ラウンジに氷河だけでなく星矢と紫龍の姿までがあることを認めると、沙織は一瞬 どうしたものかと迷っているような顔になった。
が、すぐに、
「この方がかえっていいかもしれないわね」
と独りごちる。
そして、彼女は、いったい何が起きたのかと訝り心身を緊張させた彼女の聖闘士たちに、高らかに(?)宣言した。
「私は、どこぞの ぽっと出の一神教の神ではありません。同時に中世暗黒時代の欧州人でもなく、混沌の現代に生きている正真正銘の現代人です。こういうことには 至ってリベラルで、差別的思考を持つことや差別的発言をすることの危険性を十分に承知しています」

「こういうこと?」
由緒正しい原初の神であり、リベラルな現代人でもあるらしい沙織は 唐突に何を言い出したのか。
彼女の宣言を聞いた彼女の聖闘士たちが、ある者はその瞳を見開き、また ある者は首をかしげる。
聖闘士たちが抱いた疑念に気付かなかったわけではないだろうが、沙織は彼等の疑念に答えるようなことはせずに、彼女の言葉を続けた。

「もちろんそれはマイノリティな嗜好だし、この現代においても、誰からも諸手をあげて歓迎されるようなものでもないということは、私も承知しています。瞬に その気がないのなら、私だって 氷河の努力を価値あるものとして認めていたかもしれないけど、瞬にとっても氷河は特別な存在のようだから――」
そこまで言ってから、沙織は、彼女の言葉の受け手を“アテナの聖闘士たち”から 白鳥座の聖闘士
一人に絞ったようだった。
椅子には掛けず、窓の側に立ち、沙織の後ろに控えている瞬を見詰めている氷河の方に、彼女は向き直った。

「氷河。あなたは、忍び耐えることが努力だと考えている節があるけど、こういう場合は行動することこそを努力というのよ。ひたすら瞬を見詰めているだけの行為を努力とは言いません。正しい努力もしないで、夢なんか見るものじゃないわ。まず、勇気を出して、瞬に告白するところから始めないと。忍び耐える努力は、瞬に迷惑だと断言されてから始めるべき努力でしょう」
沙織の激励を兼ねた叱咤が氷河限定のものになって初めて、星矢や紫龍は 沙織の言う『こういうこと』がどういうことなのかを理解したらしい。
彼等は腑に落ちたような顔になったが、沙織の後ろに控えていた瞬は、星矢たちとは逆に 瞳の中の当惑の色を濃くすることになった。

自分の斜め後ろに立っている瞬の姿を沙織は見ることはできないのだから、彼女は決して瞬の当惑を故意に無視したわけではなかったろうが、たとえ瞬が沙織と対面する位置に立っていたとしても、彼女はやはり瞬の困惑を無視していたに違いなかった。
「あの……沙織さん……」
「ほんと、冗談じゃないわ。私は氷河のオヒメサマになんかなりたくないし、瞬にそういう誤解をされて居心地の悪い思いをするのも御免だわ」
「そりゃそーだ」
とりあえず事情を理解し終えたらしい星矢が、沙織の不平(?)に 深く頷く。

沙織の言う『こういうこと』の内容を理解することで、星矢たちはすべてを察してしまえたが、瞬は星矢たちのようにはいかなかったのである。
瞬は自分が何かを誤解している可能性に思い至っておらず、自分が誤解するような事態は起きていないと信じてもいた――疑ってもいなかったから。
「ご……誤解……? で……でも、氷河は、お姫様を助けたいのに助けられないのが悔しい――って……。お姫様を助けるのが、氷河の夢だって……。お姫様って、沙織さんのことでしょう?」
『お姫様』というのは、普通は女性を指す言葉である。
そこに誤解の生じようはない。
それが瞬の認識だった。

だが、日本語というものは――否、言葉というものは――そう単純な使われ方をするものではない。
瞬の誤解の根拠を知らされて、星矢は呆れた顔になった。
「オヒメサマって言われて、沙織さんを思い浮かべるところが、瞬のズレてるとこだよなー」
「え?」
もちろん、瞬には、自分のどこがどうずれているのかが全くわからなかったのである。
わかっていたら、人は ずれた発言などしないものであるから、それは至極当然のことだったろう。

そんな瞬に、瞬の認識と世間一般のそれとの齟齬の説明をしてくれたのは龍座の聖闘士だった。
僅かに気の毒そうな顔をして、紫龍が瞬に告げる。
「瞬。おまえには不本意なことかもしれないが、『お姫様』と言われたら、俺や星矢でさえ、真っ先に思い浮かべるのは沙織さんではなく、おまえだ。沙織さんは、お姫様というより お嬢様だろう、やはり」
「……」
瞬は、紫龍の言う一般的認識を不本意と感じることはなかった。
不本意と感じる以前に――『氷河のお姫様 = アンドロメダ座の聖闘士』という等式が、瞬には慮外のことだったのである。
瞬はそんな方程式が成り立つなどということを考えたことがなかった。
瞬は、だから、そういう顔をしたのである。
つまりは、半ば呆けたような顔を。

