春の嵐 または、恥を知らない男






「おまえ、逆タマでも狙ってんのか?」
「え?」
瞬は今日は 某国から来日した前衛劇団のパフォーマンスを観に行ってきたという話だった。
昨日は、某々国ロイヤルオペラの来日公演観劇。
一昨日は、某々々国国立バレエ団のバレエ観劇。
もちろん一人で出掛けているわけではなく――瞬は毎回 女連れだった。
しかも、その相手は毎日違う。
だからこそ、星矢は瞬にそんなことを尋ねることになったのである。
おまえは逆玉の輿を狙っているのか――と。

とはいえ、星矢は本気で瞬がそんなことを目論んでいると考えていたわけではなかった。
瞬が今日の外出の土産として買ってきてくれた道明寺。
昨日は、生クリームロールケーキ。
一昨日は、ドライフルーツのパウンドケーキ。
デートに出掛けていった男子が家族でもない友人のために必ず土産を購入して帰ってくるというような話を、星矢は聞いたことがなかった。
逆玉の輿を狙っているのなら、瞬は連れのご令嬢の機嫌を取るのに心を砕き、仲間への土産を買うことなど考える余裕はないだろうし、女連れの外出を楽しんでいるのなら なおさら そんなことには気がまわらないだろう。

つまり、瞬の連日の外出は、仲間への土産を買うことを考えていられるほど 心的余裕のあるものだということになる。
瞬は、女連れで出掛けることに、それほど執心しているわけではなく、仲間のことを忘れるほど有頂天になっているわけでもないのだ。
だが、だからこそ星矢は、瞬の連日の外出を奇異に感じないわけにはいかなかったのである。

今日の土産の道明寺を、とりあえず3個ほど腹の中に収めてから、星矢はやっと一息ついて煎茶の入った湯呑みに手をのばした。
一口お茶を飲んで、再度 その顔をあげる。
「だって、おまえ、ここんとこ、毎日毎日 女の子をとっかえひっかえして出掛けてるじゃん。ま、その件に関しては、毎日土産を買ってきてもらえてるし、俺としても文句を言うつもりはないけどさ、ちょっと活動的すぎやしないか?」
「とっかえひっかえだなんて、たちの悪い遊び人みたいに言わないでよ」

センターテーブルを挟んで星矢の向かい側のソファに腰をおろしていた瞬が、星矢の指摘を聞いて、軽く顔をしかめる。
食欲がある程度満たされて 関心が食べ物から人間に移った星矢は、しかし、そんな答えになっていない答えでごまかされるようなことはしなかった。
「でも、おまえが付き合ってるのって、お金持ちのお嬢様ばっかだろ。あえて下世話な見方をするとさ、自分に近寄ってくる金持ちのご令嬢の中から いちばんいい条件の相手を見付けて、逆タマ狙ってるように見えるんだよ」
「そういうことは全く考えてません。星矢、僕の歳を忘れてるの? 僕はただ、沙織さんの顔を立ててるだけだよ」
瞬が、今度はきっぱりと星矢の疑念を否定する。
その言葉が嘘ではないことは、星矢も承知していた。

グラード財団前総帥 城戸光政が企画立案したというギャラクシアンウォーズ。
各々の修行地から聖衣を持ち帰った聖闘士たちが、到底 人間技とは思えない力を用いて戦った大イベント。
それは結局 瞬の兄の乱入で中断されてしまったのだが、その大イベントの観客の中には、バトルトーナメントの結果などどうでもいいと考える者たちが数多くいた。
つまり、聖闘士同士の戦いや 優勝者に与えられるという黄金聖衣の行方には興味がなく、単に、前代未聞のイベントを物見遊山で見物に来た者たち――主に、うら若き乙女たち――が。
そして、いざ その前代未聞のイベントが始まると、彼女たちの目は、スタジアムの大スクリーンに映し出された瞬の姿に釘付けになることになった。
そういった少女たちの中で、グラード財団現総帥に直接渡りをつけられるほどの名士を父母に持つ名家・資産家の令嬢たちの幾人かが、沙織や聖闘士たちの事情を察することもせず(察しようもなかったろうが)、瞬と近付きになりたいと父母を通して沙織に申し出てきたのである。

