春は名のみの風の寒さや――。 氷河の失恋の事実が発覚したのは、まさに早春賦の詞の通りの浅春のこと。 その日、氷河は眉間に皺を寄せて腕組をし、芽吹き始めた城戸邸の庭の木々を睨みつけていた。 その風情は、春の訪れを喜んでいるふうではなく、かといって去り行く冬の名残りを惜しんでいるようでもなく、人生のあり方を悩んでいるようにも、今夜の夕食のメニューを思い煩っているようでもない。 しいて言うなら、春の訪れに腹を立て、去り行く冬の名残りに腹を立て、己れの人生のあり方に苛立ち、今朝の朝食メニューに立腹しているような顔だと、紫龍は思ったのである。 「氷河はなんで おやつの時間が1時間遅くなるって言われた幼稚園児みたいなツラしてんだよ?」 そこにやってきたのは某天馬座の聖闘士で、紫龍は、彼が何のために自室を出てきたのかを その開口一番のセリフを聞くだけで、即座に理解したのである。 ラウンジの壁のアンティーク時計の針は、3時5分前をさしていた。 「星矢らしい見立てだが、氷河がおやつの時間を気にしているとは思えない」 「違うならいいけどよ。なら、なんで氷河は親の仇に出会ったヴェートーベンみたいなツラしてるんだ?」 おやつの時間を気にする幼稚園児から 楽聖ヴェートーベンへの出世を一気に果たした氷河に一瞥をくれてから、紫龍は星矢に両の肩をすくめてみせた。 「さあ、俺もなぜ奴があんな苦い顔をしているのかは知らないんだが、奴の周囲の空気が変にぴりぴりしていて、どうにも訊きにく――」 「氷河、どうかしたのかー !? 」 気掛かりではあるが、氷河がその周囲に漂わせている緊張した空気のせいで、紫龍が訊けずにいたこと。 それを、あっさり、しかも極めて単刀直入に訊いてしまえる星矢に、紫龍は一瞬 目を見開いた。 そして、 「つくづくおまえの性格が羨ましい」 と、溜め息混じりに呟く。 「へ?」 自分が他人に羨ましがられるような性格の持ち主だという自覚がないらしく、星矢は仲間のぼやきの意味が理解できなかったようだった。 だが、もちろん、細かいことを気にしない“羨ましい”性格の星矢は、そんなことにも頓着しない。 そんなふうに大様で、滅多に物事を深刻に考えない星矢だからこそ――そういう星矢に問われたのだったからこそ――氷河も、彼の渋面の訳を逡巡なく白状してきたのかもしれなかった。 「失恋したんだ」 と、至極あっさり。 だが、少々 自嘲気味に。 「恋に悩んでいる男にしては ぴりぴりしすぎていると思ったら、振られたのか……!」 「失恋? 氷河が?」 あっさりした氷河の返答を あっさり聞き流してしまえなかったのは、だが、今度は紫龍ではなく、“細かいことを気にしない”星矢の方だった。 ラウンジの肘掛け椅子に腰掛けている紫龍の脇に慌てて移動し、小声で彼に尋ねる。 「氷河が失恋したってのなら、その相手は当然 瞬だよな?」 「世間の常識に鑑みて、それを『当然』と言うことには少々問題があるようにも思えるが、俺たちの常識ではそれ以外考えられないな」 「それって大事件じゃん! じゃあ、俺たちはこれから、氷河を振った瞬と 瞬に振られた氷河がぎくしゃくしてるとこで、メシ食ったり、おやつ食ったり、敵と戦ったりしなきゃならないのかよ?」 「それはまあ、しばらくは ぎくしゃくするかもしれないが、永遠にぎくしゃくし続けるわけでもあるまい。まさか、ぎくしゃくした空気が嫌だから、好きでもない相手とくっつけと瞬に言うわけにもいかないし」 「でもさ!」 永遠のことでなくても、しばらくの間だけのことでも、星矢は食事の時間とおやつの時間が快適でなくなる事態だけは避けたかった。 飲食の時間と睡眠の時間が快適であればこそ、彼は、命がけの戦いという強力至大なストレスに耐えることができていたのだ。 