ヒョウガが彼の本来の仕事を思い出し、遅ればせながら その仕事に勤しみ始めたのは、シュンの魔法に翻弄される快楽を味わい尽くした後。二人のいる寝台の上に朝の光が射し込み始めてからだった。 眠りの中にいたシュンが、その光に誘われるように目覚め、ヒョウガが何をしているのかに気付き、頬を真っ赤に染め、身体をよじる。 自分の仕事をあらかた終えたあとだったヒョウガは、頬を朱の色に染めたシュンの顔を覗き込み、シュンに告げた。 「俺は本当はドレスデンではなくギリシャから来たんだ。シュン、二人でこの村を出よう。一緒にギリシャに来てくれ」 「ぼ……僕は魔女だよ」 「違う。おまえの身体には どこにも魔女の証なんかなかった。どこもかしこも信じられないほど綺麗で、真っ白で――俺は おまえの足の付け根までしっかり調べたんだぞ。疑うのか?」 「あ……」 たった今、ヒョウガに身体を だが、あいにく 今以上に頬の赤味を増すことができる状態になかったシュンは、ヒョウガの傍らで 身の置きどころをなくしたように、肩を丸め身体を縮こまらせることだけをした。 「ヒョウガを疑っているわけじゃなくて……あの……」 ヒョウガが、上気している頬を隠すためにヒョウガの陰に隠れようとしているようなシュンの肩を抱き寄せる。 「そう、おまえは俺を疑わずに信じていればいいんだ。俺の言うことも、俺のすることも」 そう言いながら、ヒョウガは、空いている方の右腕を上方にのばし、そこから――何もない虚空から――真珠大の真円の氷を5、6粒出現させた。 一瞬にも満たない時間 宙に浮いていた氷の粒が、次の瞬間、ぱらぱらと音を立てて モザイクタイルの床に落ち、転がる。 「えっ !? 」 腕の中で、シュンの身体が強張るのが感じられた。 悪魔は大気を支配する力を持ち、雹や霰を降らせることができるというのが、悪魔学者たちの一般的な学説だったが、そんな無知で無責任な者たちの唱える説を知らなくても、それは十分に驚く価値のあることだったろう。 「ヒョウガ……ヒョウガも魔女なの?」 シュンの身体が小刻みに震えだす。 魔女が悪魔の力を目の当たりにして怯え震えることの不自然に気付いていないシュンに、ヒョウガは内心で密かに苦笑した。 「違う。これは聖闘士の持つ力だ。聖闘士というのは――そうだな、地上の平和と正義を守るために、悪魔と戦う者だと思えばいい。そのための力が聖闘士には与えられている。おまえが持っている不思議な力もそういう力だ。俺はギリシャから、その力を持つ者を捜しに来た。俺は、魔女であるおまえではなく 聖闘士であるおまえに会うために、この村にやって来たんだ」 「じゃ……じゃあ、僕は魔女じゃないの? 僕は魔女じゃない何かなの?」 「俺が魔女でないのと同じくらい、おまえも魔女じゃない。まあ、夕べは魔法をかけられてしまったんじゃないかと思うくらい いい思いをさせてもらったが」 シュンの気を引き立たせるための軽口のつもりで言った言葉を真面目に受けとめて、シュンが その瞳の中に 氷の粒ではなく温かい涙を生じさせる。 そうして、シュンは、その涙を一粒だけ 瞳から溢れさせた。 「よかった……僕……僕、よかった……」 「そんなに気持ちよかったのか? おまえも?」 自分が魔女ではないという事実を喜んで、シュンは涙ぐんでいるのだということは わかっていたのだが、ヒョウガは あえて その事実を無視した。 自分は魔女なのではないかと疑い恐れおののきながら日々を過ごしていたシュン。 その間の苦悩と悲嘆を忘れさせるためにも、ヒョウガは今は、シュンを 憂いひとつない ただただ幸せな恋人でいさせてやりたかったから。 ところが、どうやらシュンは、非常に慎重で地に足のついた極めて堅実な恋人であるらしく、一つの障害の消滅を確認すると、その幸福に酔い浮かれる前に、次なる傷害の存在をヒョウガに示してきたのである。 「でも、僕、ここで兄さんを待ってなきゃならないの……」 ヒョウガは、もちろん、二人の恋を妨げる障害のすべてを粉砕して、この恋を実らせるつもりでいた。 シュンの好意を勝ち得るという難事業を成し遂げた今、他の障害などどれほどのものだろうか。 気宇壮大な気分になっていたヒョウガは、だから、 「おまえの兄は俺が捜してやる。名は何というんだ。何か特徴は」 と、安易に安請け合いをしてしまったのである。 「イッキ。眉間に子供の頃、無茶をした時に負った傷が残ってて――」 「……なに?」 シュンの唇が 控えめに、奇妙な名――だが、初めて聞くわけでもない名を、ヒョウガに知らせてくる。 初めて聞く名ではなかったが、珍妙な名ではあったので、ヒョウガは、その名を冠する者が この地上にごろごろ転がっていると思うこともできなかった。 「それは もしかして、歳は俺と同じくらいで、漆黒の髪の暑苦しい……いや、なんだ、あー……男くさいというか、変なところで頑固というか、古臭いというか――」 シュンが数秒間迷ってから、ここにいない兄に遠慮したように小さく頷く。 ヒョウガは、アテナが、本当はイッキにこの仕事を任せるつもりだったと言っていたことを思い出し、大笑いすることになったのである。 「イッキの弟なら、なおさら おまえが魔女のはずはない。大丈夫だ」 そうとわかれば、もはや二人の恋を妨げるものはない。 ヒョウガが そう確信し、安堵し、喜ぶことができたのは、10秒にも満たない短い時間だった。 ヒョウガはすぐに自分のその考えを安直にすぎる考えだと思い直さなければならなくなったのである。 実の弟が他の男のものになることを、あの男が大人しく認めるだろうか。 魔女の狂気に囚われた者たちよりも、イッキは手強い相手かもしれない――。 変なところで頑固で、古臭い道徳に固執するイッキという男を知っているだけに、ヒョウガは二人の恋を楽観できなくなってしまったのだ。 「いや、だが、まあ、何とかなるだろう。何とかするしかない……」 ともかくシュンは、自分を好きだと言い、その心と身体を受け入れてくれたのだ。 シュンの兄の所在不明という懸念事項も解決のめどはついている。 その上で新たな障害が生じたなら、それはその時 対処法方を講じればいいことだろう。 「大丈夫。兄には必ず会わせてやる」 不安そうな目をしたシュンの額にキスをして、ヒョウガは寝台をおりた。 「となれば、さしあたっての問題は、騒動を起こさずに この村を出ていく方法だな」 服の袖に腕を通しながら ヒョウガがそう一人ごちた、まさにその時。 ヒョウガが懸念していたものとは全く違う障害が、二人の許に飛び込んできたのである。 |