突如 その場に登場してきた人類でも鳥類でもない動物。
あまりの脈絡のなさに呆けている星矢の前で、氷河は、その動物がこの場に登場することの必然性を、少しく苛立ちの混じった声で語り始めた。

「駅前の横丁のコロッケ屋のおばちゃんから小犬を預かったんだ。二泊三日の予定で熱海に旅行に行くことになったんだが、犬を温泉に連れていくわけにもいかないし、どこかに預かってくれる場所はないかと相談されて。安請け合いして預かったまではよかったが、セキュリティ上の問題もあるから城戸邸には置けないと沙織さんに言われて、沙織さんから紹介されたブリーダーのところに、その犬を預けることにした」
「駅前の横丁のコロッケ屋のおばちゃん? おまえ、あそこのおばちゃんと知り合いだったのか?」

その店は、星矢の行きつけの店だった。
それは、50代のご婦人が一人で切り盛りしている 何ということもない小さな惣菜屋なのだが、月に一度は斬新なレシピのコロッケを発表するので、界隈では庶民的な創作料理の店として有名な、いわゆる知る人ぞ知る名店だった。
「ああ、そういや、おばちゃんち、去年から看板犬を飼い始めて、おばちゃん、客から名前を貰ったとか何とか言ってたけど――。てことは、氷河もあの店の客だったのか!」
その店で飼われている犬とは、星矢も面識(?)があった。
もっとも、星矢は、問題の犬に自分で呼びやすいように『コロッケ屋のコロちゃん』と勝手に名前をつけ、その名で呼んでいたので、彼の本名(?)が『氷河』だということを知らずにいたのだが。

氷河が言っているのは、その犬のことらしい。
彼は短い舌打ちをしてから、星矢に浅く頷くことをした。
「そのブリーダーの犬舎に、やたらと綺麗だが気位の高い雌犬が預けられていて、氷河の奴、彼女に一目惚れしてしまったんだ。もちろん、氷河は相手にされなかった。なにしろ、相手は各国のメジャーなドッグショーで賞を総なめにしてきた血統書つきの純血ボルゾイ。滅多なオス犬にちょっかいを出されるわけにはいかないとかで、彼女自身より人間様のガードが固かったから、氷河はそもそも彼女に近付くこともできなかったんだが」
「な……なんでそれを先に言わなかったんだよ!」
「訊かれなかったからだ!」
「……!」

氷河の即答に、星矢が声を詰まらせる。
考えようによっては、氷河の返答は実に妥当かつ自然なものだった。
実際、星矢たちは、氷河が『失恋した』と言ってきた時、彼に『誰が』と尋ねることをしなかったのだ。
まさか氷河が、他人の失恋を思い煩ってやるような親切心を持ち合わせているわけがないという思い込みのために。
そうして、その肝心なことを確かめないまま――“誰が”失恋したのかを確認しないまま――話は進み、実際に失恋したものの名も『氷河』だったために、『氷河の失恋』に関する会話は見事に成立してしまった――ということなのだろう。

その事実を知って、星矢は微かな頭痛を覚え始めていたのである。
この とんでもない茶番劇の責任を引き受けるべき人間は誰なのか。
星矢は、できれば その責任は、氷河に引き受けてもらいたかった。
あの時 不用意に氷河に『どうしたのか』と尋ねただけの自分には、どう考えても それは重すぎる荷だろうと思ったし、星矢は、瞬が悪いのだということにもしたくなかったのである。

「俺たち、おまえがコロッケ屋の犬を預かったなんて話、全然 聞いてなかったぞ……」
「話せるわけがないだろう! この俺が、あの店の長芋コロッケとライスコロッケが好きで、毎日コロッケ屋に通ってるなんて! 貴様等はともかく、瞬に知られたら……。人にはイメージってものがあるんだ!」
「イメージぃー !? 」
この男は何を言っているのかと、本音を言えば 星矢は思ったのである。
瞬が夢遊病などという深刻な症状を呈するほど悩み悲しんでいる時に、白鳥座の聖闘士のイメージがいったいどれほど重要なものだというのかと。
氷河のその言葉を聞いた瞬間、すべての罪は氷河の上にあるとすることへの躊躇を、星矢は綺麗さっぱり忘れ去った。

馬鹿げた誤解の真相に、紫龍が、こころなしか疲れたような表情を その顔に浮かべる。
「おまえのイメージにふさわしい食い物が、香草入りシャンピニオン風味 仔羊のローストなのか オットセイの生肉なのかは知らないが、せめて その犬の存在を俺たちに知らせていたら、俺たちはそんな誤解はしなかったと思うぞ。もちろん、瞬も」
「……」
紫龍のその指摘には、さすがの氷河も反駁の言葉を思いつけなかったらしい。
氷河は ムッとしたような顔にはなったが、それは一瞬間だけのことだった。

「じゃあ、やっぱり、氷河が男のくせに図々しく瞬に惚れてて、道ならぬ恋を諦める気もなく、いつかモノにするつもりで虎視眈々と瞬を狙ってるっていう、俺たちの認識は正しかったんだな!」
星矢の その雄叫びにも、氷河はクレームをつけてこなかった。
それは氷河も認める事実だったらしい。
そして氷河は、事実を事実ではないと言い張る卑怯を為すつもりはないらしい。

氷河は その迂闊と粗忽で瞬に無用の悲嘆を課したが、卑劣な男というわけでも卑怯な男というわけでもない。
であればこそ、紫龍と星矢は、彼の恋の成就のために助言を与える気にもなったのだった。
「とにかく、瞬の誤解を解くことだ。できるだけ早く」
「瞬にほんとのこと言って、好きだって告白すればさ、瞬はおまえを傷付けたくないって思い悩んで、結局最後には ほだされちまうに決まってんだから。……いや、もう ほだされたあとなのか――」

既に ほだされたあとだったから、瞬は夢遊病などという稀有な病を得るほど、氷河の恋(と失恋)に傷付き悲しむことになったのだ。
そして、傷付き悲しんでいる人の心を真に癒すことができるのは、その人を傷付け悲しませた者だけだろう。
やはり少々 疲れたような声と表情で、沙織が氷河に、
「あとで私の部屋にパスポートを取りにいらっしゃい」
と告げたのは、瞬の病を完治させることができるのは氷河だけだということを、彼女が認めたからに違いなかった。






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