「氷河、なんてことをしてくれたの!」 これには さすがの沙織も怒り心頭に発し、彼女は白鳥座の聖闘士に超強力な雷を落とすことになった。 が、氷河は、彼の女神の激昂に合っても、反省している素振り一つ見せることはなかったのである。 『悪いのは、俺の指示に従わなかったヘリのパイロットの方だ』という、子供じみた理屈を振りかざして。 頭ごなしに怒鳴っても、理を尽くして その罪を諭しても、肝心の氷河が 自分の正当性を固く信じているのでは、彼の反省は期待できない。 30分以上 氷河を叱責し続けた沙織が、氷河から反省の弁を引き出すのを諦めた頃、二人の間に 星矢が執り成しに入った。 「でもさ。氷河を庇い立てするわけじゃないけどさ、こうなった責任の半分くらいは沙織さんにあると思うんだよな。瞬に会いに行くのも禁止なんて言って、俺たちからパスポート取り上げるのは、さすがにやりすぎだろ。俺たちと瞬は、命をかけた戦いを共にしてきた仲間なんだぜ。ちょっと顔を見に行くくらいは許してくれたっていいじゃないか」 「仕方ないでしょう。瞬のために、そうする必要があったのよ」 「瞬のために必要?」 なぜ瞬が瞬の仲間たちに会わないことが“瞬のため”になるのか。 言い訳めいた沙織の呟きに、星矢は もちろん得心がいかなかった。 青銅聖闘士たちは、いつも一人ではないから――仲間同士が信じ合い支え合っているからこそ――強い人間でいられるものたちである。 瞬は特に、自分のためより仲間のためにこそ強くあろうとする傾向の強い聖闘士だった。 それは沙織とて知っているはずなのだ。 その事実を知っているはずの沙織がそんなことを言うということは、瞬の仲間たちが知らない何かを彼女が知っているからに違いない。 そう確信した青銅聖闘士たちの視線の集中砲火を浴びて、さすがの沙織も観念することになったらしい。 細く長い溜め息を洩らして――沙織は、瞬の仲間たちが知らない事情をゆっくりと彼等に語り始めた。 「事の起こりは2週間ほど前の深夜よ。瞬がこの家のセキュリティシステムに引っかかって、警備員が確認に走る事態が起きたの。庭を裸足で歩いていた瞬が、焦電型赤外線センサーの感知システムに引っかかって――」 「瞬が、深夜に?」 城戸邸のセキュリティシステムは、対聖闘士用ではなく一般人用である。 瞬は、そのシステムがどのようなものなのかを熟知していたし、聖闘士である瞬は、当然のことながら、そのシステムに感知されないように動く術も心得ているはずだった。 ゆえに、紫龍が、沙織の言葉に、 「まさか」 と呟くことになったのは、瞬が深夜の庭を徘徊していたという話が信じられなかったからではなく、瞬が一般人用のセキュリティシステムに引っかかるような初歩的なミスを犯すはずがないと考えたせいだったろう。 しかし、沙織は、彼女の言を翻すことはしなかった。 事実は事実であり、曲げられない――ということなのだろう。 「残念ながら、それは証人が何人もいる事実よ。夜の庭を散策するのがいけないとは言わないけど、瞬ならシステムに感知されずに散歩することもジョギングすることもできるはずでしょう。なのに瞬は、まるで生まれて初めて他人の家に忍び込んだ泥棒みたいにあっさりシステムに引っかかってしまった」 「なんで瞬がそんなドジ踏むんだよ? 瞬なら、アルカトラズの監獄にだって、簡単に潜り込めるし脱出もできるだろ」 例えの良し悪しはさておくとして、星矢の意見には、その場にいた誰も異議を挟まなかった。 聖闘士なら、それくらいのことは、確かに容易にできるはずなのである。 沙織も、星矢のその言葉には頷いた。 「いつもの瞬ならね」 という条件つきで。 “いつもの瞬”しか知らない星矢は、当然、沙織が付与した条件を訝ることになった。 「なんだよ、それ。いつもの瞬じゃない瞬って、どんな瞬だよ」 星矢に問われた沙織が、再び細く長く吐息する。 そうしてから彼女は、驚くべき事実を口にした。 「瞬は、その時、意識がなかったの。