「逃げてっ! シュンちゃん、逃げて!」 それは、今となっては この村におけるただ一人のシュンの味方と断じても あながち間違いではない少女の悲鳴だった。 金切り声といっていいような その声に ただならぬものを感じ、ヒョウガは急いで 彼の恋人のいる部屋を飛び出たのである。 階下のホールの中央に、どの部屋を目指せばいいのかがわからず、せわしなく周囲を見回しているアンナの姿があった。 身分制度に囚われていない子供だからというより、シュンの身を案じるがゆえに、アンナは平民の身でありながら許可も得ずに領主の城の中に入ってくることができたのだろう。 まともに階段を使うのも もどかしく、二階の廊下からホールに飛びおりたヒョウガの姿を認めると、アンナは素早く彼の側に駆け寄ってきた。 「シュンちゃんを火あぶりにするって、お姉ちゃんたちが この城に向かってきてるの! お姉ちゃん、手に鎌を持ってる!」 泣きそうな顔をしてはいたが 涙ひとつ見せずに、アンナがシュンの身に迫っている危険をヒョウガに知らせる。 たった一人で 狂気に取り憑かれた年長者たちに逆らい 危険を知らせにくるだけでも、この小さな少女の勇気と豪胆は瞠目に値したが、普通の子供なら 怯え泣き叫ぶことくらいしかできないだろう この場面で、的確かつ簡潔に状況を報告してのけるアンナに、ヒョウガは舌を巻いた。 これは この歳の少女が持てる自我と意思力だろうかとさえ思う。 この小さな村には、確かに 特別な人間が二人いた。 「鎌? それこそ悪魔の武器だろう」 この少女に比して、確然とした自我を持たず、ものを考えることさえ放棄したように扇動者に従う者たちの なんと愚かなことか。 だが、その衆愚は、集団を成しているがゆえに、一人の賢人より強大な力――暴力――を有しているのだ。 「ヒョウガ……」 二階の廊下の手擦りにすがるように、シュンが不安そうな目をして階下の二人を見下ろしている。 村の者たちの狂気――それは、おそらく憎悪でできている――に、シュンはどれほどの衝撃を受け、また悲しみを感じているのか。 誰にも知られぬよう、二人だけでこっそり この村を出ていくのが、二人にとっても、この村の者たちにとっても最善の策だろうとヒョウガは考えていたのだが、事ここに至っては それも不可能。 ヒョウガは、狂気と大愚の集団に、 「大丈夫だ。おまえはアンナと中にいろ」 その気になれば、それこそ聖闘士の力で狂気の集団をどこぞに吹き飛ばしてやることもできるのだが、ヒョウガは既に彼等に そんな優しい対応をしてやる気もなくしていた。 彼はアンナの背を押してシュンの側に行くように示し、怒り心頭に発した状態で、一人で中庭に出たのである。 一晩経っても冷静になれなかったらしい者たちが、城の門の内に雪崩れ込んできたのは、ちょうどその時だった。 「魔女を渡してちょうだい。まさか、ご領主様の許可も得ず このお城の庭を処刑場にするわけにもいかないから、村の広場に火刑台を作ったわ。私たちが魔女を焼き殺してあげる」 先頭に立っていたアンナの姉が、大音声でシュンの身を渡すよう、ヒョウガに要求してくる。 彼女の目は、憎しみと狂気で赤く血走っていた。 ラウラと同じような興奮状態にあるのは、シュンに自分の好きな男の心を惑わされたと信じ込んでいるらしい数人の女たち。 30人ほどの集団の構成員は、群の後方に行くほどラウラのような激しい熱気を帯びておらず、攻撃的でもなく、むしろ自分が今いる場所と立場に怯え戸惑っているようだった。 だが、そんな彼等も、ラウラを止めることだけはしようとしない。 ラウラは積極的にシュンを焼き殺そうとしているが、群の後方にいる男たちは、消極的にシュンを焼き殺そうとしていた。 積極的であろうと消極的であろうと、彼等がしようとしていることは同じ残酷と暴虐。 そして、彼等は、つい数日前までは素朴で善良な農民たちだった。 シュンに親切に接し、シュンに好意を持っていた者たちなのである。 それこそが何よりも恐ろしい事実だと、ヒョウガは思ったのである。 「残念だが、おまえたちの作った火刑台が使われることはないだろう。シュンの身体を取り調べたが、魔女の証などどこにもなかったからな」 「そんなはずないでしょ! 誰にだって、痣や傷の一つくらいあるはずだもの!」 ヒョウガの言葉に、即座にラウラが反論してくる。 