ひとたび大きな戦いが始まれば、労働基準法に定められた休憩時間や休日など完全に無視され、睡眠時間どころか 昼休みすら与えられないような仕事に従事している聖闘士としては、せめて平時の食事時間の快適さだけは死守したい――というのが、星矢のささやかな願いだったのである。 そんな事態だけは何としても避けたい――と星矢が強く思ったところに、大事件の当事者の片割れが登場。 ラウンジに入ろうとしている瞬に体当たりするようにして、星矢は瞬を廊下に押し戻した。 「瞬! おまえ、なんで振ったんだよ! いや、おまえは一応 男なんだし、だから おまえが振るのは当然だとは思うけど、いつもの心優しいおまえなら、そんなことしたら氷河が傷付くかもしれないとかなんとか悩んで、結局 最後には ほだされちまうはずだろ!」 「は?」 突然 廊下の壁に肩を押しつけられ、頭から大声を降り注がれた瞬が、星矢の剣幕に驚いて目をぱちくりさせる。 自分がなぜ 仲間にそんな仕打ちを受けることになったのか、その理由が皆目わからないという目で、瞬は星矢の顔を見詰めることになった。 「フッタ――って、何を?」 「何を――って……。せめて『誰を』って訊いてくれよ。好きでも何でもない相手だとしても、物扱いされたら、いくら氷河でも気の毒ってもんだろ」 そんなことを言われても、そもそも『フッタ』が『振った』なのか『降った』なのかすら わかっていない瞬としては、他に尋ねようがなかったのである。 それでも、星矢の補足説明(?)で、瞬は、星矢の攻撃――というより、興奮――の理由を、断片的には理解することができたのだった。 「『振った』の目的格は『氷河』なの?」 「他におまえが振るような奴がどこにいるんだよ」 「星矢は、『僕が、氷河を、振った』って言ってるの?」 問われたことに力いっぱい頷いてから、星矢は、そうではないことを思い出した。 『氷河が だが、そうではないということがありえるだろうか。 星矢の常識では、氷河の失恋相手が瞬でないということは、絶対にありえないことだった。 「僕に振られたって、氷河が言ってるの?」 瞬が重ねて尋ねてくる。 星矢は少し冷静になり、そして、事実と推理を明確に分けて、改めて瞬に正確な報告をし直すことになった。 「正確には、『失恋した』って言ってた。おまえにとは言ってなかったけど、でも、他にいないだろ。氷河が失恋する相手なんて」 「……」 星矢のより正確な報告を受けた瞬が、少々奇妙な顔になる。 しばし何事かを考え込む素振りを見せたあと、気を取り直したように、瞬は星矢の前で軽く二度 首を横に振った。 「星矢は何か誤解をしていると思うよ。氷河の失恋の相手がどうして僕なの。そんなの ありえないことでしょう」 「へ……? あ……で……でもさ……」 それはありえないことだと、瞬がきっぱり断言する。 瞬の発言は至極真っ当なものだった。 世間の常識に鑑みれば、男である氷河が男である瞬に失恋するということは、確かに“ありえないこと”である。 星矢には星矢の常識があったが、だからといって、彼は決して世間の常識を知らないわけでも忘れたわけでもなく――それゆえ、彼は瞬の主張に正面から反論することはできなかった。 だが、瞬の“常識的な”主張を認めると、そこには新たな疑問が生まれることになる。 すなわち、 「じゃあ、氷河の失恋の相手は誰なんだよ?」 という疑問が。 星矢の新たな疑問に対する瞬の答えは、 「それは……僕にもわからないけど……」 というものだった。 正直な答えなのだろうことは疑いようがないが、刺激も面白みもない答えである。 もっと はっきり言うなら、それは詰まらない答えだった。 大事件の予感に 大いに興奮し緊張していた星矢の神経が、急速に弛緩していく。 大袈裟に思えるほどの大きな溜め息をついた星矢の肩は、確実に20度ほど下方に下がってしまったのだった。 