グラード財団総帥であるところの城戸沙織が、彼女たちの希望を瞬に知らせてきたのは、瞬当人の意思を確かめずに第三者が勝手に その要請を黙殺するわけにはいかないと考えたからだったろうが、新しい友人を作ることは 兄を亡くして沈んでる瞬が気を紛らせるのに有効なことかもしれないと考えたからでもあったようだった。
そして、瞬は、他人のそういった気遣いを むげにできる人間ではない。
瞬の連日の外出は、確かに、沙織の顔を立てるための奉仕作業という側面がないとは言い切れないものだったのである。

それは星矢も承知していた。
だが、それが 数年振りに再会した仲間たちと旧交を温め合うことより優先されるべきことだと思うことも、星矢にはできなかったのである。
幼い頃の瞬は、自分の非力・気弱を自覚するがゆえに、仲間たちから置いてきぼりにされることを何より恐れ、いつも必死に兄を追いかけ、仲間を追いかけている子供だった。
だというのに、今の瞬は、まるで仲間たちと共に過ごす時間を少しでも減らそうとしているように、星矢の目には映っていたのだ。
それは奇異なことだった。

「でも、断ることはできただろ。沙織さんだって、気が乗らないなら無理にとは言わないって言ってたし」
「それはそうだけど、あえて断る理由もないし」
「断る理由なんか、いくらでも作れるじゃん。おまえ、つまんなくねーのか?」
「どうして」
「だって普通はさ、男って、やっぱ自分より可愛い子と一緒にいたいもんなんじゃないか? 俺がこれまで見た限り、おまえのデートの相手で おまえより綺麗で可愛い子なんて一人もいなかったぞ」
直接の知り合いでないせいもあるのだろうが、瞬が付き合っている少女たちに対する星矢の評価には遠慮も容赦もない。
それは正しく“酷評”と言っていいものだったろう。

星矢の酷評に不快を覚えた様子を見せることはしなかったが、それでも 瞬は、星矢の見解を全面的に否定してきた。
「そんなことないよ。女の子はみんな綺麗で可愛い」
星矢の目には“女の子”より綺麗で可愛く映る瞬が そんな主張をすることに、星矢は矛盾あるいは非合理を感じたのである。
それは、星矢にしてみれば、地球に存在する天然の物質の中で最も硬い物質であるところのダイヤモンドが、『氷は硬い物質である』と主張しているようなものだった。

「おまえ、もしかして、実は結構 女好きなのか?」
「オトコよりは はるかに好きだよ」
それは、思春期反抗期を通り過ぎた 一人の男子のものとしては――はたして瞬に、思春期や反抗期などという季節を優雅に堪能する余裕があったのかどうかという点には大いに疑問があるが――ごく普通かつ常識的な答え――ありふれていると言ってもいいような答えだったろう。
だが、星矢は意外の感を禁じ得なかったのである。
瞬が“女の子”を好きでも、何もおかしいことはない。
理性ではわかっていても、星矢の感性は その事実を否定したがった。
あるいは、その事実を否定したがっているのは、“女の子”より綺麗で可愛い瞬の姿を知覚する星矢の視覚の方だったのかもしれない。
いずれにしても、素直に受け入れ難い その事実に、星矢はまたしても遠慮も容赦もなく 自らの顔を歪めることをした。
そんな星矢を見て、紫龍が苦笑する。

「まあ、一人の健康な男子としては、極めて常識的な感性だな」
星矢が掛けている隣りにある肘掛け椅子に陣取っていた紫龍は、そう言って頷いてから、ちらりと氷河を一瞥した。
一人だけ仲間たちから離れたところに――氷河は、春の庭を背にして窓際に立っている。
その氷河に、紫龍と同じように一瞥をくれてから、星矢は再度 瞬の上にその視線を移動させた。

「おまえ、聖闘士でいたくねーの? それで、一般人の女の子と付き合ってるわけ?」
今日に限って、星矢が妙に瞬に食い下がるのは、実は仲間のためだった。
そこに――瞬の声が聞こえる場所に――氷河がいるからだった。
夕暮れの、沈みかける太陽が一日の最後に放つ強いオレンジ色の光が逆光になって、氷河の表情は 部屋の中央にいる星矢にはほとんど読み取れなかったが、それでも今の氷河が笑っていないことだけはわかる。
笑っていないだろうと思うしかないことが、星矢の気分を居心地の悪いものにしていた。

