氷河は決して邪まな下心から瞬の“世話”を受け入れることにしたのではなかった。
そんなつもりは 全く――ほとんど――なかったのだが、実際に瞬に“世話”をされてみると、それは実に楽しい行為で、氷河は、『あの時 冷酷に瞬の厚意を退けなくてよかった』と しみじみ思うことになったのである。
なにしろ瞬は、文字通り 朝から晩までつききりで、氷河の生活のすべてに渡って彼の面倒を見てくれたのだ。

それはなんと、朝の身支度の手伝いから始まった。
食事の給仕等はもちろん、両手を使わなければならない作業全般、普通の人間が利き手で行なう作業全般を、瞬は、介護福祉士有資格者でもここまでの気配りと奉仕は叶うまいと思えるレベルでこなしてくれた。
氷河の“世話”をするために、瞬は、氷河の部屋のバスルームにまで入ってこようとしたのである。

これは千載一遇のチャンスと、氷河も考えなかったわけではない。
考えなかったわけではないのだが、まるで指を失いかけた仲間に滅私奉公するのが自分の至上義務と思っているような瞬の様子を見て、氷河は風呂の世話は固辞したのだった。
瞬の純粋な献身に下心からつけいるようなことは、さすがにためらわれたから。

だが、それ以外のことでは、氷河はすっかり瞬の厚意に甘えきっていたのである。
最初のうちは、それなりに 遠慮が勝っていたのだが、「これは俺ひとりでもできる」と告げるたび 悲しげな目をした瞬に見詰められるということを繰り返しているうちに、氷河は瞬に遠慮することを諦めざるを得なくなってしまったのだ。
とはいえ、瞬に甘えることが 氷河にとって快くないことだったわけではない。
むしろそれは、快すぎるほど快いことだった。
瞬の気配りは実に行き届いたもので、氷河は、『かゆいところに手が届く』とはこういうことを言うのかと、しみじみ思うことになったのである。

――人間は快楽原則に従って生きている動物である。
楽な方・快い方に流れ、自分にとって楽な状況・快い状況に慣れるようにできている。
氷河が瞬の“世話”に慣れ溺れることになるまでに、さほど長い時間はかからなかった。

「箸なら慣れれば左手で代用が可能だが、ナイフとフォークを扱うにはどうしたって両手が必要だ。西洋人は健常者だけを基準にして生活を考えるきらいがあるようだな。実によろしくない」
氷河が偉そうに講釈を垂れている横で、瞬が、氷河の皿の骨付きラムのソテーを、ナイフとフォークを扱えない人間にも食べられるように丁寧に切り分けている。
すっかり甘えん坊になってしまった氷河を、本音を言えば 星矢と紫龍は、「瞬に給仕の真似をさせるくらいなら、骨ごと肉を掴んでかぶりつけ!」と、怒鳴りつけてしまいたかったのである。
彼等がその考えを口にせずにいたのは、氷河に奉仕することを 瞬が喜んでいるようにしか見えなかったからだった。
というより、氷河の世話をできない状況を、瞬が苦痛に感じているように見えるからだった。
人間が快楽原則に従って生きる動物で、瞬もまた そんな人間の一人なのであれば、瞬は 氷河に奉仕することを快いものと感じているに違いない――。
瞬の仲間たちが そう思わざるを得ないほど、瞬は氷河の“世話”に積極的だったのである。

「しかし、瞬。あまり氷河を甘やかすのはよくないぞ。元はといえば、これは氷河の油断が招いたことで、氷河の自業自得なんだからな。そうやって甘やかしていると、そのうち氷河は、ウサギリンゴで『あーん』を、おまえに求めかねない」
「そうそう。そろそろ突き放してやんないとさ、氷河は、指だけじゃなく 他の何もかもがなまって、自分の仕事を忘れちまいかねない」

それは、あまり氷河を甘やかしすぎると、他の誰でもなく氷河のためにならないという、星矢たちなりの助言だったろう。
そして、その意見には、実のところ氷河当人も否定しきれないところがあった。
ただ一人、瞬だけが、仲間たちの助言を聞く耳も持たない様子で、氷河の側から離れない。
この状況は何か不自然だと、星矢と紫龍だけではなく、氷河も思い始めていたのである。
確かに世話好きで心配性ではあったが、瞬は決して他人を甘やかして駄目にするタイプの人間ではなかったはずだった。
瞬は、そうすることが必ずしも良い結果を生むとは限らないことを知っている人間のはずなのだ。
何かがおかしいと感じつつ、それでも今のまま瞬に世話を焼かれ続けていたい――というのが、今の氷河の本音だったのである。






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