それは、何ということもない敵のはずだった。 これまで幾多の戦いを戦い、神という存在をすら倒してきたアテナの聖闘士にとっては。 だからこそ、アテナも、星矢と氷河という無茶な組み合わせの二人を その敵の許に派遣することにしたに違いないのだ。 もちろん、その敵の現われた場所が白鳥座の聖闘士の修行地であるシベリアだったこと、戦いのない毎日に天馬座の聖闘士が不満を洩らしてばかりいたこと、龍座の聖闘士が大陸に渡っていて日本に不在だったこと、アンドロメダ座の聖闘士が収容人数が異様に増えた星の子学園に助っ人として駆り出されていたこと等々の事情もあったろうが、いつものアテナであれば、星矢には紫龍、氷河には瞬というように、無鉄砲には慎重派、暴虎馮河には如臨深渕のパートナーをつけて敵地に派遣したはずだったのである。 彼女がいつもの体制で事に当たらなかったのは、北の地に現われた敵が青銅聖闘士0.01人で対処できるほどの力しか有していない者だということがわかっていたからだった。 それでも万一のことを考えて、アテナが聖闘士を二人も派遣したのは、彼女なりの深慮と用心深さのゆえだったのである。 だが、『無鉄砲×無鉄砲』イコール『超無謀』。 無鉄砲な二人の聖闘士を派遣した結果が、氷河の右手の人差し指と中指の切断という惨事を招くことになろうとは、彼等をシベリアに送り出した時には、さしもの女神にも想像すらできていなかっただろう。 氷河の負傷は命にかかわることではなく、幸いにも24時間以内に切断指再接着の手術ができる医師の許で復元が成ったのだが、アテナは この件で“油断”という行為の恐ろしさを胆に銘じることになったのだった。 残念ながら、その惨事の当事者である氷河と星矢が 自らの無鉄砲を反省した様子は、傍目には かけらほども見られなかったが。 「いったいどうしてこんなことに……指を切り落とされるなんて」 氷河が切断指再接着手術を受けたのはペテルスブルクの病院で、彼は翌日には日本に戻ってきていた。 術後経過をみるために幾度か(日本の)病院には行かなければならないことになっていたし、その右手は今もギプスで固定されていたのだが、氷河は、我が身に起こった大事件を蚊に刺された程度のことと認識しているらしく、その態度は全く のんびりしたもの。 現場に居合わせたわけでもなければ、実際に氷河の身体から彼の指が離れている状態を見たわけでもない瞬の方が よほど青ざめた頬をしていた。 氷河同様、それを大したことと思っていないらしい星矢が、悲痛の『ひ』の字もない顔と声で、瞬にその時のことを語り始める。 「いや、それがさー……」 氷河と星矢が出会った敵はただ一人だけだったらしい。 かつてドルバルの配下にいた 雑兵に毛が生えた程度の男で、心酔していた教主を失い、戦いの目的を見失ったあげくに自棄になり、北の大地のそこここで暴れていたのだそうだった。 氷河たちが彼に会った場所はコホーテク村。 二人のアテナの聖闘士が東シベリアに着いた その日、問題の男は、よりにもよって、修行時代の氷河が何かと世話になった人たちのいる村を襲おうとしているところだったのである。 「一般人が――それも、氷河が世話になった人たちがいる村だろ。その人たちに とばっちりが及ぶようなことがないようにってんで、俺たち、バトルの場所を村から離れた場所に移そうと思ったんだよ。あの馬鹿男を『雑魚雑魚雑兵!』って挑発して、俺たちの方に引きつけて、村から離れようとしたんだ。計画通りにいってたんだぜ。あの馬鹿野郎をほとんど村の外に連れ出して――本当に うまくいってたんだ。氷河のロザリオのチェーンが切れて、氷河がそれを落としちまうまで」 「ロザリオって、ノーザンクロスの――?」 「そ。あの、マーマの形見ってやつ。で、あの雑魚、小宇宙もなくて、代わりに武器を使ってたんだ。んーと、アスガルドのトールが振り回してたニョロニョロハンマーみたいな武器」 どう考えても、星矢はヒルダの志士の武器の名を間違えて憶えていたが、瞬はその件をあえて指摘することはしなかった。 敵が用いていた武器がミョルニルハンマーではなくニョロニョロハンマーでも、エクスカリバーでなくミツヤサイダーでも、氷河の身を襲った惨事が慶事になるわけではない。 武器の名前など、この際どうでもいいことなのだ。 星矢が、自分の間違いに気付いている様子もなく、その時の話を続ける。 「そんで、氷河が落としたロザリオを拾いに戻って、手をのばしたところに――」 星矢の話が佳境(?)に入ったところで、瞬は反射的にその目を閉じた。 擦り傷・切り傷・打ち傷・突き傷が日常茶飯事の聖闘士とも思えない瞬の過敏。 