瞬は、城戸邸に集められた子供たちの中で最も気弱で大人しい子供であり、それゆえ、強いられる理不尽に耐える力を持つ子供でもあった。 たとえば、大人たちが決めた城戸邸内にある規則や約束事を 最もよく守る子供は瞬だった。 決められたルールを破ることによって 大人たちに加えられる罰を恐れているから──という側面もあったろうが、瞬が決まり事をひたすら従順に遵守する理由はそれだけではないことを、氷河は知っていた。 瞬は、自分の非力を自覚しているから、そういったルールを破ることで、他人に迷惑をかけることを恐れているのだ。 城戸邸に集められた子供たちの管理監督責任者である辰巳某は、好んで『連帯責任』という言葉を使う男だったから。 あるいは、『せめて戦うこと以外は人並に』という考えが、瞬にそうさせている部分もあったかもしれない。 自分の非力が仲間たちの足手まといになり、仲間たちに迷惑をかけることを、瞬は本能的といっていいほどに恐れているのだ。 他の子供は違った。 氷河ももちろん星矢や他の子供たちは、自分が非力な存在であることを認めるのが嫌だから──自分以外の者たちが、そうと意識しているのかどうかを氷河は知らなかったが──ともかく、城戸邸に集められた子供たちの多くは、決められたルールから逸脱することを好んで行なった。 “強い大人たち”が勝手に決めたルールに逆らうことで、自分がそこに存在することを示し、確かめようとするかのように。 規則や約束事が何のために存在するのかということは、氷河とて知らなかったわけではない。 だが、城戸邸の大人たちは、それでなくても厳格なルールを、理不尽なほどの厳しさで守らせようとするので、城戸邸に起居する子供たちは “ルール”“決まり事”というものが大嫌いだったのだ。 起床から就寝まで一日のスケジュールが細かく決められていて、子供地たちは、そのスケジュールから逸脱することは許されない。 たとえば、起床時刻の6時を体調の悪い子供にも強いる。 気象予報士が『外出を控えるように』と忠告するほどの台風の日にも、城戸邸の子供たちは、ジョギングの時間には決められたコースを走っていなければならなかった。 城戸邸にあるルールは、子供でなくても──人間なら誰でも──『俺たちはロボットじゃないんだ』という反抗心を抱きたくなるような代物だったのだ。 以前──そうなった事情も知らされないまま、城戸邸に連れてこられて ほどない頃、“自由”を強要される自由時間が過ぎ 夕食の時刻になっても、氷河が食堂に行かなかったことがあった。 なぜ今 自分の側に母がいないのか。 母の死よりも母の不在が悲しく悔しくて、城戸邸の広い庭の隅の灌木の蔭に座り込み、氷河は歯を食いしばっていたのである。 子供たちをスケジュール通りに動かすことに生き甲斐を感じているような辰巳が、こういう時ばかりは決められたスケジュールを無視して、“連帯責任”による連座制の適用を実行に移したらしい。 幾十人もの子供たちが仲間の名を叫んで 消えた新入りを捜しているようだったが、氷河は自分がうずくまっている場所から立ち上がる気にはなれなかった。 氷河が、名を呼んでほしい人は、消えた子供を捜してほしい人は、そして、隠れている子供を見付けてほしい人は、彼等ではなかったから。 『氷河、ここにいたの。どうしたの? なにか悲しいことがあったの?』 氷河がそう言ってほしい人は、自分と似たりよったりの歳の子供ではなく、居丈高な大人でもなく、優しく美しい母だけだったのだ。 だが、氷河のその願いは決して──もう二度と、永遠に──叶うことはない。 だから、氷河は、そこから立ち上がって、見知らぬ“仲間”たちの許に行く気にはなれなかったのである。 だというのに──。 「氷河、ここにいたの。どうしたの? なにか悲しいことがあったの?」 だというのに、母ならば そう言っただろう言葉と全く同じ言葉で、人生の理不尽から逃れ隠れていた氷河を見付けてしまったのは、彼の母ではなかった。 