彼等が自分を領主が派遣した取調官と誤解し、シュンをハインシュタイン城に連れてきたことは、確かに幸運なことだった。
狂気の者たちから引き渡されたシュンの身を城中に運び、城の扉を閉めた時、ヒョウガは再度 しみじみと思ったのである。
村の中のどこかにシュンが拘束されていたなら、シュンは間違いなく 狂気を帯びた者たちに私刑を加えられていただろう。
だが、狂っているにもかかわらず身に染みた身分制度を忘れることができなかったらしい彼等は、領主の城の中に押し入ることまではできなかった。
シュンは この城の内にいる限り、村の者たちの狂気から遮断され、ヒョウガはシュンの身を守ることができるのだ。

「あの馬鹿者共も、この城に押し入ってくる度胸はないようだから、安心していろ。万一の時のために、今夜は俺が寝ずの番をしているから」
シュンを牢に閉じ込めたり、ましてや拷問にかけたりするつもりはないのだということを知らせ安心させるために、ヒョウガはハインシュタイン城で最も広く瀟洒な造りの客用寝室にシュンを連れていった。
ヒョウガの手をすり抜け、ヒョウガの前から逃げていってしまったシュン。へたをすると二度と会ってもらえないのではないかという不安さえ覚えていたシュンが、結局 今、ヒョウガの許にいる。
やはり二人は出会うべくして出会い、誰も、何ものも、二人を引き離すことはできないのだと信じてしまうのは、愚かに過ぎ、楽観に過ぎるだろうか。
それでも二人の運命を信じたくてたまらずにいる自分の心を、ヒョウガは切なく自覚していた。

「しばらく時間をおけば、奴等も冷静になるだろう。魔女なんてものが この世にいるはずが――」
「魔女が悪魔と契約した証って、どこにあるの」
「知らん。俺は魔女取調官でも悪魔学者でもないからな。あの馬鹿共は、おまえの身体のどこかに契約の証の傷か痣が あるはずだと主張していたが、あまりに馬鹿げている。そんなものが魔女であることの証拠になるのなら、傷ひとつ痣ひとつで誰を魔女にでっちあげることも――」
「調べてください」
「なに?」

それまで、ヒョウガがシュンの心を安んじさせるために繰り返したどんな慰撫の言葉にも ただ俯いているばかりで、ほぼ無反応だったシュンが、その顔をあげ、まっすぐにヒョウガを見詰めている。
だが、その瞳がたたえているものは、自らにかけられた嫌疑を晴らそうとする者の固い決意ではなく、神への反逆心では更になく、頼りなく揺れる不安と恐れ、そして 涙だった。
「そんなことをする必要はない。そもそも魔女なんてものは この世に存在しないんだ」
「僕の身体のどこかに悪魔との契約の証があるかもしれません。僕……僕には、変な力があるの。真冬でも凍えなかったり、時々 人間とは思えない速さで走れたり、跳べたりする。僕、本当はルカスより力持ちだと思う……」
「おまえが?」

面白い冗談だと笑い飛ばしてしまおうとしたヒョウガに、だが、シュンは必死な目をして訴え続けてくる。
「誤解しないでください。僕は悪魔と契約なんかしていない。それは本当です。でも、たとえば、僕がまだ赤ん坊だった時に、僕の両親が何かそういうことを――」
「馬鹿馬鹿しい。狂ってしまったのは村の連中だけではなかったのか? おまえまで あの狂気に当てられてどうする。こんな綺麗な白い腕に、悪魔との契約の証があるとでもいうのか」

あの膨れあがった嫉妬と狂気に襲いかかられ、掴みかかられ、その心身を散々傷付けられた直後なのである。
シュンの心の不安と恐れはわからないでもない。
だが、村の者たちの狂気の犠牲者であるシュンまでが その狂気に囚われてしまったら、彼等の狂気を止め、正し、罰する権利を持つ者がいなくなり、彼等の行動が正当化されてしまうではないか。
それは、正気の世界の消滅を意味している。
つらい気持ちはわかるのだが、シュンには気丈でいてもらわなければならない。
ヒョウガは、悪魔との契約の証があるかもしれないとシュンが言うシュンの身体――腕を取り、シュンの懸念を一笑に付してみせた。
そうしたつもりだった。
多分、笑いのかけらくらいは、ヒョウガはその唇に刻むことができたのである。
ただ、それはすぐに笑いの意味を失った。

シュンの乳白色の細い腕。
それはひどく頼りない印象を与えるものだったが、確かに血が通っていることがわかる 温かさとなまめかしさを持っていた。
指先もしなやかで、フランスやイタリアの貴族の姫でもこれほど繊細な指を持ってはいないと、ヒョウガは確固とした自信をもって断言することができた。
だが、こんな素朴な農村の住人が これほど美しい手指を持っているということは、非常に奇妙なことだった。
村の者たちに かなり手荒な扱いをされたようなのに、シュンの腕や手には 擦り傷ひとつ残っていない。

「おまえ……怪我が人より早く治ったりしないか」
悩ましいほど白く温かいシュンの腕を見詰めながら、ヒョウガはシュンに尋ねた。
シュンが悲しそうに、小さく頷く。
「早く治ってほしいって思いながら、じっと見詰めていると、傷が消えていくの」
「それは――」
それは魔女の妖術ではなく、聖闘士の小宇宙の力だった。
身体の特定部位の新陳代謝を、細胞の遺伝子には変化を与えることなく瞬間的に高める力。
いったい自分は、この村に来て ほとんどすべての日をシュンと共に過ごしながら何を見ていたのかと、ヒョウガは自分自身に呆れることになったのである。
アテナの聖闘士は屈強な肉体を持った攻撃的な若い男と決めつけて、シュンがそうである可能性になど、ヒョウガは一瞬たりとも考え及んだことがなかった。
シュンの優しい面立ちと印象にばかり目を奪われ、ヒョウガは他のことに意識が向いていなかったのだ。

だが、今こそヒョウガは確信したのである。
遠いギリシャでアテナが感じた強大な小宇宙の片鱗の持ち主はシュンだったのだということを。
シュンは聖闘士であり、ヒョウガの仲間になるべき者であるのだと。
だから自分はシュンにこれほど心惹かれたのだとは、ヒョウガは思いたくなかったし、また思うこともできなかったのだが。

「僕は、自分が何者なのかを知らなきゃならないと思う。そして、もし僕が悪魔と契約を交わした邪悪な者なのなら、僕は死ななきゃならないとも思う。どうせ死ぬのなら、僕はヒョウガの手で殺されたい。村の人たちは――村の人たちには――」
『村の人たちには殺されたくない』なのか、『村の人たちには罪を犯させたくない』なのか。
彼等の狂気を目の当たりにし、シュンは、彼等を信じられなくなったのか、それとも ただ悲しいだけなのか。
そんなことを考えかけていたヒョウガは、すぐにその考えの無意味に気付いた。
シュンは、自分は魔女だと ほとんど信じてしまっているのだ。
シュンにしてみれば、村の者たちは正しいことをしている者たちにすぎない。

そう考えると、『ヒョウガの手で殺されたい』というシュンの言葉は非常に意味深長なものだった。
シュンに恋している男にとっては、それは(おそらく)喜ばしいこと。
シュンは、『ヒョウガは特別だ』と言ってくれているのだ。
シュンの切ない訴えに、不謹慎ながら ヒョウガは、ある素晴らしい力を与えられたような気分になったのである。
つまり、“希望”という力を。






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