それで氷河の失恋騒動は一応の決着を見た――と、星矢たちは思っていた。
だが、それは、実は、本当の大事件の序奏にすぎなかったのである。
大事件の本体は、それから1ヶ月の時間が過ぎたある日、極めて唐突に、そして意外な方向から、その姿を現わした。
とはいえ、その日、沙織が突然、
「瞬に聖域に行ってもらうことにしました」
と言ってきた時、星矢たちは、それが“大事件”の鼻の先だということに気付いてもいなかったのであるが。
沙織が『あなたたちに』ではなく『瞬に』と特定の人物を指名したことに、少々 引っかかりを覚えることをしただけで。

「聖域に、瞬ひとりで? 何かあったのか?」
「事件やトラブルがあったわけではないわ。瞬に後進の指導を頼もうと思っているのよ」
「後進の指導――とは、聖闘士候補生の指導ということですか」
「ええ」
「しかし、瞬は――後進の指導にあたるには 少しばかり年齢が不足しているように思えるんですが」
紫龍の懸念は、世間の常識に鑑みれば、至極自然なものだったろう。
瞬はまだ10代。日本の法律でもギリシャの法律でも成人に達しているとはいえない年齢なのである。
が、沙織はどうやら、世間の常識ではなく聖域の常識に従って、それを決定したものらしかった。

「でも、黄金聖闘士亡き今、瞬は最も強大な力を持つ聖闘士の一人なのよ。最も多くの戦いを経験し、聖闘士とはどういうものであるべきなのかということも、誰よりも心得ている。瞬が子供なのは外見だけのことでしょう」
「それはそうですが……」
それはそうである。
聖闘士としてだけでなく一個の人間としても、瞬は10代半ばの今にして既に、“普通の”家庭環境で育った人間の50年分の経験を積んでしまっていると言っても過言ではない。
戦いの悲惨も平和の価値も、死の悲しさも生の喜びも、人の心の美しさも醜さも、瞬は常人の10倍の深さをもって理解しているだろう。
だが、それでも瞬はまだ10代の少年なのである。
瞬の仲間たちが沙織の決定に不安を覚えるのは致し方のないことだったろう。

そんな紫龍たちの気持ちは沙織も察しているらしく、彼女は――彼女こそが――10代の少女らしからぬ思慮深げな微笑を 彼女の聖闘士たちに投げかけてきた。
「瞬に頼もうと思っているのは、黄金聖闘士に預けられていた子なの。相応の力を持つ者が指導にあたらなければ、指導のレベルが格段に落ちることになるのよ。私は、それは避けたいの」
「黄金聖闘士? 黄金聖闘士が誰か弟子を取ってたのか?」
「ええ。ムウが」
「もしかして、瞬の指導する聖闘士候補というのは貴鬼のことですか?」
「そうよ。ムウがいなくなってから、あの元気でやんちゃだった子がすっかり気落ちしてしまって、どうにかしてやらなければとずっと考えていたの」
「……」

それは いかにも瞬が心を動かされそうなシチュエーションである。
事情を聞けば、アテナの指示がなくても、瞬は自分からそうしたいと言いだしていたに違いないと、瞬の仲間たちは思うことになった。
実際、そうだったのかもしれない。
瞬は、アテナに命じられて聖域に行くのだという態度を仲間たちに見せることはしなかった。
「僕、自分がまだ未熟な聖闘士だということは わかっているつもりだけど、引き受けることにしたんだ。僕の力で貴鬼を立派な聖闘士に――というのは無理かもしれないけど、でも、せめて落胆して気力を失いかけている貴鬼を励まして力づけて、新しい希望を持てるようにするくらいのことはできるんじゃないかと思う。先生を失う つらさは僕も知っているし……」

「あ、なら、俺たちも聖域に行こうぜ。みんなで一致団結協力して、貴鬼を立ち直らせてやるんだ。神との戦いにも勝ってきた青銅聖闘士4人がかりの英才教育! そうすりゃ、貴鬼も落ち込んでなんかいられなくなるだろ」
「残念ながら、それは駄目よ。一人の指導者に複数人の師弟というのならともかく、一人の弟子に指導者が複数いたら、真っ当な師弟関係が築かれません。聖闘士育成の制度というのは、徒弟制度のようなものよ。師匠や親方が複数いて、その主義主張が異なっていたら、弟子が混乱するでしょう」
星矢の提案が、沙織によって却下される。
星矢としては、たった一人の師匠が間違った考えを持っていた場合には、もっと大きな問題が生じることになるだろうと反論したいところだったのだが、彼にはその考えを口にすることはできなかった。
指導の力量はともかく、瞬が指導の方向性を誤るということは、星矢にも考えられないことだったのだ。

「じゃあ、瞬だけ聖域に行って、俺たちは日本に居残りかよ」
「そうなるわね」
「瞬!」
星矢は、瞬が後進の指導にあたることに不安や懸念があるわけではなかった。
星矢はただ、これまで いつも一緒だった青銅聖闘士たちが ばらばらになることが嫌だったのである。
名を呼ぶことで、瞬に、それでいいのかと問い質す。
瞬は、静かに、だが、既に迷いはないらしい表情で、命をかけた戦いを共に幾度も戦ってきた仲間に頷いた。

「僕、決めたんだ。戦わなきゃならない時には、もちろんこれまで通りにみんなと一緒に戦うよ。でも、少しでも余力があるのなら、僕は その力を戦い以外の場面でも誰かのために役立てたいんだ」
「瞬……」
瞬らしい決意だとは思う。
だが、星矢はなぜか、瞬のその決意に嫌な感じ・・・・を覚えていた。
仲間たちと離れる寂しさを差し引いても、健気な決意を仲間に告げる瞬の瞳には明るさが なさ過ぎたのだ。
今の瞬に感じる“嫌な感じ”を言葉で明確に指摘できない自分に、星矢はじれったさを覚えていた。

それまで沈黙を守っていた氷河が、突然、
「俺も行く」
と言い出したのは、そんなふうに 星矢が瞬の明るくなさ・・・・・に不快を感じていた時。
氷河のそれは、そうしたいという希望を述べたものではなく、そうするという決意の報告だった。

「許可しません」
沙織が、感情的でないがゆえに険しく響く声で、氷河の報告を言下に退ける。
氷河はムッとした顔で、彼の女神を睨みつけることになった。
そんな二人のやりとりに慌てたのか、瞬が二人の間に入っていく。
そして、瞬は、沙織に背を向けて――つまり、沙織のがわに立って――不機嫌な顔をした氷河に、ほとんど力のこもっていない微笑を投げたのだった。
「僕は聖闘士としては本当に未熟で、氷河たちが心配するのは当然だと思うけど、でも、僕は一人でやってみたいの。『頑張れ』って言って、そして、笑って見送ってよ」
「む……」

瞬にそう言われてしまっては、氷河もそれ以上 食い下がることはできなかったらしい。
あるいは、もしかしたら彼も、星矢が感じているのと同じ“嫌な感じ”を上手く言葉にできなかったのかもしれない。
ともかく彼は、その時その場では どんな言葉も思いつかず、それゆえ沈黙することしかできなかったようだった。






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