つまり、睡眠時遊行症――いわゆる夢遊病状態だったわけ」 「夢遊病? 瞬が? なぜ瞬がそんな――原因は何ですか」 星矢は、その単語を知らなかったわけではないだろう。 ただ あまりに意想外すぎて、咄嗟に その言葉の意味を思い出せなかっただけで。 日頃 用いたことにない単語にきょとんとすることになった星矢に代わって、紫龍が、瞬の病の原因を沙織に尋ねる。 沙織は、少々言いにくそうに口ごもった。 「なぜと言われて……。原因は、やはり、失恋――ということになるのかしら」 「瞬が失恋? 相手は誰です」 「……氷河……でしょうね」 「情報が錯綜していませんか? 失恋したのは瞬ではなく、氷河の方ですよ」 「氷河が失恋したということは、瞬が失恋したということなのよ。もっとも瞬は、自分でも自分の病気を自覚していないようだったから、催眠療法で聞き出したんだけど」 「……」 沙織の情報入手先が瞬当人だというのなら、彼女が握っている情報は正しいものなのだろう。 だが、だとすると――。 沙織からもたらされた新たな、そして 正しい(らしい)情報は、青銅聖闘士たちを混乱させることになったのである。 なにしろ、星矢と紫龍は、失恋したのは氷河(だけ)だと思っていたし、失恋した氷河を いかにも仲間らしく――ただの仲間らしく――瞬が気遣う様を、己れの目で見てもいたのだ。 そこに、『瞬が氷河に失恋した』という事実を感じさせるものは、何ひとつなかったのである。 「つまり――瞬は氷河が好きだった。でも、氷河には好きな人がいた。しかも、その人との恋に破れたばかり。そんな状況で瞬にできることは、氷河に迷惑をかけないように、自分の気持ちをひた隠しにし、じっと耐えることだけだった――というわけ。実際、瞬は、かなり無理をして一人でずっと耐えていたようなの。眠れない日が続いていたようね」 「……」 沙織の言葉が、星矢たちに、彼等が物事の表層しか見ていなかったことを知らせてくる。 星矢たちは、半ば呆けて沙織の言葉を聞くことになったのである。 「氷河を見ているのがつらくて、側にいるのもつらい。忘れたいのに忘れられない。そんなふうでいることを あなたたちに知られてはいけないと、瞬は懸命に自分を抑えていたのだけど、その抑制が過ぎて、そういう症状が出てしまったようなの。私は、だから、瞬に、代わりの気掛かりを与えることを計画したのよ。別の生き甲斐、別の義務、別の目的を与えられれば、瞬も氷河のことだけを思い煩ってはいられなくなるでしょう。瞬は責任感の強い子だし」 星矢たちは もちろん、瞬の傷心に気付けなかった自分たちを悔やんだ。 だが、それ以上に彼等は、仲間にその傷心を感じとらせなかった瞬の自制心に感じ入ることになったのである。 氷河の前で、瞬は なんと見事に“ただの仲間”を演じていたことか。 それもこれも氷河のため、仲間たちのため。 彼等は、瞬の健気に感嘆し感動しないわけにはいかなかった。 「瞬の奴、もう ほだされちまったあとだったのか……」 「まあ、俺たちだって、氷河は瞬を好きなのだと誤解していたわけだからな。瞬がそう思い込んでしまっていたとしても、それは さほど不思議なことじゃない」 「瞬は自分から告白できるような奴じゃないから――氷河の告白を待っていたところが、とんでもないどんでん返しが起こったってわけか」 氷河の失恋劇の舞台裏が見えてくると、事の元凶が何だったのかということも見えてくる。 瞬に気のあるような振舞いをして瞬を誤解させた男が、つまりはすべての元凶だったのだ。 「氷河、おまえのせいだぞ! おまえが好きになったねーちゃんが どんなクールな美人なのかは知らねーけど、そんな女より瞬の方が可愛いに決まってるだろ!」 氷河に罪がないことも、彼に責任を問うことは間違いだということも、星矢はわかっていた。 わかっていても、星矢は氷河を責めないわけにはいかなかったのである。 氷河が紛らわしいことをしさえしなければ、瞬とて、同性の仲間に恋したりすることはなかったのだ。 