小高い山の上に建つ領主の城ハインシュタイン城に、現在領主は住んでいないという話だった。 年に一度は領主当人か その代理人がやってくるらしいのだが、領主一家は、ドレスデンにあるザクセン選定候国の宮廷に入り浸り、自らの領地をほとんど顧みることがないらしい。 彼は、毎年の納税が滞りなく行なわれれば、他に貧しい農民に望むことはないという姿勢を貫く、領民にしてみれば実に有難い領主だという話だった。 ハインシュタイン城を戴く山の麓にある小さな村に足を踏み入れた時、ヒョウガは、正直なところ、その あまりののどかさに、少々――否、大いに――気が抜けてしまったのである。 この のどかで小さな世界の外では、オーストリア、フランス、オランダ、イングランド、スウェーデン、デンマーク等々の国々がカソリックとプロテスタントの争いの形を借りて戦争を続け、ドイツの数百に及ぶ小君主国群は、大国の思惑に翻弄され続けている。 だというのに、この村の のどかさ静けさは いったい何事なのか。 まるで、何か強大な力に守られ包まれているかのように、その村は平和そのものだった。 戸数は100にも満たない山間の小さな貧しい村。 その周囲には、麦や葡萄、ジャガイモの畑が広がっている。 多くの水を必要としない作物ばかりが植えられているところを見ると、あまり水には恵まれていない土地なのだろう。 それらは村に素晴らしく豊かな実りをもたらすことはなさそうだったが、村の畑は、少なくとも軍馬に荒らされた様子はない。 日暮れが間近い畑のあちこちで、男たちはそろそろ家路につこうとしている。 畑仕事に困るほど男手に不足している様子も見てとれなかった。 「まるでボヘミアとファルツが戦争に突入する以前に逆戻りしたような……。こんなところに本当に聖闘士がいるというのか」 ヒョウガがバルカン半島の南端にあるギリシャ聖域から、はるばる北ドイツのこの村までやってきたのは、聖域を統べる女神アテナの命に従ってのことだった。 「途轍もなく強い小宇宙の片鱗を感じるの。聖闘士か――もしかしたら、眠りに就いて目覚めることを忘れてしまっている神がいるのかもしれないわ」 と、彼女は言っていた。 『“途轍もなく強い小宇宙の片鱗”とは、つまり微弱な小宇宙なのではないか』とか、『せっかく眠りに就いてくれている神なら、眠り続けていてもらった方がいいのではないか』とか、畏れ多くも女神に対して、ヒョウガは言いたいことを言ってのけたのだが、そんなヒョウガに女神は、 「どう対処するかは あなたに任せます。とりあえず、事実はどうなのかの確認だけはしてきてちょうだい」 と笑って言い、だが、その命令を翻すことはしなかった。 不服そうな顔をしたヒョウガに、 「本当はイッキに行ってもらおうと思っていたのよ。確か、イッキの故国がそちらの方だったはずだから。でも、彼は今、スウェーデンに行ってもらっているから」 「イッキの代役ですか、俺は」 鳳凰座の聖闘士に対して特に他意はないが、他人でもできる仕事の代役に やり甲斐や使命感は感じにくい。 しかも、イッキが派遣されているのは、今 俗界で行なわれている国際戦争の中心地、片や、自分に任されたのは 華々しい戦闘など望むべくもないドイツの片田舎。 ヒョウガが渋面になるのも致し方ないことだったろう。 「イッキでないなら誰がいいかと考えていたら、なぜかあなたが行くべき場所だと感じられてきたの。この任務が終わった頃、あなたは私に心から感謝することになるでしょう」 アテナが確信に満ち満ちて告げた言葉も、ヒョウガには、詰まらない任務を課せられた聖闘士の不機嫌をなだめるための その場しのぎにしか聞こえず、アテナが本当にそう感じたのだと思うことはできなかった。 17世紀も中葉に入ろうとしている。 もともと有力な王家がなかったドイツは、先ごろから始まった国際戦争の余波を受け、小君主国が林立する、まとまりのない地方になってしまっていた。 領主は自分の小王国を好き勝手に治め、領主によって領民の気質もかなり異なる。 共通しているのは、どの国もどの町もどの村も閉鎖的で、よそ者には警戒心を隠さないということ。 ヒョウガがその村の村長の家に、少なくとも表面上は快く迎え入れられたのは、彼がハインシュタイン家の領主の名代として、この村を訪れたことになっていたからだった。 それが事実なのかどうかは、ヒョウガ自身も知らない。 ただ、ヒョウガは、聖域を出る時、 「これがあなたの身分を保証してくれるわ」 と言うアテナから、ハインシュタイン家の紋章の入った金の指輪を手渡されていた。 指輪の効果は絶大。 おかげで、ヒョウガは、旅人の泊まる宿すらない村の中では比較的立派な――とはいえ、古いレンガ作りの粗末な家だが――村長の家に、問題なく入り込むことができたのだった。 村長は 人のよさそうな40絡みの男で、ヒョウガの示した指輪(と数枚の金貨)を見るや 平身低頭して、寝床と食事、村の中を自由に歩き回っても村人たちに怪しまれないように手配しておくことを約束してくれた。 それはつまり、この村は、村長が手配しておかないと、よそ者は怪しまれ排斥される村だということ。