乾燥した土地にも花は咲く。 聖域には、日本より一足早く本格的な春が訪れていた。 聖域の旧区画。 まるで障害物競走をしてくれと言わんばかりに大理石の柱がそこここに倒れている場所で、瞬は貴鬼に小宇宙の何たるかの講義をしていた。 崩れ倒れた柱に座り込んで、貴鬼が一見熱心そうに、瞬の話を聞いている。 「そうじゃないの。超能力と小宇宙は違うものなの。何て言うか――」 瞬は、聖衣を身につけていなかった。 彼自身の修行時代に身に着けていたものを引っ張り出してきたのか、惜しげもなく手足を外気にさらし出す淡い色の簡素な短衣を、瞬はその身にまとっていた。 瞬は確実に、今 この聖域にいる誰よりも強い聖闘士のはずなのだが、その手足は、戦士のそれにしてはあまりに細い。 そのせいで、春の園にいる二人は どうしても、弟子に指導している師と 師の指導を受けている弟子には見えなかった。 瞬は、指導者というには あまりに若く――『幼い』と言っていいほど若く――なにより、その姿が可愛らしすぎた。 「僕には超能力は備わっていないから、その力の源が何なのかは知らないけど、小宇宙の力の源は人の心なんだ。大切な人がいる。その人が生きている世界を守りたい。その心が、聖闘士の小宇宙を強大なものにするんだよ」 「んー……そこがよくわかんないんだけどさ。たとえば、守りたい人が一人しかいないだけの聖闘士と、二人いる聖闘士だと、二人いる聖闘士の小宇宙の方が2倍になるのか?」 「一概にそうとは言えないと思うよ。人には――だった一人の人を強く深く愛する人も、複数の人をほどほどに愛する人もいるから。ただ、僕は、たとえばアテナは、すべての人を深く愛しているから、その力は強大で無辺なのだと思ってるよ。知らない人を愛せるって、すごいことだと思わない?」 「思う思う」 『俺もそう思う』と、にわか作りの師弟の講義を、二人から離れた場所で立ち聞きながら、氷河は声を出さずに答えていたのである。 氷河にはそんなことはできそうになかった。 見知らぬ相手を愛するなどということは。 そして、彼は、青銅聖闘士の中では瞬が最もアテナの愛に似通った愛を抱いている人間なのだろうと思っていたのである。 瞬は、この地上にいるすべての人間を愛し、守りたいと思っているのだと。 そう思っていたからこそ、氷河は自分の恋を安易に瞬に知らせることができずにいたのだ。 神ではない者たち――すなわち、人間たちの中では、瞬が最も “恋”などという人間的な心から遠いところにいる人間だと思っていたから。 だが、“すべての人々を守りたいと思う心”と“恋”は、全く次元の違う事象にして行為だったらしい。 瞬は、“恋”は深く一人の人に深く強く その情熱を傾けるタイプだったのだ。 氷河は、瞬のそんな一面に気付かずにいた。 自分は瞬にとって 大勢いる人類の中の一人で 幾人かいる仲間の中の一人なのだと 勝手に決めつけ、どうすれば瞬をただの人間の域に引きずりおろすことができるのか、それは可能なことなのかと、氷河はそればかりを思い煩っていたのだ。 「僕たち青銅聖闘士は、普段は黄金聖闘士たちより強い力は持っていない――持っていなかった。僕たちが黄金聖闘士と戦ったら、僕たちの方が十中八九負ける。でも、僕たちは、黄金聖闘士より強い力を持つ神たちには勝ち続けてきた」 「瞬たちは、十二宮は突破したじゃん」 「あれはアテナを守るために必死だったの」 「うーん。つまり、大事な人を守りたいっていう どう見ても どう聞いても真に理解しているとは思い難いイントネーションで、貴鬼が彼の師に彼の理解した事柄の確認を入れる。 瞬は彼の弟子に にっこりと微笑んだ。 「そうだよ。貴鬼は理解が早いね」 「へへへ。でも、理解と実践は別物だからなー。そのあたりを、おいらは瞬に教えてもらいたいわけでさ」 意外にも自分の理解のレベルを正確に把握しているらしい貴鬼が、瞬に褒められて嬉しそうに笑う。 子供の特権で、貴鬼の笑顔には全く屈託がない。 子供の笑顔は素直に明るかった。 瞬の前で そんなふうに笑えなくなって久しかった氷河は、貴鬼のその遠慮のない笑顔が 気に入らなかったのである。 瞬の恋人は、無遠慮な子供に恋する人を奪われて毎日いらいらしながら、実際より百倍も長く感じられる時間を耐えていたというのに、瞬の恋人から瞬を奪った子供は、師である瞬に対して敬語も使わず、馴れ馴れしさ全開。 これが立腹せずにいられることだろうか。 思い切りムッとした顔で、氷河は師弟の間に入っていった。 「瞬」 「氷河……」 だというのに、瞬は、その仲間の姿を認めると、さっと頬を青ざめさせ、あろうことか その場から逃げ出そうとする素振りをさえ見せたのである。 まだ恋人同士ではないにしても、信頼し合った仲間同士。 その仲間の姿に怯え 逃げ出そうとせずにはいられないほど、自分は瞬を傷付けていたのだと思うと、氷河の胸は強く痛んだ。 だが、ここで瞬に逃げることを許すわけにはいかない。 氷河は、それこそ、愛弟子のためにあえて厳しく振舞う師の気分で、そういう口調で、瞬をその場に引きとめた。 「逃げるな。まず、これを見ろ」 そう言って、氷河が瞬の前に提示したのは、この緊迫した場面に全くそぐわない2枚の犬の写真。 