瞬のその様子を見て、星矢は、それこそ呆れたような顔をすることになったのだが、彼は、瞬の認識と世間一般の認識とのズレに関して、それ以上 瞬を責めるようなことはしなかった。
瞬にそういう誤解をさせた氷河こそがすべての元凶と、星矢は考えていたのだ。
「氷河! おまえ、いつもそんな遠回しな意思表示ばっかりしてるから、瞬に通じねーんだよ! おまえ、ガキの頃から不器用なまんま、全然成長してねーんだから! 『お姫様』なんて言わずに、はっきり『瞬』って言えばいいだけのことなのに、いちいち変な言い回しして、事態を複雑にしやがってよ! 可愛いのが好きだの、甘いのが好きだの、優しいのが好きだのって言ったって、瞬が自分を可愛いくて甘くて優しいって思ってねーんだから、通じるわけねーだろ」

「それで、結局、ジノリのカップではなくジブリのカップでお茶をいれられて、そのお茶に砂糖をスプーンで4杯も投入されて、ミートパイではなくカスタードパイを供される。馬鹿としか言いようがない」
「そもそも、自分の いかがわしい妄想を『夢』なんて綺麗な言葉に置き換えるような卑怯な真似をしてるから、おまえは駄目なんだ。『おまえを押し倒すモーソーに毎晩苦しめられている』って、ほんとのこと言って瞬に泣きついちまった方が、よっぽど正直で誠実な“努力”ってもんだぜ!」

氷河は、言いたい放題をしてくれる仲間たちを殴り倒したいという思いを、必死に抑えているようだった。
それは彼にとっては“努力”の一種だったかもしれないが、別の視点から見れば、努力でも何でもない当為の行為だったろう。
星矢たちが言いたい放題をしている事柄は、すべてが ただの事実だったのだから。

「氷河の夢――って……本当に……?」
『氷河のお姫様 = アンドロメダ座の聖闘士』という慮外の等式を認めることによって、“氷河の叶わない夢”の本当の姿が瞬にも見えてくる。
明瞭な輪郭を持って浮かびあがってきた その夢は、瞬の頬を朱の色に染めるものだった。
それでも氷河当人の口から聞くまでは 安易に信じるわけにはいかないと考えて、瞬は小さな声で氷河にお伺いを立ててみたのである。

氷河から返ってきたのは、
「みんなでたらめだ! 本気にするな!」
という、半ばヤケになったような怒声。
瞬は消沈し、切ない目をして氷河を見詰めることになった。
「本気にしちゃいけないの……」
うぬぼれのために氷河に嫌われることを恐れる瞬には、重ねて そう尋ねることさえ、相当の勇気を要する大変な努力だったのである。
その努力は、幸い、氷河の胸に届いたようだった。

「――しちゃいけない……ということもないが……」
沙織に言わせれば“正しくない努力”を続けてきた氷河が、それまでの努力とは180度方向を転換した言葉を、瞬に告げてくる。
そうしてから ぷいと横を向いた氷河は、
「迷惑だろう」
と、悔しそうに呟いた。

マジョリティ寄りの常識的な判断にった氷河の その呟きが、瞬には それこそ慮外のことだったのである。
そして、瞬には、世間の常識や多数派の側に属することより、氷河の夢の方が はるかに重要で大切なものだった。
迷惑だったなら、『本気にしちゃいけないの』と――『本気にしていいの』と尋ねたりするはずがない。
つまり、瞬は――氷河の夢に登場する“お姫様”が自分であることが嬉しかったのである。
その呼び方は、確かに少々不本意ではあったのだが。

彼らしくなく、どうやらかなり臆病になっているらしい氷河を怯えさせないように静かに、ゆっくり、瞬は氷河の側に歩み寄っていった。
不安と期待、希望と絶望――様々の色と響きを宿している氷河の瞳を捉え、少しだけ微笑する。
「面白いね。僕はいつでも氷河を助けてあげられる僕になる夢を見ていたのに、氷河は逆の夢を見ていたなんて」
逃げずに、夢の現実を見ることが、最初の努力。
夢から逃げるためではなく、夢を叶えるためにする努力こそが正しい努力。
氷河にはそうすることができるはずだと信じて、瞬は氷河にそう言った。
少しく逡巡の様子を見せたが、氷河は瞬の期待に応えてくれた。
不安より期待、絶望より希望の色と響きの勝った眼差しで、氷河が瞬を見詰めてくる。

「夢というのは人それぞれだから」
「信じて貫けば夢は必ず叶うって、今でも思ってる?」
「人は そう信じて生きていくものだと思う」
「夢が叶ってしまったら、氷河はどうするの」
「……その夢を大切にする」
「僕もそうするね。ありがとう」

氷河は、期待と希望の色と響きだけをたたえた眼差しを、瞬に向けていた。
氷河の答えに安堵して、その答えを嬉しく思って、瞬はやっと遠慮のない笑顔を浮かべることができるようになったのである。
それは、瞬の夢が叶った瞬間だったので。






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