氷河の居場所がわかる手掛かりはないかと、氷河からの手紙を何度も何度も読み返しました。 便箋の裏まで読んだよ。 そこに、言葉は何も書かれていなかったけど。 そんな ささやかな手掛かりすらくれないなんて、僕に会いたくないという氷河の気持ちはとても強いものなんだね。 そう思わないわけにはいかなくて、とても悲しくなりました。 小さな隙ひとつない手紙を、僕の前に、こんなに冷酷に突きつけてみせるなんて。 氷河は、今 氷河が生と死のどちらをも恐れていると書いていましたね。 僕も同じです。 僕も、氷河に出会うまでは死だけを願っていたのに。 氷河に会えないので、氷河と一緒に過ごしていられた時のことばかり思い返しています。 初めて出会ったときのこと。 二人で出掛けた場所。 二人で交わした他愛のない言葉。 何もかもが、今は僕の手の届かないところに消えてしまった宝石のように輝いていて、もう二度とこの手にすることはできないのかと思うほどに、その輝きを増していきます。 初めて出会ったのは、このホテルのロビーでしたね。 氷河のとても強い視線を感じて、振り返ったのが僕たちの出会い。 今だから言えるんだけど、僕は、最初は、氷河のことをとても恐いと感じたんだよ。 瞳に、氷河ほど強い力をたたえている人に、僕はそれまで出会ったことがなかったから。 恐くて、すぐに視線を逸らそうとしたのに、氷河の瞳は僕にそうすることを許してくれなかった。 あの時、僕に英国の軍人が声をかけてきたけど、彼が僕たちの間に割り込んできてくれたおかげで僕の視界から氷河の姿が消えて、彼に声を掛けられた最初の数秒間、僕は彼に感謝してさえいたんだ。 すぐに、彼は感謝に値するような人じゃないってことがわかったけど。 あの軍人は、僕を男装した少女と誤解したのか、身につけた銃をこれ見よがしに 僕に絡んできて――なんて言うか、ひどく澱んで見える彼の目に、僕はぞっとしました。 恐くても――恐いくらい綺麗な氷河の目に見詰められている方がずっとましだと思った。 英国は、自国を紳士の国だと自称しているようだけど、あまり信じられない。 野卑な軍人に絡まれている僕を助けてくれたのは、英国紳士なんかじゃなかった。 誇り高い英国紳士たちは、軍人に絡まれている僕を遠目に見ているだけだったもの。 氷河のあれは柔術というの? 気が付いたら、あの軍人が床に仰向けに倒れていて、僕はびっくりしてしまいました。 英国が世界に誇る紳士方も、いったい何が起こったのかわからないといった顔で 目を剥いていたよ。 あの軍人は銃を持っていたのに、氷河は反撃を恐れた様子もなく平然と彼を見下ろしていて、僕はちょっと はらはらしたの。 彼も恥は知っていたのか、それとも氷河に恐れをなしたのか、すぐにどこかに逃げていってしまったけど。 僕は、お礼を言うのが精一杯だった。 助けてもらったのに――やっぱり、氷河の目が恐かったの。 お礼と名前以外 何も言えなくて、逃げるように部屋に戻ってからすごく後悔したんだよ。 いくら氷河の目が恐くても、あの態度はないだろうって。 こんな礼儀知らずに、勇気のない英国の紳士たちをどうこう言う資格はない。 あの親切で強い人も、僕の振舞いには呆れ果てているだろう――って。 だから、翌日、ロビーで氷河に名前を呼んでもらえた時にはとても嬉しかった。 僕の失礼に氷河は気を悪くしてないって わかったから。 僕は 人と関わりを持つべき人間じゃないって わかっていたのに、でも、嬉しかった。 僕、氷河に一度、何のために僕みたいな子供が 一人でこんなホテルに滞在しているんだって訊かれたことがあったよね。 あの時、僕は、東洋を旅行中の家族と このホテルで合流することになっているんだって答えて、氷河もその答えで納得してくれたようだったけど――。 あれは嘘です。 ごめんなさい。 僕には家族はいません。 誰もいません。天涯孤独の身の上です。 家族は、もうずっと昔に失いました。 両親も兄も。 その時から、僕は死だけを願い見詰めてきたの。 氷河は、僕に東洋の血が入っているのかと訊いたこともありましたね。 日本の血が入っていると言ったら、とても驚いていた。 氷河もそうだと言って。 氷河がロシアと日本の混血だなんて、僕も驚いたよ。 だって、氷河の姿は典型的な北方の西洋人そのものだったもの。 太陽の光を吸い取ったような金髪と、北国の短い夏の晴れた日の空の色。 