うち1枚は、ほとんど完璧といっていい体型をした綺麗な純白のボルゾイを写したものだった。 氷河への恐れを、瞬に一瞬 忘れさせるほど美しい姿をした。 「すごい……こんな綺麗な犬、初めて見た」 「沙織さんも欲しがっているほどの犬だ。飼い主はどうあっても誰にも譲る気はないようだがな。もちろん国際畜犬連盟発行の血統書持ち。日本、米国、英国、数々の著名ドッグショーで優勝してきた、誰もが認めるチャンピオン犬だ。――で、こっちのチビの柴犬は、駅前の横丁の角のコロッケ屋の飼い犬。名前は氷河。事情があって、先月、俺がその美形犬のいるブリーダーの犬舎に預けにいった」 「可愛い」 2枚目の写真に写る薄茶色の小犬(と言っても、成犬だが)に、瞬が素朴な感想の言葉を洩らす。 小さく そう呟いて ほのかに微笑む瞬の方がずっと可愛いと、氷河は思った。 そして、つい目許が緩みそうになった自分に、慌てて活を入れる。 今は、瞬の可愛らしさに鼻の下をのばしていられる時ではないのだ。 「身の程知らずにも、この氷河が、世界でも指折りの美形として有名なこの純血ボルゾイに恋をした。そして、もちろん振られた。俺は、同じ氷河として身につまされたんだ。どうにかしてやれないかと考えた。1ヶ月前のことだ」 「え……」 瞬が初めて――それまで仲間の顔を見ることを恐れて俯かせていたらしい顔を上げる。 その視線を捉え、氷河は、明瞭な発音を心掛けて、きっぱりと瞬にその事実を知らせたのだった。 「失恋したのは犬の氷河だ。俺じゃない。俺はまだおまえに好きだと言ってもいない。振られる以前の問題だ」 「あ……」 瞬はすっかり臆病になってしまっているらしい。 それはどういう意味なのかと問う勇気も持てなかったのか、あるいは氷河の言葉が信じられなかったのか、はたまた自分の言語理解能力に自信が持てなかったのか、ともかく、瞬は再び その瞼を伏せてしまった。 核心に言及するのを避けるように、人間の氷河と 彼の恋人には およそどうでもいいことを、小さな声で尋ねてくる。 「い……犬の氷河はそれで……」 「ブリーダーの犬舎から元のコロッケ屋に戻ったら、落ち着いた。目の前から発情したメスがいなくなったら、犬の氷河としても落ち着くしかなかったんだろう。だが、俺は犬のように合理的にも単純にもできていない。おまえが発情していなくても、俺はおまえが好きだし、離れていれば冷静になれるものでもない。逆に――」 そこまで言ってから、氷河は、自分が 瞬の前で用いるべきではない露骨な単語を口にしてしまったことに気付き、一度 言葉を途切らせた。 少々不自然な咳払いをしてから、改めて瞬に向き直る。 そして、瞬の前で使っても支障のない言葉だけを用いて、氷河は彼の胸の内にあるものを瞬に知らせたのだった。 「俺はずっとおまえが好きだったんだ。おまえも薄々察してくれていると思っていた。だから、おまえがそんな誤解をするなんて考えてもいなかった。だが、それは誤解だ。俺はいつだって、おまえだけが好きだったんだ」 「氷河……」 「俺は、おまえと離れていることには もう耐えられない。頼む。日本に戻ってくれ」 「あ……」 瞬の瞳に、雲間から太陽が顔を現わした瞬間の陽光のように明るい光が射す。 もっとも それは一瞬間だけのことで、すれからすぐに 瞬の瞳は、今にも泣き出しそうな人間のそれになった。 「星矢の奴が――俺がおまえに好きだと告白すれば、心優しいおまえは、俺を振ったりしたら俺が傷付くに違いないと考えて、結局 最後には ほだされるはずだと言っていた。ほだされてくれ。おまえなしでは夜も日も明けない男を哀れんでくれ」 「ぼ……僕……」 涙の膜で覆われていた瞬の瞳が、更に氷河の胸をしめつける。 だが、その氷河以上に苦しげに、瞬は その眉根を寄せて、氷河を見上げ見詰めていた。 「僕、うぬぼれていたの……。氷河は僕のことを好きでいてくれるって」 「それは現実を正確に見、正しく洞察力を働かせた者が当然至る結論だ。うぬぼれなんかじゃない」 「僕、氷河が僕の知らない誰かを好きなんだと思って、すごく悲しくて、息をするのも苦しくて、氷河を見るたび泣きそうになって、それで、僕はもう氷河の側にいられないと思ったの」 「おまえをそんなに悲しませていたことに気付かずにいた自分の迂闊に腹が立つ。許してくれ」 言葉の上だけではなく、氷河は本当に腹が立っていた。 そんなふうに瞬を悲しませていた原因が、よりにもよって長芋コロッケとライスコロッケなのである。 それらの食べ物が白鳥座の聖闘士のイメージに似合わないという くだらない思い込みと見えだったのだ。 とても本当のことを瞬には知らせられないと、氷河は思っていた。 瞬のためにも、自分のためにも。 「氷河……」 幸い、瞬は、氷河の迂闊の原因を追究しようとはしなかった。 ただ、まだ少し悲しみの色の残った潤んだ瞳で、迂闊で見栄っ張りな男を見詰めるだけで。 氷河は深く後悔し、二度と瞬を泣かせるようなことはするまいと固く決意して、その健気な恋人を抱きしめたのである。 より正確に言うなら、抱きしめようとした。 ほとんど抱きしめたつもりだったのである。 事実はそうではなく――氷河の手が瞬に触れる直前に、彼の身体は何らかの強い力によって、5メートルも後ろに吹き飛ばされ、大理石の柱に叩きつけられていたのだが。 |