「僕は聖闘士でいることをやめる気はないよ。僕は兄さんの分も戦う。理不尽な暴力に虐げられている人を助けるのに 僕の力が少しでも役に立つというのなら、僕は、そんな気の毒な人たちが この地上に存在しなくなるまで戦い続けるよ」
「へー。おまえ、人を傷付けるのは嫌いなんじゃなかったっけ?」
「嫌いだけど、それとこれとは話が別。確かに戦いを楽しいと思ったことはないけど……。戦いって、気持ちがすさむじゃない。だから、すさんだ心を癒すために、心の潤いを女の子に求めるわけ。罪のない女の子を見てると心がなごむから」
「心の潤い……って、そんなの必要か? つーか、そこいらの女の子見て、心がなごむか? おまえが? ほんとに?」
心底から そんなことがあるはずがないと確信しているような星矢の声と表情。
そんなふうな声と顔で、そんなことを尋ねてくる星矢の意図を解しかねたらしく、瞬は星矢の質問に答える代わりに微かに首をかしげることをした。

星矢の質問の意図と、星矢の質問の意図を理解できない瞬の当惑。
その両方を把握できている紫龍が、二人の間で苦笑いの混じった嘆息を洩らす。
そうしてから彼は、星矢の質問の解説をしつつ、瞬の代わりに星矢の質問に答えるという親切を実践したのだった。
「まあ、俺たちは女の子の代わりに瞬を見て なごんでいればいいから、心の潤いなんてものは必要がないと感じるが、瞬自身はそういうわけにはいかないだろう。まさか戦いで心がすさむたびに、鏡を取り出して自分の顔をまじまじと見詰めるわけにもいかないだろうしな」
「ああ、それは確かに」
紫龍の解説 兼 回答に得心して、星矢が頷く。
しかし、肝心の瞬は、紫龍の答えも星矢の首肯も理解しきれていないようだった。
否、瞬は、その時には既に 仲間たちのやりとりの意味を9割方理解できていたに違いなかった。
ただ、自分が理解できていることを認めたくなかっただけで。

「……それ、どういう意味」
「おまえは、そこいらに転がってる女の子より はるかに綺麗で可愛いから、俺たちは、わざわざ本物の女を見なくても、おまえを見てれば、それですさんだ気持ちもなごむってこと」
既に理解済みのことを はっきり明言されて、瞬がぴくりとこめかみを引きつらせる。
星矢はもちろん、瞬を貶めようという意図も揶揄しようという意図もなく、単に事実を言っただけだった――そのつもりだった。

が、言う方に悪気がなければ、言われた方も安らかな気持ちでいられるとは限らない。
“そこいらへんに転がっている女の子より はるかに綺麗で可愛い瞬”は、棘のある声で、彼のすさんだ気持ちを慰撫するための代替案を星矢に提示してきた。
「綺麗なものを見て心をなごませたいなら、氷河を見ていればいいでしょう」
「氷河のツラなんか見てても、全然 なごまねーもん。氷河は目付きが悪すぎるんだよな。いいじゃん、別に。俺たちが何見て なごんでも。俺たちはおまえに 酒の酌をしろとか、愛想笑いをしろとか、何か芸しろとか言ってるわけじゃねーんだから。俺たちはただ、おまえがそこにいるだけで――」
「僕は、人に女みたいって言われるのも、そんなふうに見られるのも嫌いなんだよ! 特にオトコにそんなこと言われるのは嫌だ。気持ち悪い!」

どちらかといえば大人しい印象の強かった瞬の思いがけない剣幕に、瞬の仲間たちはぎょっとすることになったのである。
正真正銘の男子が女の子より可愛いと評されることを嫌がる気持ちは理解できなくもないが、それにしても『気持ち悪い』とは尋常でない嫌がりようである。
星矢と紫龍は背筋にひやりと冷たいものを感じながら、もしかしたら その“気持ち悪い”ことを その場で最も熱心に行なっているかもしれない男の上に素早く視線を投げることになったのだった。