痣や傷は誰にでもある――それがわかっていながら、この女は シュンを魔女として告発したのかと、ヒョウガはラウラの中の邪心に、深い嫌悪感を覚えたのである。 本当に ほくろ一つなかったのだと言ったら、彼女は平気で『それこそ魔女の証拠』と言ってのけかねなかった。 ともかく、ヒョウガは、ラウラのその言を聞いて、この馬鹿者共を懇切丁寧に説得してやる気が完全に失せたのである。 聖闘士は地上の平和と正義のために戦う者ではあるが、だからといって聖人君子であることを義務づけられてもいない。 一度 唇の端を冷たく歪めてから、ヒョウガは狂気の集団の扇動者に 抑揚のない声で尋ねた。 「では、なにか。おまえ等は、シュンが魔女で、俺の過酷な取調べに屈し、他の魔女たちの名前を自供したという事実が欲しいのか?」 「え?」 自分が何を言われたのか、ラウラは咄嗟に理解できなかったらしい。 そんな彼女を腹の中で侮りながら、ヒョウガが言葉を続ける。 「シュンが魔女だということは、そういうことだ。シュンは他の魔女の名を自供した。俺はシュンの身体をくまなく調べたが、シュンの身体のどこにも悪魔との契約の印は見付からなかった。当然 シュンは魔女ではないから、シュンの告発は信じるに値しないものと思っていたんだが、どうやらそうではないようだな」 いかにも残念そうな顔をして、ヒョウガは狂気の集団を一渡り見まわした。 ヒョウガの言葉の意味を、彼等は徐々に理解してきたらしい。 ラウラの背後に控えていた者たちが、ざわざわと困惑したような声や溜め息を洩らし始める。 わざとらしい間をおいてから、ヒョウガは彼等に重ねて尋ねた。 「シュンが告発した他の魔女たちの名を知りたいか? シュンにつらく当たった 捩じれた心の持ち主の名、親切にしてやったのにシュンの厚意を踏みにじり シュンを裏切った裏切り者の名。シュンが、誰を魔女として告発したか、その名を知りたいか? どうやら、この村には、シュンと一緒に魔女として火あぶりになりたい者が大勢いるようだな」 その場にいる者たちは、全員が シュンの優しさを裏切った者たちだった。 それくらいのことは自覚できていたらしく、彼等は、ある者は青ざめ、また ある者は頬を真っ赤に染め、ぶるぶると震え始めた。 「そ……そんなの、言い掛かりよ!」 浮き足立つ下僕たちの怯懦に忌々しげな一瞥を投げ、ラウラがヒョウガに 石つぶてを投げつけるような勢いで噛みついてくる。 しかし、ラウラが投げた石つぶてはヒョウガに当たらなかった。 「言い掛かり? たとえそうだったとしても、それは誰にも証明できないことだ。魔女が自分から自分は魔女だと名乗り出るはずはないだろうから、俺はシュンの自供を信じるしかない。なにしろ、シュンは魔女だそうだから」 証拠のない告発が有効な世界では、魔女として名を挙げられただけで、その人物の運命は決定する。 事実この国のあらゆる町と村で、悪魔に会ったこともない罪のない男女が数多く処刑されていた。 「シュンが魔女として告発したのは、ラ――」 魔女として名を挙げられれば、その瞬間に その人間からはすべての希望が失われる。 ラウラは、(彼女が魔女取調官と信じている)ヒョウガに自分の名を言わせるわけにはいかなかった。 そして彼女は、ヒョウガの告発を止めるために事実を叫ぶしかなかったのである。 「く……悔しかっただけよ! ルカスを取られて、村の男たちはシュンばっかり ちやほやするし、だから この村の男たちはみんな馬鹿ばっかりなんだって思って何とか我慢してたのに、外から来たヒョウガまで結局シュンに目を向ける。だから、魔女ってことにして、シュンをこの村にいられなくしようとしただけよ!」 「この村に? この世に、だろう。おまえがしたことはそういうことだ。結果として、おまえもこの世にいられなくなった。俺はもう魔女の名を聞いたあとだ。おまえをここまで育て上げたご両親には気の毒だが、こればかりは聞かなかったことにはできない」 ヒョウガは最初は、この愚かな娘を少しばかり懲らしめてやろうという考えしか持っていなかった。 だが、この娘がしようとしていたことを自分の声と言葉で語っているうちに、彼の胸中には ふつふつと、この悪魔のような娘への憎しみと冷酷が生まれてきたのである。 その憎悪と冷酷を感じ取ったのか、ラウラの顔に、あまりにも切実な死への恐怖と自暴自棄の色がにじみ始める。 「シュ……シュンが私の名を言ったって、それは私が魔女だからじゃなく、私の意地悪に復讐しようとしているだけのことだわっ!」 