瞬がそこまで過敏になっているのは、それが我が身に起こったことではなく、仲間の身に起こったことだからなのだということは わかっていたのだが、ともかく星矢は、瞬のその様子を見て、そこで何が起こったのかを具体的に言うのは やめることにしたのである。 ここで、『そのハンマーに切れ味抜群の刃が仕込んであってさー、そいつがダイコンでも切るみたいに すぱっと氷河の指を切り落としてくれたんだよ』などということを言ったら、瞬はそれこそ悲鳴をあげて卒倒してしまいかねないと、星矢は思ったのだ。 「氷河だから、ぎりぎりのところでよけられたけど、あれ普通の人間だったら、肩から腕を落とされるか、へたしたら首が胴から離れることになってたと思う。まあ、指2本で済んだのは不幸中の幸いってもん――」 代わりに星矢が口にしたのは、現に起こった事実ではなく、実現しなかった最悪の事態だったのだが、それは瞬の頬から血の気を失せさせるのに十分な力を持った仮定文だったらしい。 自分が言ってはならないことを言ってしまったことに気付いて、星矢はまたしても言葉を途切らせることになったのだった。 しばしの間をおいて、今度は注意深く――星矢なりに注意深く――その後の報告を始める。 「で、雑魚の相手は俺がするから、切り落とされた指を持って すぐに沙織さんに連絡しろって言って、俺はそこから氷河を追い払ったんだ。氷河は可愛げがないくらい落ち着き払った態度で落ちた指を拾って、沙織さんから持たせられてた携帯電話から衛星回線で沙織さんに連絡入れて、連絡受けた沙織さんがすぐに再接着手術のできる医者のいる病院を探して、手術の手配をしてくれたわけ。俺たちが乗ってきたジェットヘリがまだその辺りにいてさ、それでペテルスブルクの病院に直行できたんだ」 こういう万事がうまくいった話なら 瞬も平気だろうと考えて、星矢はぽんぽんと調子良く 素晴らしい連携プレイの報告をしたのだが、まるで自分の指が切り落とされでもしたような瞬の表情には何の変化も見られない。 星矢は、この時点で、痛みに歪んでいるような瞬の顔を元に戻すことを諦め、開き直ったのである。 「すげーよな。氷河の指、2本とも、ほんとに第二関節から綺麗にすっぱり切れてたんだぜ。それをくっつけて、骨を固定して、腱を縫合して、神経と血管を繋いですっかり元通り。俺、これまで格闘家と漫画家以外の大人を尊敬したことなかったんだけど、これからは医者も尊敬することにしたんだ」 「あ……あ……」 星矢の元気な報告に ついに耐え切れなくなったらしい瞬が、小さな呻き声を洩らす。 瞬の頬は、まるで死人のように真っ白になってしまっていた。 自分のミスで起きた騒動を自ら語りたくなかったのか、事態の説明をすべて星矢に任せていた氷河も、さすがにそれ以上 傍観者を決め込んでいることはできなくなったらしい。 頬を蒼白にし 全身を硬直させている瞬に、氷河は、少々困惑は混じっているにしても いたって軽い笑顔を向けてみせた。 「なんだ、その葬式の参列者みたいな顔は。俺はまだ生きているぞ。おまえにそんな顔をされたら、おまえの期待に沿って死ななければならなかったような気になる。ドジな聖闘士だと笑われていた方がずっといい」 「そんなことできないよ……」 「いいから笑え」 氷河が本気でそれを望んでいることを察したらしい瞬が、なんとか――だが、ぎこちなさが完全には消えていない――微笑を作る。 まだ かなり強張りの残るその微笑に、氷河は完全に満足したわけではなかったのだが、とりあえず この場はそれでよしとすることにして、彼は白い頬の瞬に頷いた。 無理に作った笑顔の代償を求めて――というわけでもないのだろうが、瞬がそんな氷河に視線ですがりついてくる。 「あの……僕に氷河を看病させて」 「なに?」 せっかく死人でなくなれたのに、今度は看病の必要な重病人かと、氷河は内心で苦笑を洩らしてしまったのである。 瞬はこんなに心配性だったろうかと、氷河は軽い疑いを抱くことにもなった。 「看病も何も……俺は、この通り、ぴんぴんしてるし、その必要は――」 「でも、氷河の指は しばらくの間は使えないままなんでしょう? 固定しておく必要がなくなっても、当分はリバビリ期間を取らなきゃならないよね? それなら、食事や字を書いたりするのには不便があるでしょう」 「そこは左手で何とか……」 と言って、瞬の厚意を辞退しようとした氷河が、思い直したように、 「まあ、おまえが俺の世話をしてくれるというのなら、それはとても助かるし、嬉しいが」 と方向転換を図ったのは、それが自分の恋の成就に寄与することになるかもしれない──などという姑息なことを考え期待したからではなかった。 そうではなく――まるで仲間の指が彼の本体から離れることになったのは自分のせいだと言わんばかりに悲痛な目をし、怯えてさえいるような瞬の気がそれで済むなら――と、氷河は考えたのである。 |