「僕、オトコって大っ嫌い! その点、女の子は綺麗で優しくて大人しくて――女の子って、オトコなんかよりずっと優れた生き物だよ!」
星矢は、オトコがオンナより優れているなどという考えの持ち主ではなかったし、それゆえ、彼は瞬の意見に異議を唱えるつもりはなかった。
今現在、この場に限っていうならば、問題は、オトコがオンナより優れているか、それとも劣っているのかということではなかったのだ。
問題は、よりにもよって オトコの瞬に気がある氷河のいる場所で、瞬がそんなふうに激しい言葉でオトコへの嫌悪感を明言してのけたことだったのである。

氷河は生まれつきオトコが好きな男だったわけではない(はずだった)。
母を亡くし、たった一人でやってきた見知らぬ異国で、彼は、彼の心を慰め気遣ってくれる心優しい少女に出会った。
彼女によって孤独と傷心を癒された氷河は、当然のごとく 心優しい その少女に恋をした。
ただそれだけのことだったのである。

それぞれの修行地に送られることになり、長い別れを余儀なくされた その日 初めて、自分の恋した少女が実はオトコだったと知って、氷河は呆然自失。
氷河は用意していた告白の言葉を瞬に告げ損ね、別れの涙も流し損ねた。
それは、瞬以外は誰でも知っている、仲間内では有名なエピソードだった。
泣き虫の瞬もさることながら、失恋直後に修行地に送られることになった氷河が、つらい修行に耐えられるのかどうかを案じつつ、その日 城戸邸に集められた子供たちは 世界中に散っていったのである。

とはいえ、二人は、二度と会えないかもしれない二人。
万事がうまくいって 二人が聖闘士になって日本に帰国したとしても、その時には、瞬もそれなりに男らしくなっているはず。
そうなれば もともとオトコが好きだったわけではない氷河は 己れの恋を諦めることもできるだろうと、氷河の仲間たちは楽観視していた。
ところが瞬は、男らしくなるどころか、幼い頃にも増して花のように綺麗な美少女になって日本に帰ってきてしまったのである。
これでは氷河も その恋を思い切ることは難しいだろうと案じることになった星矢たちの微かな希望は、帰国当初の瞬の、幼い頃の大人しさや控えめとは異質な 妙にすかした態度だった。
数年間の つらい修行は、繊細さや優しさ、細やかな気配りや気遣いといった特質を瞬から奪い、多少なりとも男子としての気概や雄々しさを瞬に植えつけることになったのだろうと、星矢たちは思ったのである。
外見は可憐な花でも、中身がオトコそのものだったなら、もともとオトコが好きなわけではない氷河も諦めがつくだろうと、氷河の仲間たちは再び期待した。
ところが、兄との再会と彼の死の衝撃が、瞬をすっかり元の――氷河が好きだった頃の――繊細で健気で泣き虫で可憐な美少女に戻してしまったのだ。

人間が、一度は好きになった相手を好きでなくなるには、何らかの原因もしくは何らかの変化が必要である。
しかし瞬は、氷河が恋した時のまま。
その姿は、へたな女の子より可憐で清楚、その性質は、繊細で 他人への気遣いができ、基本的に優しく親切。
もはや氷河に 瞬への恋を断念させることは不可能だろうと、星矢たちが諦めかけていた矢先のことだったのである。
瞬の『僕、オトコって大っ嫌い』宣言は。

互いに聖闘士になって再会した瞬が旧友たちとの接触を妙に避けていることには、『僕、オトコって大っ嫌い』宣言以前から、星矢たちも気付いていた。
普通に会話を交わしている分には特に何ということもないのだが、何かの弾みで身体が触れ合うようなことがあると、瞬は露骨な拒否反応を示すのだ。
幼い頃の瞬はそうではなく――むしろ真逆だった。
幼い頃の瞬は、一人にされることを何より恐れる子供だった。
乳幼児期に親に抱きしめられた経験に乏しい子供だったせいか、瞬は 誰かに触れていることで安心感を得ているようなところのある、言ってみれば極度の寂しがり屋、孤独恐怖の気のある子供だった。
人は変われば変わるものだと、これが子供が独立した大人になることなのかと、星矢などは思っていたのである。

だが、もしかしたら、瞬が仲間との接触を忌避していたのは、瞬の仲間たちがオトコだからだったのではないか――。
今になって その可能性に思い至り、同時に、星矢は何か嫌な感じ・・を自覚したのである。
それは、星矢に、『氷河の恋は実らないだろう』と思わせるような嫌な感じ、だった。






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