金切り声で叫んでから、彼女は、その場にシュンと彼女の妹の姿があることに気付いたらしい。 「そうでしょ !? ほんとのこと言いなさいよ!」 ヒョウガではなくシュンに、ラウラが呪詛めいた悲痛な声をぶつける。 城中から中庭に出てきていたシュンは、取り乱した彼女の様子を、ただ悲しげに見詰めているばかりだった。 事実、シュンは、ただ悲しかったのだろう。 自分が彼女にここまで憎まれていることが。 彼女をそこまで追い詰めたのが自分だということが。 そして、自分と彼女と――この悲しい二人の人間をどうすれば救うことができるのかがわからないことが。 そんな二人を救ってくれたのは、確とした自我を持ち、自分が信じ愛する者のために果断に行動できる 聡明な一人の子供だった。 シュンと手をつないでいた幼い少女が、狂女のような姉に、あどけなささえ残る素直な声で告げる。 「シュンちゃんは、お姉ちゃんのこと、魔女なんて言ったりしないよ。シュンちゃんはいつも、ルカスに、お姉ちゃんと仲直りして、仲良くしなさいって言ってたよ」 「え……?」 「お姉ちゃんは憎む相手を間違えてるよ。私、お姉ちゃんが憎まなきゃならないのは、お姉ちゃん自身の頑迷だと思う」 「あ……」 そう言われても、人間は、器用に 一瞬で憎悪の的を変更することができるものではないらしい。 賢い妹に諭された愚かな姉は、ふらつく足で後ろを振り返り、今はほとんど狂気を失った者たちの群の中で最も頑健そうな長躯の男に視線を向けた。 「そうなの? シュンはそんなこと言ってたの?」 すっかり平生の彼に戻っていたルカスが、そんな彼女にのろのろと きまりが悪そうな顔で頷く。 「だから、俺は幾度もおまえに謝ったぞ。だが、おまえは意地を張り続けた。だから俺は、おまえのことは諦めようとしていたんだ。俺がシュンと親しくしていたのは、シュンがいつも俺に諦めるなと言ってくれるからで――他の奴等だってみんな俺と似たり寄ったりだ。みんな、シュンに励まされて慰められていたんだ。なのに、俺は――」 ルカスが一度 言葉を言い淀み、それから 両の拳をきつく握りしめる。 「なのに、俺は、あんなに俺に優しくしてくれたシュンより、おまえの方を選んでしまった。俺は おまえを諌め、止めるべきだったのに……」 「あ……」 ヒョウガの容赦のない脅しにも気丈に抵抗していたラウラが、ルカスの言葉を聞いて、へなへなと その場に崩れ落ちる。 人間というものは、自分が誰かに愛されていることを知って初めて、人の優しさを認められるようになる生き物であるらしい。 自分が誰かに愛されていることを知って初めて、自らの非を認めることができるようになる生き物でもあるらしい。 ヒョウガは、この村に来て初めて、村長の姉娘の しおらしい言葉を聞くことになった。 「ご……ごめんなさい……シュン。みんな私のせいだったのに……みんな私が悪かったのに……」 「おまえは、『ごめんなさい』と謝れば、魔女ではない者を焼き殺そうとした罪を免れ得ると思っているのか」 立場上、ここで簡単に彼女を許すわけにもいかなかったヒョウガは、無理に鹿爪らしい顔を維持して、ラウラを睥睨することになった。 「ヒョウガ。そんな意地悪しないで」 シュンが困ったように切ない笑顔で、ヒョウガをなだめる。 そうしてからシュンは、身も世もなく泣き崩れているラウラの側に駆け寄り、だが、すぐに思い直したように、彼女を助け起こすよう、ルカスに目で示した。 ルカスはシュンの指示に従ったのだが、ラウラは彼女の恋人の手にすがっていくことをしなかった。 「シュン、ごめんなさいー!」 魔女とは実に甘い生き物だと、ルカスではなくシュンにすがりついて泣き出した我儘娘を見て、ヒョウガは思ったのである。 ラウラの狂気に感染していた娘たちも、この集団の中に村の男たちがいたことの意味を知って――優しい人間より愚かな人間を選んだからこそ、彼等がそこにいたのだということに気付いて――急速に憎悪と狂気を失うことになったらしい。 そんなことまでラウラに 男たちが慌てて、そんな娘たちの側に駆け寄っていく。 ラウラにシュンを奪われたヒョウガと シュンにラウラを奪われたルカスの二人だけが抱きしめる相手を持つことができず、彼等は、仕方がないので、ラウラの妹にしてシュンの友人である少女の頭を交互に撫でてやることになったのだった。 |