のどかに見える この村も、ドイツの他の村と大して変わらない閉鎖的な村だということだった。 村長の話を聞いて、身分を偽ってきたのは正解だったと、ヒョウガは思ったのである。 寝泊りはハインシュタイン城を(勝手に)使うつもりだったので、ヒョウガは、村長とその奥方に食事の提供だけを依頼することになった。 「ところで、ご領主様のご用とはどのような? この村に何か不都合でもあったのでしょうか? 税は不足なしに納めているはずですが……」 ヒョウガの村での処遇についての話が決まると、村長はヒョウガの任務について恐る恐る尋ねてきた。 土間に置かれた、6人ほどが掛けられる粗末な――だが頑丈な――木のテーブル。 木製のカップには、極限まで水で薄めたせいで ほぼ無色透明になってしまっている麦酒。 これを飲むのは客としての礼儀だろうかと悩んでいたヒョウガには、村長からそう問われたことは、出された酒に気付かぬ振りをするのに 好都合なことだった。 「ああ、そうではないんだ。人を捜している」 「人?」 「この辺りに不思議な力を持った人間はいないか」 「不思議な力?」 朴直以外に取り得のなさそうな顔をヒョウガに向けていた村長が、突然 ぎょっとした顔になる。 それから、彼は声を潜めて、 「まさか……ご領主様がお捜しというのは、魔女のことで?」 と、ヒョウガに尋ねてきた。 「魔女?」 のどかそうな この村で、まさか その言葉を聞くことになろうとは。 ヒョウガは この村に入って初めて、僅かばかりの緊張を その心中に生んだのである。 欧州は今、大規模な国際戦争の只中にある。 その戦争は、有力な支配者を持たず小国が林立しているドイツを特に翻弄し、現在のドイツは、大国の思惑という嵐の中を頼りなく漂っているしゃぼん玉のようなもの。 そんなドイツ領内に足を踏み入れた時、ヒョウガは、そのしゃぼん玉の中でも嵐が吹き荒れていることを知ったのである。 すなわち、“魔女狩り”という嵐が。 欧州各国は基本的に地続き、もちろんそれはドイツだけに吹き荒れている嵐ではない。 フランスの一部、ポーランド、ハンガリー、スコットランド等でも、それは行なわれていると、ヒョウガは聞いていた。 だが、聖域のあるギリシャやイタリアでは魔女狩りというほどの騒ぎはなく、スペインでも異端審問はあっても、魔女狩りは行なわれていない。 ヒョウガが聖域を出て この村に着くまでに立ち寄った他の国々では、ヒョウガは“魔女”という言葉さえ ほとんど耳にすることはなかったのである。 しかし、ドイツ領内に入った途端、ヒョウガは、魔女という言葉を至るところで頻繁に聞くようになった。 魔女を火あぶりの刑にするための火刑台や 火あぶりの刑を終えて焼け焦げた火刑台を見るようになったのも、ヒョウガがドイツ領内に入ってからのことだった。 国の不安定――国の明日がわからず、それゆえ明日の自分がわからないことが、人々の心に疑心暗鬼を生んでいるのだろう。 そんなことを考え、眉をひそめながら、ヒョウガはドイツを北上してきたのである。 しかし、100年前の光景も今のそれと同じだったろう、100年後の光景も今のそれと大して変わることはあるまいと思える、言ってみれば 至極安定した この村でまで、その言葉を聞くことになるとは、ヒョウガは思ってもいなかったのである。 「いや、そうではなく――こう、ちょっとした力持ちとか、動きが素早いとか」 「ああ。お捜しなのは、魔女ではなく兵士になれるような者でしたか」 ヒョウガの答えを聞いた村長が、強張っていた頬を緩め、ほっとしたような顔になる。 この小さな村で、戦争に男手を取られることは決して喜ぶべきことではないのだろうに、それでも魔女狩りよりは徴兵の方が余程ましと村長は考えているらしい。 それも無理からぬことと、ヒョウガは思ったのである。 屈強な男を2、3人奪われることは、小さな村には確かに相当の痛手だろうが、魔女が一人出た村が被る損害は2、3人の男だけでは済まないのだ。 昨年は、ヴュルツブクルで157人、アイヒシュテットで274人の魔女が処刑されたと、ヒョウガは この村に来る途中の町々で聞いてきた。 魔女の疑いをかけられた者が 取調官に仲間の名を白状することを強要され、拷問のつらさに耐えかねた魔女が“何となくウマが合わなかった”隣人の名を口走った結果が その連鎖処刑と聞き、ヒョウガはぞっとしてしまったのである。 これでは、害意を持った邪神が人間界を滅ぼす前に、世界は 人間同士の共食いによって滅んでしまうではないかと。 戦争のせいなのか、統一性・安定性に欠けた国情のせいなのか、新教の台頭によって揺らぐ信仰のせいなのか、あるいは、その閉鎖性のせいなのか――今 ドイツという国は狂気を帯びていると、ヒョウガは感じていた。 「魔女などいるはずがないのに、馬鹿げている」 ヒョウガが忌々しげに呟くと、村長は安堵したような笑みをヒョウガに向けてきた。 さすがに こののどかな村にまでは、ドイツの他の町や村が侵されている狂気は及んでいないようだと、村長の素朴な笑みに ヒョウガもまた安堵を覚えることになったのである。 |