スパルタはアテナ殺害の好機を虎視眈々と狙っているわけではなく、議会の膠着によって その意思を決めかねているだけ。
宿舎にやってくるスパルタの女たちに、アテナへの害意はない。
とりあえず しばらくはアテナの身辺に危険は迫っていないことが確かめられると、シュンは、宿舎の中に閉じ込められたまま無為に過ごす時間に苛立ち始めた――というより、シュンは、無為に過ぎる時間が惜しくてならなかったのである。
もしかしたら、一生訪れることは叶わないかもしれないと思っていた故国。
せっかく恵まれた、この機会。
この故国でしたいこと、確かめたいことが、シュンには山ほどあったのである。

民会の意見を統御する力も持たない長老会の外出禁止の指示に従容として従い、いたずらに時を過ごすなどということは、無益、無意味、無意義にして不経済。
そんなことは、そもそも勤勉なシュンのしょうに合わなかった。
時間の無駄使いに耐えられなくなったシュンが、夜陰に紛れてスパルタの兵舎の一つに忍び込んだのは、彼が初めて故国の土を踏んだ日から数えて4日目の夜のことだった。

スパルタの兵士たちは、軍役を退くまでは、妻子を持つ者も夜には兵舎に戻らなければならない。
その規則は、スパルタの男たちにとっても女たちにとっても不幸なだけのものと、シュンは思っていた。
だが、家族よりも軍を優先する その規則には、兵士同士の結束を養うという効用の他に、もう一つの素晴らしい利点がある――と、シュンは その夜、考えを改めることになったのである。
つまり、わざわざ各家庭をまわらなくても、一つの兵舎に行くだけで、相当数のスパルタ兵の顔を一度に確認できるという利点が。

生まれ落ちてすぐに故国に見捨てられたシュンは、もちろん兄の顔を知らなかった。
しかし、血のつながった兄弟であれば、兄と自分との間にはどこか似たところがあるはずだと、シュンは思っていた。
逆に言えば、それだけが兄を探す手掛かり。
その 頼りない手掛かりにすがって、シュンは その夜、スパルタの都の中で最も大きな兵舎に忍び込んだのである。

スパルタの兵舎を囲む高い石塀は、シュンには何の障害にもならなかった。
その塀の内側に、おそらくは体練のための広い庭があり、その庭のあちこちに一定の間隔を置いて松明がともされている。
それぞれの火の側には夜番の兵が立っていたが、兵の大部分は建物の中にいるようだった。
1階中央に食堂と休憩室を兼ねているらしい大部屋があり、外から窺うと、そこには十数人の兵がいて葡萄酒を飲んでいた。
他の兵たちはそれぞれの寝所に入ったあとらしく、広い食堂の方形の卓のほとんどに兵は着いていない。
建物の造りと食堂の卓数から察するに、この兵舎には10〜20人が横になれる寝所が20〜30部屋はありそうだった。
各部屋を覗いてまわる時間はなく、そもそも既に灯りが消えている部屋が多い。

どうしたものかと考えあぐねた末に、シュンは、ここで一騒動を起こして、兵舎に散らばっているスパルタ兵たちを全員、灯りのついている食堂に集めてしまうことを思いついた。
それで万が一、我が身がスパルタ兵に捕らわれることになっても(もちろん、シュンは本当に彼等に捕まる気はなかったが)、徒手の子供一人のこと、退屈を持て余した上でのいたずらと言い逃れてしまえばいいではないかと――と。
そうして、シュンは、その考えを実行に移してしまったのである。

こそこそと、わざと怪しげに食堂の中を覗き込みながら、シュンは、いつもの自分であれば、こんな馬鹿げたやり方はしない――と、自嘲気味に思っていた。
肉親を求める自分の心は、こんな無謀も是としてしまうほど強いものだったのだと、初めてシュンは自覚したのである。
シュンが気配を消すのをやめるとすぐに、スパルタ兵の一人が侵入者に気付いてくれたため、シュンはそれ以上 自分の心を考察している余裕はなくなったのだが。

