インタフォンは来客があったことを氷河に知らせてこなかった。 当然、氷河は、ドアのロックを解除していなかったし、その来客に入室を許した覚えもない。 にもかかわらず、その来客は 確かに氷河の目の前にいたし、その姿は実在のもので、ホログラムの類でもないようだった。 つまり、彼――彼だろう――は、物理の法則を無視して、どこからともなく突然 氷河のマンションの一室に湧いて出たのである。 どうせ湧いて出るなら、温泉か軟水の泉の方がよかったのに――と、氷河は声には出さずに思ったのである。 そう思ってから、すぐに、温泉よりは やはり 30階建てのマンションのベッドルームに温泉があっても始末に困るだけだが、綺麗な人間なら使い道もあるだろう。 そう、氷河は考えたのである。 つまり、物理の法則を無視して、突然氷河の目の前に現われたのは 綺麗な人間だった――少なくとも、人間の姿をしたものだった。 氷河よりは幾つか年下の、おそらく まだ10代。 少年とも少女ともつかない無性的な印象の肌、髪、瞳。 ウィリアム・ブグローあたりが狂喜して天使のモデルに使いたがりそうな姿をしていた。 その天使が、勝手に他人の部屋に入り込んだことへの謝罪や説明はおろか、『おはよう』の一言も言わずに、目覚めたばかりの氷河をじっと見詰めてくる。 ベッドのサイドテーブルに置いた腕時計を横目に見ると、時刻は既に11時過ぎ。 氷河は、とりあえず、その天使が『おはよう』を言わなかったことに関しては、納得したのである。 この時刻では、言うとしても『こんにちは』であるべきだろうと、そんなふうに。 もっとも、その天使は、氷河に『こんにちは』を言うこともしなかったのだが。 『こんにちは』の代わりに、その天使が口にしたのは、 「氷河。驚かないでください。あなたは 1ヶ月後に死ぬことになりました」 という言葉。 声も無性的だった。 というより、騒がしくもなければ甲高くもない子供の声だった。 「……俺の名を知っているところを見ると、部屋を間違えたわけではなさそうだな。おまえは医者か。それとも死神か」 一方は、人間の命を永らえようとする者。 もう一方は、人間の命を終わらせる者。 違う役目を負った者たちであるのに、その二者は同じ特性――つまりは、通性――を有している。 しかし、その二者のイメージと、今 氷河の目の前にいる少年――少年だろう――の間には、どんな共通項も存在していないように、氷河には思われた。 何といっても、医者や死神が ここまで美しいものである必要はないだろう。 彼――彼なのか?――は、野に咲く白百合のように可憐で美しい姿をしていた。 ただし、その白百合には雄しべと雌しべがない。 無性の花は、その花びらを微風に揺らす風情で、氷河の質問に答えてきた。 「どちらかといえば後者に近い者ですが、厳密には、そのどちらでもありません」 「では、やはり天使か」 「それは完全に間違った推察です」 「天使でも死神でもないのなら、どうやって ここに入った。おまえが人間だというのなら、俺は住居不法侵入で、おまえを警察に突き出すことになる」 白百合の花が小首をかしげたのは、彼が人間だからなのか、人間でないものだからなのか。 彼が人間でも人間でなくても、その薔薇色の唇が『恋の翼の力を借りて』とでも答えてくれていたなら、氷河は警察に彼を突き出そうなどという野暮な考えを抱いたりはしなかっただろう。 むしろ、“恋”なら この不思議も自然なことと得心し、喜ぶことさえしていたかもしれない。 だが、あいにく その非天使はそんな嬉しいセリフを氷河に言ってはくれなかった。 代わりに、 「冥府の王に送り込まれました」 と、警察では決して受け入れてもらえないだろう入室方法を口にする。 警察よりは融通がきき、柔軟性に優れているつもりの氷河でも、さすがに その答えを素直に認め受け入れるわけにはいかなかった。 |