瞬。
俺が俺の意思でおまえの前から姿を消したのだとは思わないでくれ。
俺は嫌だと言ったんだ。
たとえ世界中の人間が この恋を認めず 引き裂こうとしても、俺は決して おまえから離れない――離れられないと、おまえを恋する俺の心は懸命に訴えた。
俺の恋心は、いったい誰に そう訴えたと思う?
おまえを愛する俺の心にだ。

おまえを愛する俺の心は、おまえを恋する俺の心に、おまえを愛しているのなら 別離の苦しみに耐えろと言って、俺をおまえから引き離した――。
そして、実際に、おまえとの間に距離を置き、おまえの目の届かぬ場所に身を潜めるようになって初めて、おまえを愛する俺の心は、おまえと離れていることの身を焼くような痛みがどれほどのものなのかを知り、苦しみ悶えている。

おまえの側にいられないことが、これほど苦しいとは!
これは、おまえを恋する俺の心にも予想以上のものだったらしい。
そんなことは、初めて おまえに会った時から、容易に予測できたはずのことだったのに。

初めて出会った時から、おまえは謎めいて不思議な人間だった。
言葉を交わす前から。
初めて おまえの瞳を視界に映した その瞬間から。
何も知らない相手に なぜ俺の心は これほど惹かれるのかと、俺は戸惑った。
奇異に思えてならなかった。

確かにおまえは綺麗で、他のどんな人間にも持ち得ない得意な風情がある。
少女とも少年ともつかない姿。
清らかで――決して 汚してはならないと、おまえに出会った者に自戒を促す不思議な空気。
それがおまえを他者の目に特別な存在に映している。

何よりもその瞳。
運命の無慈悲や絶対の孤独を知る者だけが持ち得る闇のような深遠と、暖かく軽やかな春の陽射しのような無垢。
おまえの瞳には、そんなふうに相反する二つのものが同居していて――おまえは俺の目を恐いと言うが、俺こそがおまえの瞳を恐ろしいと思った。
今も、そう思っている。

言葉を交わす前から、俺は急速におまえに惹かれていった。
あの下劣な軍人が おまえに擦り寄っていくのを見た時には、この男は目が見えていないのかと思った。
こんな恐ろしい瞳の持ち主に よく、ああも気安く声を掛けられるものだと。
奴の鈍さを羨ましく思ったさ。
奴を投げ飛ばした時にも、おそらく奴は痛みを感じる神経も持っていないだろうと、勝手に決めつけていた。

そして、おまえの声を聞いた。
『どうもありがとうございます』
『僕の名は――』
『あなたのお名前は――』
他愛のない――儀礼的な、社交辞令にすぎない言葉が、俺の胸には棘のない薔薇の花のように優しく魅惑的に響いてきたんだ。
駄目だと、これ以上おまえに近付くべきではないと、あの夜、俺は幾度自分に言いきかせたか。
なのに、翌日にはおまえの側に行きたくてたまらなくなり、実際に俺はそうしてしまっていた――。

昨年、英国は日本と同盟を結んだ。
ロシアのアジア侵攻を牽制するために。
俺にはロシアの血と日本の血が流れているが、その二つ共が俺の故国ではない。
世の中の慌しい動きから遠く離れたところで、俺は生きている。
おまえが そんなことを気に病む必要はないんだ。
俺の二つの故国のありさまが おまえの胸を一瞬でも痛めたというのなら、俺はこれまでより一層 二つの国を憎むことになるだろう。

おまえに会えない。
おまえに会いに行かないのは、おまえのためで、おまえを愛する俺の心のゆえだというのに、俺はおまえのことばかり考えている。
交わした言葉。ちょっとした仕草。
その表情。瞳の色。
俺の奇妙な名を聞いた時、少し不思議そうに小首をかしげたときの可愛らしい瞬き。
クィーン・メアリー・ガーデンで咲き誇る薔薇たちを見た時のおまえの輝くような笑顔。

そして、甘い痛みが俺の胸を苛む。
会いたい。触れたい。抱きしめたいんだ。
俺はおまえを。
だが、そうすれば、俺たちを待ち受けているのは破滅だ。

ブラム・ストーカーの書いた小説のせいで、英国は吸血鬼の本場と思われているそうだな。
あの小説の主人公のモデルはルーマニア人らしいが。
人の血を吸って永遠の命を生きる化け物。
ドラキュラは他人の血を吸うことで、その人間を自分と同じ不死のものにすることができるそうだ。
俺もそんな力を持つ化け物だったなら、いっそおまえを俺と同じ世界の住人にすることができただろうに、俺にはそんな力はない。
俺はただの無力な根無し草だ。
おまえと共に生きることも、おまえと共に死ぬこともできない哀れな男だ。

あの夜、俺は、自分が何者なのかを おまえに打ち明けるつもりでいたんだ。
そうすることで、自分自身の運命を決めようとしていた。
だが、俺の決意はその直前で打ち砕かれてしまった。
いや、外からの力によってではなく、内側から萎れ溶けていった。
俺が何者なのかをおまえに打ち明けることで、おまえに嫌われ、憎まれ、そして別れを余儀なくされたらと思うと、俺はどうしても おまえに真実を打ち明けることができなくなってしまったんだ。
おまえに対して誠実でありたいという気持ちで為した決意を実行できなかった俺は、あろうことか、誠意とは全く裏腹な、見境のない情熱に屈し、おまえを抱きしめてしまっていた。

だが――あの時は俺にとって至福の時だった。
あの時の俺の歓喜がどれほどのものだったか、おまえにわかるだろうか。
人の肌に触れるのは――変な言い方だが、初めてと言っていいくらい久し振りだった。
おまえは温かく、やわらかく、しかも美しかった。
おまえを抱きしめている間、俺はずっと、このまま死んでもいいと思っていたんだ。

細い身体。
誰の目にも触れたことのない雪のように清潔で白い肌。
汚すのは罪だと思ったのに、俺は自分を止められなかった。
喘ぎ、泣き、俺にしがみついてくるおまえが可愛くて愛しくて――だから、あんなことをしたんだ。
許してくれ。
俺は、どうしても、おまえと一つになりたかった。
そうすれば、何かが変わると思った。
俺の運命が変わると思った。
――同じくらい、何も変わらないかもしれないとも思っていたが。
神の教えとやらに背く愛が 真実の愛たり得るのか、それが俺にはわからなかったから。

そして、俺は変わった。
だが、俺は変わった――と言うべきか。
ともかく、俺は変わった。
俺が思っていたのとは、おそらく全く違う方向に。
俺は、おまえから離れられない男に変わってしまった。
本当にいつまでもおまえの中に沈み込んでいたいと思った。
おまえは素晴らしかった。

だから、これだけは誤解しないでくれ。
おまえとの結びつきに俺が不快を感じたなんて馬鹿げた、そして 悲しい誤解はしないでくれ。
おまえに再び会ってしまったら、間違いなく、俺はもう一度おまえを抱きしめる。抱きしめてしまう。
自分にこんな欲望が残っているとは思ってもいなかった。
こうして おまえへの手紙を書いている間も、おまえの温かく優しい肌を思い出すと、気が狂いそうになる。
会いたい、抱きたい。
会いたい、抱きたい。
だが、会えない。
おまえのため、俺のために、会えないんだ。

俺は、おまえを愛している俺を失いたくないんだ。
以前は、我が身の消滅だけを願っていたのに。
瞬、気が狂いそうだ。
会いたい。
会いたい。
俺はこのまま狂死してしまいたくない。
瞬、会いたいんだ。






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