当事者であるにもかかわらず、先程からずっと氷河が沈黙を守っていることにも苛立って、星矢は頭ごなしに氷河を怒鳴りつけることになった。 星矢に怒鳴りつけられた氷河が、何が何やら理解不能という顔で、アテナと仲間たちを視界に映している。 ややあってから、なんとか気を取り直したように、事の元凶は口を開いた。 「瞬が可愛いということには完全に同意するが、おまえ等は誰と瞬を比べているんだ? クールな美人?」 「おまえの失恋相手だよ! おまえ、そう言ってたじゃないか。おまえの失恋相手は大人で知的で気位の高いクールな美人だって」 「なに?」 「なにが『なに?』だよ! おまえ、沙織さんの話を聞いてなかったのか !? おまえが失恋したってことは、おまえに好きな奴がいるってことだろ。おまえが誰かに失恋するってことは、そのまま瞬も失恋することじゃないか。瞬はそれで傷心して――」 だが、それで氷河に罪悪感を抱かせるわけにもいかず、仲間たちに気を遣わせるわけにもいかないと考えて、瞬は懸命に一人でその苦しみに耐えていたのだ。 氷河を責める星矢の言葉は、瞬の悲嘆と苦しみに気付けずにいた自分自身をも責めるものだった。 当然 氷河は仲間の糾弾を甘んじて受け入れなければならないとも、星矢は思っていた。 罪がなくても、責任がなくても、瞬を悲しませ傷付けたのは 瞬の仲間たちなのだから――と。 しかし、氷河は、そんな星矢に平然と反撃してきたのである。 「いったい俺が誰に失恋したというんだ! 自慢じゃないが、俺は、そんなもの、生まれて この方 一度たりとも経験したことはない。だいいち、俺はガキの頃から瞬ひとすじだ! それは、おまえ等だって知っているだろう! 俺は瞬にはまだ告白もしていない。する前にギリシャに逃げられ――いや、とにかく、俺が失恋したなんて、不吉なことを言うなっ。俺は必ず瞬を説得して日本に連れ戻し、そして、必ず俺のものにしてみせる!」 氷河の実に堂々とした反撃に 星矢はたじろぎ、そして混乱することになったのである。 これが混乱せずにいられるだろうか。 人並みに記憶力というものを有している人間であるならば、星矢でなくても、氷河の主張に混乱せずにいることは不可能というものだった。 「へ……? だって、おまえ、失恋したって言って落ち込んでたじゃないか……」 「俺が いつそんなことを言った! 言うはずがないだろう。俺は そんなものはしてないんだから!」 「言っただろ! ひと月くらい前に、気位の高い美人のねーちゃんに振られたって!」 仮に氷河が鳥類程度の記憶力しか有していないのだとしても――氷河が自分の発言を記憶していないのだとしても――彼が仲間たちの前でそう言った事実は消し去れない。 氷河は、仲間 氷河の失恋報告は、星矢だけでなく紫龍も聞いていたし、あまつさえ、氷河は瞬に 失恋による傷心を慰めてもらうことさえしていた。 証人はいくらでもいるのだ。 揺るぎない自信に支えられ、星矢は、氷河は失恋したのだと、氷河当人に断言した。 「ひと月前……?」 星矢の決然とした態度に眉をひそめ、氷河は懸命に 彼のささやかな記憶力を稼働させ始めたようだった。 氷河の記憶力は、鳥類のそれより少しは優れていたのか、まもなく彼は1ヶ月前の自身の発言を思い出したらしい。 一瞬 蒼白になり、それからすぐに真っ赤になって――おそらくは憤怒のために――氷河は、再び大きな怒声を城戸邸のラウンジに響き渡らせた。 「誤解だっ! あの時 失恋したのは俺じゃない!」 「おまえじゃなかったら、誰なんだよ!」 「氷河――犬の氷河だっ」 「いぬぅー !? 」 『いぬ』というのは、四本足で歩行し、わんわんと吠える、人類最良の友――だが、決して人類ではない生き物――のことだろうか。 何の前触れも伏線もなく、極めて唐突に登場してきた、食肉目・イヌ科・イヌ属に分類される哺乳類に、星矢はあっけにとられることになった。 |