でも、ちょうどロシアと日本は戦争に突入したばかりで、二つの祖国が争っているなんて、氷河にはつらいことだろうから――僕はそれ以上のことは訊けなかった。 僕たちの共通の故国・日本は、列強と肩を並べようとして足掻いていた。 支配される側ではなく、支配する側にまわろうとして。 僕はずっと、そんな故国をとても浅ましいと思っていたんだ。 どうして、支配する側になろうとするんだろう。 欧米列強に支配されないためには、自らも支配する側にまわらなければならないと考える日本が わからない。 日本が支配しようとしている国々は、もしかしたら昨日までの日本がそうなっていたかもしれない姿を持つ国々。 そこに住む人たちも、日本人と何ひとつ違うところのない同じ人間なのに――って。 そう、僕は故国をあまり愛していなかった。 僕は故国を追われた身だったから。 でも、その故国が僕と氷河の共通点で、僕たちを結ぶものだと知らされて――僕は、故国を愛せるようになるかもしれないと思ったんだ。 ずっと長いこと、郷愁を覚えながら、憎んでいた祖国を。 人の心というものは奇妙なものだね。 愛する人に関わるものなら、それまで憎んでいたものにさえ愛を感じることができる。 愛する人に関わるものなら、価値を持つようになる――。 二人で、色々な場所に行きましたね。 大英博物館、ウエストミンスター宮殿、ロイヤル・オペラ・ハウス、水晶宮――。 僕、英国には何度も来ていたけど、ホテルを出たことはほとんどなかったんだよ。 定宿というものもなく、ロンドンに来るたび滞在するホテルも変えた。 以前来た時の僕を憶えている人に会わないために。 僕の旅は、死に場所を探す旅だった。 僕を殺してくれる人を捜す旅だった。 ロンドンのあちこちを歩きまわらなくても、ホテルのロビーやラウンジにいれば、たくさんの人と出会うことができたから、それで用は足りたの。 ふさわしいとは言い難い場所に 一人ぽつねんとしている僕に、たくさんの人が興味を持って声を掛けてきた。 でも、誰も僕の心を震わすことはできなかった。 氷河が初めてだよ。 どういう意味ででも、どういう方向にでも、僕の心を動かすことができたのは。 僕は氷河に期待と恐れを感じました。 底の見えない瞳の深さ。 僕の心の奥底まで見透かすような氷河の眼差しに恐れおののきつつ、僕は氷河に惹かれていったんだ。 僕は、自分が美しい人間だったらよかったと望んだことは一度もないけど、最高に美しい人間というのは こういう姿をしているのだろうという姿を思い描いたことはある。 氷河は、僕が思い描いた その姿よりも美しい様子をしていました。 それはもしかしたら、僕が氷河を好きだから、氷河を恋する僕の目が 氷河の姿をそう捉えてしまうだけのことなのかもしれないけど、現に僕の目にはそう映るのだから、恋していない人の意見を聞く必要はないでしょう。 氷河は、黙っていると、生きているものとは思えないように美しく、僕に微笑かけてくれる時には、命の輝きとはこういうものかと溜め息をつかずにいられないほど美しい。 僕の目は、僕の心にそう主張します。 幾度、自分がどういう者なのかを氷河に告白しようと思ったか しれません。 でも、かろうじて――そして、どうしても勇気を持てなくて――僕は、自分が何者なのかを氷河に打ち明けることができなかった。 そして、打ち明けられずにいることに罪悪感を感じてもいた。 そんな時に、氷河に大事な話があると言われて――あの時、僕は自分の心臓に苦しいほどの痛みを覚えました。 自分の身体に痛みを感じるなんて――それは もちろん気のせいには違いなかったのだけど――本当に久し振りのことでした。 僕は、氷河に打ち明けるべき“大事な話”を氷河に語る勇気を持てずにいるのに、氷河は氷河の“大事な話”を、僕に語ろうとしている。 僕が僕の心臓に感じた痛みは、やはり良心の呵責というものだったのでしょう。 そして、強い不安――。 氷河は、謎めいた人でした。 僕にとっても、僕以外の人たちにとっても。 このホテルに滞在していられるのだから、相当の素封家であることは疑いようがありませんが、氷河が何者なのかを誰も知らなかった。 氷河と親しくなってから、僕がどれだけの紳士淑女方に 彼は何者なのかと尋ねられたかしれません。 彼等は、氷河のことを、どこかの国の王子様か公子様、あるいは、いずれかの大貴族が お忍びで旅行をしているのだと考えているようでした。 その氷河に、“大事な話”をしたいと言われたんです。 僕は当然のことながら、氷河は僕に氷河の出自を知らせるつもりなのだと思いました。 