「なんだ、このチビは。我が軍に、こんな痩せっぽちの兵がいたのか」
身長はともかく、身体の横幅と厚みは確実にシュンの3倍以上ある巨漢の兵が、いかにも その場にそぐわない華奢な子供の腕を掴み、食堂の真ん中に引っ張っていく。
シュンの姿を認めた他の兵たちは、途端に爛々と目を輝かせ、口々に下卑た言葉では騒ぎ始めた。
「アテナの側にいた、あの美少女ではないか!」
「アテナイの間者か」
「いやいや。アテナイには強い男がいないのだろう。強い男を求めて、忍び込んできたに違いない」
「それはそれは、ご期待に沿うよう、たっぷり可愛がってやろう」

スパルタの兵たちが、シュンを無視して勝手に話を進めていく。
シュンの目論見通り、騒ぎを聞きつけた兵たちが続々と食堂に集まってきてくれたのは有難かったのだが、彼等が投げてくる野卑な言葉の数々が、シュンの心を傷付けた。
まだ見ぬ兄も、ここにいる俗悪な兵たちと同じような人間になってしまっていたらと思うと、シュンはそれだけで泣きたい気持ちになってしまったのである。
それは、決してあり得ないことではなかった。

女親から引き離されて育ち、求められるのは強い戦士であることと、強い子を作ることだけのスパルタの男たち。
自分の兄だけは高潔の士であるに違いないと思うことの方に無理があるのだ。
それでも、シュンは、兄だけは違うと思いたかった。
その思いが、下卑たスパルタ兵たちへの怒りを増幅する。
そうして、シュンは、胸の内に湧いてきた その怒りに負けて、自分の周囲に群れている男たちを大声で怒鳴りつけてしまったのだった。

「スパルタの男たちは、皆 理性のない獣ばかりか!」
「なにっ !? 」
「男を漁りにきた 浅ましい小娘が何を言う!」
「この小娘、今の自分の立場が全くわかっていないようだな。俺たちに何をされても文句が言えないことがわかっていない」
「その生意気な娘に、身の程を思い知らせてやれ!」
「アテナイの女にスパルタの男の子を孕ませてやるというのはどうだ。どんな子供が生まれるか、見ものだぞ」

シュンの怒声に言葉で対抗してくる男たちは まだ理性的な方だった。
自分が獣であることを証明するように、幾人かの男たちがシュンに飛びかかってくる。
シュンは、その男たちには速やかに意識を失ってもらったのだが、他に身を守る術がなかったにしても、それはまずい対応だった。
スパルタ兵たちの間に緊張が走る。
シュンの周囲でばたばたと仲間の兵が倒れていく様を見て、彼等は、シュンを手籠めにすべき女ではなく、倒すべき敵として認識を改めることになったらしい。
それまでは どちらかというと身体を弛緩させていた男たちが、その足と肩に力を溜め始める。
心身を戦闘態勢に移行させると、さすがに彼等はスパルタの男たちだった。

汚い言葉に挑発され 理性を失ったのは自分の方だったかと、シュンが臍を噛むことになったのである。
ちょうど、その時だった。
食堂の入口の方から、
「何の騒ぎだ」
という、騒がしい子供たちを たしなめる大人のような声が、室内に響いてきたのは。
シュンに集中していた兵たちの意識が、一瞬 新たな登場人物の方に逸れる。
その隙に、シュンは、食堂の壁際にあった兜を置くための棚に飛び移った。

「アテナイの刺客です!」
どうやらシュンは、強い男に飢えて敵国の兵舎に忍び込んだ淫奔な小娘 からアテナイの刺客へと、一足飛びに出世を遂げたらしい。
光栄ではあるが、それはシュンの望まない出世だった。
スパルタの兵舎に忍び込んだ小娘がアテナイの刺客ということにされてしまえば、その事実無根の事実はアテナの立場を悪くしてしまうのだ。

