氷河の道ならぬ恋の相手はどう考えても瞬自身だった。
自分のために氷河がそんなに思い詰めていた――追い詰められていたとは。
そんなことを これまで一度も考えたことがなかった自分を、瞬は深く悔いていた。
だが、瞬には、これまで そんなことを考える余裕が与えられていなかったのである。
氷河と共にいる時間は幸せだけでできた時間で、瞬は その時間には 二人のことにしか考えが向かなかったから。
他人が二人の恋をどう思うか――そんなことは、“二人”には関係のないことだったのだ。

確かに二人の恋は公にはできない恋だろう。
だが、瞬には、これは必然と言っていい恋だった。
自然に生まれた恋だったのだ。
氷河を抹殺することなどできないし、もし氷河が恋のために死ななければならないのなら、その時には自分も共に死ぬべきだと思う。
この恋は二人のものなのだから、そうするのが当然だとも思う。
その時には、氷河を倒して、自分も死ぬしかない――と。
氷河だけを死なせるわけにはいかないし、氷河と共に死ぬことに、瞬は恐れを感じてはいなかった。
死は恐くない。
いつの時にも死を覚悟していることが、アテナの聖闘士の第一の仕事のようなものだったから、瞬は死は恐くなかった。
ただ、瞬は、生きていたかったのである。
瞬は生きていたかった。
もちろん、氷河と共に。

氷河はなぜ公にできない二人の恋を そこまで思い詰めることになったのか。
なぜその苦悩を少しでも彼の恋人に吐露してくれなかったのか。
瞬は、それが悲しかった。
睦言を装ってでもいいから、氷河がその胸の内を明かしてくれていたならば、氷河にアテナを裏切らせるようなことをさせずに済ませる自信が、瞬にはあった。
『僕の恋をわかってくれるのは氷河だけでいいんだよ』
『氷河だけにしかわかってほしくない』
『他の人はいらない』
そんな言葉を一つ二つ。
氷河は、それで満足してくれるはずだった。
なぜ氷河はその苦しみを、彼の恋人に知らせてくれなかったのか。
氷河がアテナを裏切ってしまった今となっては 考えても詮無いことではあるが、瞬は、それだけが悲しく、そして解せなかった。

重い心を引きずるようにして、瞬は、聖域に来た時に青銅聖闘士たちが宿舎にしているアテナ神殿の離宮に足を向けたのである。
一人になるために瞬が逃げ込んだ その部屋には 青ざめた頬をした氷河がいて、瞬の姿を認めると、彼は ひどく苦しげな色の瞳で瞬を見詰めてきた。
「瞬……」
「氷河……」
見詰め合った途端、互いが互いを愛し求め合っていることがわかって、二人は言葉もなく もつれ合うように抱きしめ合い、唇を重ねていたのである。

一言でも言葉を発してしまったら、自分は『氷河のために極秘裏に』と命じられたことを口にし、泣き叫んでしまいかねない。
それがわかっていたから、瞬は、言葉ではなく自らの身体で、氷河に そのつらさを訴えることしかできなかったのである。
無言の――自分の体温と氷河の体温の区別がつかなくなるような抱擁の中、どうしてこの人の命を断ち切らなければならないのかという憤りを 瞬の胸中に生んだのは、瞬の唇に触れる氷河の指と、瞬の胸に押しつけられる氷河の唇だった。

この指も唇も、二人が生きていることを確かめるために存在するもの。
なぜそれを この地上から消し去ってしまわなければならないのか――。
城戸邸の部屋のベッドとは比べものにならないほど硬くクラシックな作りの寝台が、瞬の身体に やわらかいマットの中に逃げることを許さず、その分、二人の交わりが容赦なく深くなる。
「ああ……!」

氷河がいなくなってしまったら、この陶酔も痛みも二度と感じることができなくなる。
瞬は、それは嫌だった。
氷河の、足るを知らない貪欲や激しさ。
それらが愛情によって生じることを知らずにいたら、氷河と交わることを知らずにいたら、自分はとうの昔に 醜悪な人間というものに幻滅してしまっていただろう。
氷河に この乱暴な振舞いをさせるもの、氷河の中に動物的な欲を生むものが 愛と呼ばれるものなのだと感じることができなかったら、自分は人間の住む世界を醜悪としか感じられない潔癖な子供のままでいた。
だから これは必要な恋だったのだと、瞬は思っていた――感じていた――信じていた。
この恋が許されない世界が存在することにどんな意味があるのかと、瞬とて思わずにいられない。
氷河がいて、二人が出会った世界だから、瞬はこの世界を愛しいものと思うことができていたのだ。

「あっ……あ……あっ……あ……っ」
間歇的に洩れる声が、やがて音を伴わない喘ぎだけになる。
今は 飢えを満たすことに夢中になっている残酷な雪豹のような氷河が、まもなく その飢えを満たし終え、餌を与えてくれる飼い主に甘える小猫に変わるだろう。
その瞬間が、瞬は好きだった。
これほど可愛らしく正直な生き物は 他には いないだろうと思う。
瞬は、氷河を失いたくなかった。


(僕は……馬鹿だ……)
よりにもよって今日、こんな時に――瞬は、こんなことはしなければよかったと後悔した。
その交わりは、『この人を失ったら生きていけない』という瞬の思いを更に強く深くしただけだった。
巨大な肉食獣から可愛い小さな猫に変身した氷河の手が、じゃれるように瞬の身体のあちこちに触れてくる。
そして小猫は、まるで次の餌をねだるように、瞬に尋ねてきた。

「瞬。もし俺が一緒に死のうと言ったら、一緒に死んでくれるか」
答えは『イエス』だったが、答えるのがつらい。
瞬は、
「氷河は?」
と、彼に反問することで、自分の答えを口にすまいとした。
「死ぬだろう。他にどうしようもないのなら。本当は共に生きていたいが」
「……僕も同じだよ」

これまでにも幾度か、似たような会話を交わしたことがある。
心も身体も満ち足りて、互いの体温の中で、言葉で互いを愛撫し合うために。
だが、今は二人は満ち足りているとは言えなかった。
あれだけ激しく互いを貪り食らい合って、何が足りないというのか。
その答えを求めて、二人は再び抱き合った。
だが、この日に限って、瞬は、その答えを手に入れることができなかったのである。
いつもなら、意識して求めなくても、その答えは自然に瞬のものになっていたというのに。

だから、瞬は、他にどうしようもないのだと悟った――悟るしかなかったのである。
氷河が欲しているものを知らされてしまった今、彼の望みが叶わない限り、二人は二度と満ち足りることはないのだ――と。






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