「おいらの先生に何するつもりだよ、氷河! とんでもない野郎だな!」
氷河は、一瞬―― 一瞬どころか、10秒以上の長きに渡って、我が身に何が起こったのかを理解できずにいたのである。
10秒後に、我が身の今ある状況を理解し、更に20秒後、その原因に思い至った――もとい、思い出した。

「忘れていた」
氷河の迂闊と見えのせいで、瞬は今では面倒なコブつきになってしまっていたのだ。
しかも そのコブは、小宇宙にはまだ目覚めていないが、使用目的が愛や正義に限られない超能力という厄介な力を持っている。
氷河は、今度は1秒にも満たない短い時間で、自分が瞬を抱きしめるには このコブを排除しなければならないことを理解した。
そうして氷河は、自分の目的を達成するために、とりあえず その厄介なコブに対して下手したてに出てみたのだった。

「貴鬼。おまえ、どうだ。おまえの師には瞬より紫龍の方がふさわしいと思わないか? 奴は義に篤く、信頼に足る男だ。ブチ切れさえしなければ、裸にもならず、冷静沈着、温厚篤実。無駄な雑学をため込んでいるから、毎日面白い話が聞けるぞ」
「遠慮しとくよ。瞬の方が優しくて可愛いから」
「貴様は、自分の師にそんなものを求めるのかっ!」
なんと図々しく あつかましい弟子かと、氷河は、当然のことながら 激しく憤ることになったのである。
そんな理由で師を選ぶ権利が弟子に与えられるのなら、氷河は、とうの昔に、彼こそが瞬に弟子入りを願い出ていただろう。
人の恋路を邪魔するだけでも腹立たしい存在だというのに、その上、その図々しい言い草。
氷河は瞬の弟子に、激昂せずにはいられなかったのである。
が、瞬の弟子である生意気な子供は、彼の先輩である白鳥座の聖闘士に向かって、堂々と弟子の権利を主張してきたのだった。

「求めちゃいけないのかよ? そりゃあさ、おいらだって、おいらが守ってやる必要なんかないくらい瞬が強いことは知ってるぜ。けど、瞬って、それでも何か、守ってやりたい気分にさせるとこがあるじゃん。それで、おいらの中に、瞬を守るために強くなりたいって気持ちが生まれる。誰かを守ってやりたいって気持ちは聖闘士には大事なもんなんだろ。瞬といれば、おいらは、その気持ちが理屈として理解できるだけじゃなく実感として感じることもできるんだよ。でもさ、紫龍からは、そういう気持ちは教えてもらえないと思うんだよな」
「それは……。だが、聖闘士の候補者が自分の指導者にそこまで求めるのは贅沢というものだ」

貴鬼の気持ちはわからないでもない。
むしろ、大いにわかる。
聖闘士になってしまった氷河でさえ、今 貴鬼が感じている思いと同じ思いに囚われることが頻繁にあったのだ。
だが、やはりそれは贅沢な望みだとも、氷河は思った。

「でも、守ってやりたい人より自分の方が弱いから、おいらは強くなりたいと思う。瞬って、存在自体が先生向きなんだよ。ムウ様は、あんまりそういうとこなかったから――」
前の師のことを思い出したのだろう。
贅沢で図々しい瞬の弟子の両肩が しょんぼりと力を落とす。
生意気な子供のしおれる様には、氷河も(少しだけ)同情したのである。
氷河が同情するくらいなのだから、貴鬼に対する瞬の同情心は日本海溝よりも深いものだったろう。
瞬は、ついに結ばれようとしていた恋人を その場に放っぽって、彼の弟子の側に駆け寄っていった。

「貴鬼」
貴鬼の前にしゃがみこんで、瞬が その顔を覗き込む。
そして、瞬は、生意気な子供には勿体ない(と氷河が感じる)ほど優しい眼差しで、彼の弟子を見詰めた。
「ムウに心配させないためにも、貴鬼は強くならなきゃね」
「うん……」
瞬に対しては素直で従順な弟子であるらしい貴鬼が、涙声で頷き、瞬の首にしがみついていく。
その素直で従順な瞬の弟子は、そうしてから、瞬の肩越しに ちらりと氷河に一瞥をくれ、小鬼のような目をして にっと笑ってみせたのだった。

「このっ!」
瞬に無用の誤解をさせてしまったために、氷河は己れの恋路に とんでもない障害物を生じてしまっていたらしい。
氷河は、長芋コロッケとライスコロッケを美味いと感じてしまう自分の舌を、心底から恨めしく思うことになったのである。

師弟関係の厄介さを、氷河は――氷河も――知らぬわけではなかった。
それは兄弟関係・親子関係にも似た、だが、そういった血縁関係とは微妙に異なる、厄介な結びつきなのだ。
師と弟子を結びつけるものは、血ではなく、義務感にも似た信頼。
情よりも義。
親しみよりも礼節。
だが、だからこそ、師と弟子の間には、時に、血を超えるほどの繋がりや情や親密さが生まれるものなのである。
瞬は、貴鬼との間にそれを築きつつあるのだ。

「氷河、僕、やっぱり日本には帰れない」
氷河の嫌な予感が、瞬の唇から言葉という形になって現われてくる。
弟子を任された一人の指導者として、瞬のその言葉は 至極自然なもの。必然であり、当然ですらあるものだったろう。
かつては弟子だった者として、氷河は、瞬のその発言にある程度の蓋然性を認めることはできた。
だが、瞬を恋する者として、氷河は、瞬の言葉をどうあっても受け入れることができなかったのである。

「俺より、こんなチビの方がいいというのかっ!」
「僕の弟子を侮辱するのっ !? 弟子と仲間なんて、比べられるようなものじゃないでしょう!」
瞬の言うことは、もちろん正しい。
瞬が正しいことは、氷河にもわかっていた。
瞬をそういう瞬にしてしまったのが他ならぬ自分自身だということも、氷河はちゃんとわかっていた。

愛情を注ぐ対象を一つ失った人間が、その代わりを求める――それは、一人の人間として、ごく自然な心理である。
瞬の心がそういう方向に動くのは、瞬が前向きに生きようとしているから、そのために新たな希望を求めたからのことで、それは氷河にとっても好ましい心理だった。
一つの愛を失うことで打ちのめされ、立ち上がることができなくなるような人間は、聖闘士でなくても生きていくことが困難な人間といえるだろう。
そういう弱い人間が いかに周囲に迷惑を及ぼす存在であるのかを、迷惑をかけられる側の人間としてではなく、迷惑をかける側の人間として、氷河は既に経験済みだった。
そんな過去の自分の弱さを、氷河は心から恥じてもいた。

瞬の生き方は正しい。
晴れた夏の日の直射日光のように、瞬は正しい。
問題は、瞬が失ったと思っていた愛が、実はいつでも瞬のものだったという一事に尽きた。

今は誰の弟子でもない氷河は、自分の腰にも届かない背丈の小さな瞬の弟子を本気で睨みつけることになったのである。
瞬の弟子である子供は、だが、氷河の睥睨に臆する様子も見せない。

明るくのどかに晴れた聖域の春。
風も雲もない青空が“風雲急を告げる”という器用な芸当をしてのけていた。






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