではなく神なのだ。
氷河が見ている夢は、氷河を助けられる自分になりたいという瞬の夢とは、似て非なる夢――次元の違う夢だった。

氷河の夢は、沙織には迷惑なことなのかもしれない――と、瞬は思った。
彼女は地上の平和と安寧を守るという重責を負った女神で、常の人間とは違うのかもしれない――とも。
だが、今、氷河は窮地に立っている。瞬が望んでいた通りに。
これは、自分が満足するために仲間に窮地に陥ってほしいと望むような卑しいことを考えた罰なのだと、瞬はなぜか思った。
だから、瞬は、氷河のために、沙織の許に赴いたのである。
なぜか“罰”と感じてしまう“罰”を潔く その身に受けることを決意して。
なぜか、ひどく重く感じられる心を抱えて。

「あの……氷河は、沙織さんを助けてあげられる自分になりたくて、でも、そんな自分になれないことを つらく思っているようなんです」
「は?」
いつも礼儀正しい瞬に 挨拶らしい挨拶もなく、突然そんな話を切り出されたことに、沙織は少なからぬ驚きを覚えたようだった。
沙織の驚きは無理からぬことと、沙織にその話を切り出した瞬自身も思っていた。
もっと上手な切り出し方もあるだろうに、あまりに唐突に、それらしい前置きもなく不自然に――これではまるで 自分はこの話が首尾よく進むことを願っていないようではないかと、瞬は思った。

「氷河がそんなふうに思ってしまうのは、氷河が沙織さんを好きだからなんだと思うんです。……多分」
自分の声が自分のものでないように聞こえる。
瞬には、それが、自分が言うべきことではなく、言ってはならぬことであり、言いたくないことであるように思われた。
瞬の中にいる もう一人の瞬が、『やめろ、黙れ』と瞬を怒鳴りつけてくる。
その段になって、瞬は、初めて気付いたのだった。
自分は自分の力で――自分の力だけ、自分の存在だけで――氷河の夢を叶えられる自分になることを夢見ていたのだと。
自分以外の誰かによって夢を叶えられ幸福になる氷河など、“瞬”は本当は毫も望んでいなかったのだということに。

瞬の仲介によって、氷河の恋が成ったとしても、それは、瞬が氷河の夢を叶えたということにはならない。
氷河の夢を叶えるのは沙織であって、瞬ではない。
瞬が望む『氷河の夢が叶う』は、そんなものではなかった。
だが、一度口にしてしまった言葉を取り消すことはできない。
瞬は顔を伏せて、沙織の答えを待つことしかできなかった。
心と身体を石のように硬くして――石のように硬くしようと努めて。

「それは、何かの間違いだと思うけど? どう考えても、私は氷河のタイプじゃないわよ。氷河はもっと――」
まさに 神の裁定を待つ罪人のように心身を強張らせていた瞬に、彼の女神が下した答えは、だが、妙に緊張感に欠けたものだった。
しかも、彼女は、罪人の頬が蒼白になっていることに気付いたのか、言いかけた言葉を途中で途切らせた。
そして、何やら考え込む素振りを見せる。

瞬が恐る恐る顔をあげると、沙織は奇妙に困ったような目で瞬を見詰めていて――その目を見た途端、瞬は大いに慌てることになったのである。
賽は投げられたのだ。
今となっては、沙織の力によってでも――自分以外の誰かの力によってでも――氷河の夢が叶う事態を現出させなければならない。
氷河の夢が頓挫するようなことがあってはならない。
それでは何のために自分が『自分の力で氷河の夢を叶えたい』という夢を諦めるのか わからないではないか――。

「あ……氷河には、助けてあげたいのに助けられてばかりのお姫様がいるんだそうです。そんな人、沙織さん以外に考えられない」
「助けてあげたいのに助けられてばかりのお姫様?」
「信じて貫けば夢は必ず叶うっていうのが、氷河の信念だったのに、氷河は今は自分の夢の実現を諦めている。僕は、そんな氷河を見ていられないんです……!」

それは、瞬の本心からの言葉だった。
自分でなくても、他の誰かの手によってでも、氷河には彼の夢を叶えてほしい。
自分の無力が悲しくはあったが、その言葉は決して嘘ではない。
自分が氷河の夢の実現に関わることができないことは悲しいのに、それでも瞬は、心底から氷河の夢の実現を望んでいた。
だから、瞬は、必死になって彼の女神に訴えたのである。
訴えられた沙織が、やはり困ったような顔をして、短い溜め息を洩らす。
そうしてから、彼女は、気を取り直したように、瞬に尋ねてきた。

「……で、瞬は、つらくないの。そんなことを私に言うのは」
「……つらい……?」
なぜ沙織がそんなことを訊いてくるのか。
彼女の哀れな聖闘士が今 必死に つらい思いに耐えていることが、なぜ彼女にわかるのか。
それは彼女が神だからなのか、それとも彼女の聖闘士が自分の気持ちを隠しきれていないからなのか――。
それは瞬にはわからなかったが、いずれにしても、今ここで沙織に『つらくなどない』と答えても、彼女がその嘘を見破るだろうことは、瞬にもわかった。
だから瞬は彼女に正直に答えたのである。
「……苦しいです」
と。

瞬の正直な答えを聞いて、沙織が安堵したように微笑する。
「そうでしょうとも。あなたは、そんな鈍感な子じゃないもの。言葉にされなくたって、人の眼差しの意味を感じ取るくらいのことはできる子のはずよ」
「え?」
「馬鹿ね。そんな つらそうな顔をして、こんなことをする必要は、あなたにはないのよ。これじゃあ、まるで私が悪者みたいじゃないの。氷河はどこ」
「え……あ、もうすぐ お茶の時間だから、多分ラウンジに――」
「そう。じゃ、あの臆病者に活を入れに行きましょうか」
「あ……あの……沙織さん……?」

事態が、瞬の望んでいた方向とも、瞬が望んでいない方向とも違う方向に――つまりは、瞬の想定外の方向に動いている。
有無を言わせぬ態度で自室のドアに向かって歩き出した女神のあとを、瞬は少々もつれ気味の足で追いかけることになった。






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