「なんだ、俺はてっきり」 「てっきり?」 「俺、氷河はおまえが好きなんだと思ってたんだ。違ったんならいい。うん、まあ、やっぱホモってよくないもんなー」 「いやだ。そんな言い方」 瞬が僅かに眉をひそめる。 その様子は、全く大袈裟ではなく、他意もない――ように、星矢の目には映った。 すなわち、同性愛者を積極的に肯定してはいないが、この現代において そういう嗜好の持ち主を差別し貶めることの危険性を正しく認識している、常識的な人間の常識的な反応と態度だった。 だから星矢は、一度は入室を妨げた部屋の中に入ることを、瞬に許したのである。 そして、星矢は改めて、この事件の唯一の当事者と判明した氷河に、彼特有の“羨ましい”性格をぶつけていったのだった。 「氷河、おまえ、失恋がどうこうって言ってたけど、相手は誰だよ。俺たちの知ってる奴か?」 星矢の羨ましい性格は、その性格に接した者までを 細かいことにこだわらない人間に変化させる力を有しているようだった。 世間の常識に鑑みれば答えにくい(かもしれない)ことを、氷河が実にあっさり白状してくる。 「会ったことはないと思うが……。だが、まあ、素晴らしい美人ではあるな。すらりと背が高くてスマートで知的で、いかにもプライドが高そうに毅然としている。自分の価値を自覚しているらしくて、気位の高いのが玉に瑕だが、あの冷たそうなところがいい――のかもしれん」 「へえ、おまえがそんなこと言うなんて、結構意外だな。おまえは大人っぽいのより、可愛いのがタイプなんだと思ってた。ま、おまえ、きゃらきゃら騒がしい子は苦手そうだもんな。ふーん……。それで、おまえ、最近ひとりで外出することが多かったのか。その彼女に会いに行ってたんだ?」 失恋して傷心中(のはず)の氷河に、星矢は、彼の羨ましい性格でずけずけと訊きたいことを訊き、言いたいことを言う。 そんな星矢に、瞬は先程から はらはらしていた。 「氷河……つらいんじゃ……。あの、話したくないのなら、無理に話さなくても……」 氷河と星矢の間に控えめに割り込んだ瞬が、氷河を気遣わしげに見やり、ごく控えめに提案する。 が、瞬の提案を、氷河は かなりさばさばした笑顔で退けた。 「つらくないわけがないだろう。だが、もともと相手が高嶺の花だし、振られただけで、彼女を他の誰かに取られたわけじゃないから、存外に平気でいられるのかもしれない」 「そう……そうだよね。目の前で他の人と仲良くされたりしたら つらいけど、他の誰かに取られたわけじゃないのなら、まだ耐えられないこともないのかもしれないね……」 「そういうことだ」 「うん……。きっと、そのうちに、もっと氷河にふさわしくて、そして氷河を愛してくれる人に出会えるよ」 「おまえにそう言ってもらえると、力づけられるな。ありがとう、瞬」 失恋した仲間を優しく慰め励ます友人の図。 世間の常識に鑑みなくても、星矢たちの常識のレンズで見ても、それは非常に美しく、感動的ですらある光景だった。 ただ、そんな二人を見ている星矢と紫龍の胸中は妙に落ち着かず、彼等は その胸中に奇妙な揺らぎを感じてもいたのである。 つまり、それほどまでに彼等は、『氷河が瞬に特別な好意を抱いている』という自分たちの常識が大いなる誤解だったことに、ある種のショックを受けていたのだった。 とはいえ、失恋した男と彼を優しく慰める友人の間にある空気は、至極穏やかで 至極和やか。 その空気を乱してまで、その誤解に至った原因を追究することは、さすがの星矢たちにも今はできるものではなかった。 それから しばらく 氷河が庭を睨む日は続いたが、やがて失恋の痛手も薄れたのか、氷河は庭に睥睨を投げるのをやめ、そうして 彼は元の彼に戻っていったのだった。 |