母より ずっと背の低い、氷河よりも背の低い、ゆえに到底氷河を抱きしめてはくれなさそうな 小さな子供だった。 その子供が、母より小さな手、氷河より小さな手を──孤独で寂しい子供を守ることなど とてもできなさそうな小さな手を──氷河の前に差しのべてくる。 「みんなが心配してるよ。みんなのところに行こう」 「心配なんかするもんか。マーマじゃないのに。どうせ あのタコが、俺が見付かるまで夕飯を食わせないとか何とか怒鳴ってるんだろ!」 瞬の声は、母のそれと同じように優しい響きの声だったのだが、それが母のものではなかったので、氷河は瞬を怒鳴りつけた。 なぜ母ではないのだという怒りや やりきれなさが、氷河の口調を乱暴で素直でないものにした。 城戸邸に集められた子供たちの中で最も気弱で覇気のない瞬は、だが、その手を引っ込めなかった。 「怒鳴ってるけど……。でも、みんなは辰巳さんに怒鳴られたから、氷河を捜してるわけじゃないよ」 「なら、なんで捜してるんだ」 「え?」 氷河の前に差し出されていた瞬の手が、氷河に そう問われて、心細そうに力を失う。 本当にその理由がわからないのかというように悲しげに、瞬の手は微かに揺れた。 それでも、瞬は、その手を氷河の前から消し去ろうとはしなかった。 代わりに、瞬は、 「氷河は僕たちの仲間だもの。マーマじゃなくても心配するよ」 と言った。 決して押しつけがましいものではなかったが──むしろ、それは気遣わしげで優しい声だった――その事実に疑いの入る余地はないというように、瞬は断言した。 『そんなことがあるもんか!』と、氷河は瞬を怒鳴りつけようとしたのである。 そして、瞬の顔を睨みつけようとした。 巡らせた視線の先に、小さな手と同じように悲しげな瞬の心配顔があることを認め、氷河はそうすることができなくなってしまったのだが。 マーマでなくても──肉親でなくても、親のない子供を心配してくれる人間はいるのかもしれないと、氷河はその時 初めて思ったのである。 “仲間たち”は早く夕食を食べたいから スケジュール通りに夕食のテーブルに着かなかった馬鹿者を捜しているのかもしれなかったが、瞬だけは絶対にそうではないと、氷河は信じることができた。 その時、瞬の手をとるか否かが、氷河の人生の重要な岐路の一つだったのかもしれない。 氷河は、瞬の手をとる道を選んだ。 その時 二人が選んだ道は、確かに同じ道だった。 だからこそ、氷河は それ以降、自分と瞬に与えられる境遇の相違に いちいち苛立つことになってしまったのだが。 ともあれ、その日その時から、氷河にとって 瞬は“なぜか妙に気になる相手”になり、氷河は、それまで さほど気に留めていなかった瞬を見ていることが多くなった。 そして、氷河は、瞬が素晴らしく綺麗な人間だということに気付き、群を抜いて優しい心の持ち主であること、細やかな気遣いや気配りを ほとんど自然に示すことができる人間であることに気付き、瞬が厳にルールや約束事を守る子供だということに気付き、その理由を理解することになったのである。 情熱的といっていいほどのひたむきさで、瞬は人との約束を守る子供だった。 居丈高な大人たちに強いられる決まり事であれ、仲間内の何気ない言葉のやりとりであれ、瞬のその態度は決して変わらなかった。 瞬は、人に迷惑をかけられることは全く平気で、そんな時にはむしろ そんな瞬が、自分が人に迷惑をかけることは異様なまでに嫌いらしく――というより、瞬は自分が人に迷惑をかけることを恐れているようだった。 矛盾した話だが、瞬は、辰巳の言う“連帯責任”を恐れるがゆえに、非常に責任感の強い子供だったのだ。 おそらく瞬は、自分が他者に傷付けられてばかりきたから、人を傷付けることを極端に恐れる子供になったのだろう。 人に傷付けられた時に、相手を傷付け返すことで自分を守ろうとしない瞬が、氷河は好きだった。 |