そして――どうか、うぬぼれが過ぎると笑わないでください。 氷河は氷河の身分を僕に知らせ、同時に、氷河が僕に好意を抱いてくれていることを告白しようとしているのだと、あの時、僕は思った――直感したんです。 それが僕の一方的なうぬぼれだったなら、本当にごめんなさい。 でも、誰かに恋をしている人間は、恋する人から同じ思いを返されることを期待しているもの。 僕のうぬぼれも氷河を恋すればこそのことと考え、許してください。 でも、僕は、氷河の“大事な話”を聞くわけにはいかなかったんです。 聞けるわけがない。 僕自身は、自分が何者なのかを氷河に打ち明けることができずにいるのに。 でも、まさか『そんな話は聞きたくない』と言って、怖いくらい真剣な目をして僕を見詰める氷河を追い返すわけにもいかず、僕は氷河を僕の部屋に招き入れました。 ごめんなさい。 氷河の“大事な話”を聞いてしまったら、僕たちはもう会えなくなるのかもしれないと、僕は不安になったの。 ううん、あれは 不安というより、ほとんど恐怖だった。 だから、氷河が僕に話そうとした“大事なこと”を聞かずに、僕は氷河の腕に自分の身を投げかけました。 僕が欲しいのは、別れではなく、二人が共にいられることだったから。 一人でいることで得られる安全ではなく、二人でいる温もりだったから。 僕の中にある孤独を恐れる気持ちが 強い欲望でもあったことに、氷河の唇を自分の唇に感じた瞬間に、僕は気付きました。 氷河の唇が僕の唇に触れたまま、『好きだ』と囁いてくれた時に。 それは抗い難い、強く激しい欲望でした。 僕の心と身体は 狂おしいほど氷河を求めていた。 だから――僕は死を覚悟して氷河に身を委ねたんです。 僕が求めているのは、僕の死に場所と真実の愛。 同性同士で真実の愛はありえるのか、ありえないのか。 僕は、迷いながら、氷河に抱かれ、氷河を抱きしめました。 抗い難い欲望と迷いを身の内に抱えた僕を、氷河がどんなふうに抱きしめてくれたのか、それは語る必要はありませんね。 氷河の方が、僕よりずっと克明に憶えているでしょう。 氷河に抱きしめられていることに陶然とし、我を忘れていた僕なんかより ずっと鮮明に。 痛みを知らないはずの僕が、悦楽だけを全身で享受できるなんて、奇妙なことです。 でも、僕にとって、氷河との抱擁はそういうものだった。 あの時、僕は、自分の気が狂っているのではないかと思うほど幸福で、生きていてよかったと、心の底から思いました。 そして、僕は、死を恐れながら眠りに就いたんです。 朝が来たら、僕はもう死んでいるのかもしれないと思いながら。 翌朝 目覚めた時、僕の許には死よりも恐ろしい絶望がありました。 氷河がいなかった――。 快楽の余韻は 確かに僕の心と身体を包んでいたのに、目覚めた僕の隣りに氷河の姿はなかったんです……。 僕は真実の愛を手に入れ損なったのだと思いました。 だから 自分は生きているのだと、悲しい気持ちで思った。 虚ろな気持ちで思った。 これでよかったのだとも思いました。 氷河は、好意を抱いていると錯覚した相手と身体を交え、そうすることで 自分の恋が錯覚にすぎなかったことに気付いたのだろう――これでよかったのだと思ったんです。 僕のためにも、氷河のためにも、これでよかったのだと。 そう思おうとした。 一生懸命、そう思おうとした。 そして、失った恋に耐え、一人で過ごす時に耐えようとした。 氷河から謝罪の手紙が届くまで、僕は自分が一人であることに懸命に耐えようとしていたんです。 僕は氷河が誰なのかを知らず、連絡のつけようもない。 僕はもう二度と氷河に会うことは叶わない。 そう思ったら、僕にできることは耐えることだけだったから。 でも、氷河からの手紙を見た途端、僕は耐えられなくなった。 会いたい。 氷河に会いたくて会いたくてたまらなくなってしまったんです。 どうか、手紙ではなく、氷河が直接 僕に会いに来てください。 でなかったら、僕に氷河の居場所を教えて。 僕と共に過ごした夜が、氷河にとって耐えられないほど不快なものだったというのなら、もう 抱きしめてとは言いません。 ただ、もう一度だけ会う機会をください。 声を聞かせて。 何か言って。 それで死んでも、僕は後悔しない。 もう一度 氷河に会えるのなら。 いいえ、後悔するかもしれない。 でも会いたい。 本当はもう一度抱きしめてほしい。 お願いです。 もう一度だけでいいの。 僕を氷河に会わせて。 |