「アテナイの刺客?」
スパルタ兵たちが脇に寄ることでできた道を通って、一人の若い男が食堂の中央にやってくる。
兵たちの頭より高い棚の上にいるシュンを見て、彼は呆れたような声をあげた。
「梯子も縄もないのに、どうやって あんな高いところに登ったんだ」
「さっきから、ヘビかリスのように するする動きまわって、掴まえられずにいるんです」
「ヘビとリスでは動きが違いすぎるぞ。どっちなんだ」
答えを期待していない、おそらくは、敵の動きの特徴を正確に把握していない兵への、ただの揶揄。
野卑な兵たちに へりくだった態度で迎えられた その男は、どうやら彼等の指揮監督の権を持った者であるらしい。
とはいえ、彼は、シュンの目に、その場にいる誰よりも若く見えた。
スパルタでは初めて見る金髪の持ち主である。

自分より年長で凶暴そうな兵たちを揶揄することもできる その男は、シュンを少女と見間違う目の悪さは他の兵たちと同じだったが、女性に対する礼儀を心得ている点で、他の兵たちとは異なっていた。
「迷い込んできたんだろう。こんな可愛い刺客があるものか。女に乱暴はするな」
「迷い込んできたも何も、実際にあの小娘にやられた奴が何人も出てるんです」
「乱暴しようとするから、しばらく眠ってもらっただけです!」
もしかしたら、アテナに迷惑をかけることなく、この場を収めることができるかもしれない――。
その期待に心を動かされて、シュンが スパルタ兵たちの頭の上から弁明を試みる。

金髪の男は、食堂に群れている兵たちの足元に数人の男が、仰向けなら ともかく、うつ伏せに倒れている様を見て、あからさまに眉をひそめた。
「情けない」
低く呟いてから、彼は、シュンが期待していた通りの命令を、彼の部下たち(?)に下してくれた。
「このことは口外するな。スパルタ兵の中でも屈強を誇る五百人部隊の兵が何人も、たった一人の少女にいいようにあしらわれたなどという噂がたったら、我が軍の名誉に傷がつくし、スパルタ全軍の士気にかかわる」

彼の命令は絶対のものであるらしく――あるいは、スパルタの男たちも恥は知っていたのか――彼の命令に異議を唱える者は その場に一人もいなかった。
安堵の息を洩らしたシュンは、だが、彼が続けて口にした、
「宿舎に送っていこう。おりてこい」
という言葉には、迂闊に従えなかったのである。
彼がシュンの方に差しのべた腕は、どう見ても鍛え抜かれたスパルタの戦士のそれで、アテナイの小娘・・には、やはり油断のならないものだったのだ。
ここで彼の手を借りたら、途端に自分はスパルタ軍の捕虜にされてしまう。
その予感が、シュンに、彼の言葉に従うことをさせなかった。

「あなた……他の兵たちと違って、強そう……」
シュンの ためらいの理由を聞いた金髪の青年が、口許を僅かに歪めて笑みを作る。
彼は、謙遜の心がないわけではないのだろうが、それ以上に自負心の強い男であるらしく、シュンの言を否定しようとはしなかった。
あるいは、それは、誰もが認める 単なる事実だったのかもしれない。

「だから、年上のこいつらに大きな口を叩けるんだ。だが、はるばるスパルタまできてくれた可愛らしい客人に見境なく襲いかかるような節操なしではないぞ。スパルタでは強い男は引く手あまたで、俺は女には不自由していない」
「あなたが女性に好かれるのは、きっと腕力のせいじゃない」
「この美貌のせいか?」
シュンが くすくすと忍び笑いを洩らすことになったのは、彼が冗談のつもりで言ったらしい その言葉が、全く冗談になっていなかったからだった。
つまり、彼は、本当に素晴らしい美貌の持ち主だったのだ。

「それもあるでしょうけど、女性は、基本的に優しい人が好きだから。女性は、対峙する男が 自分を一人の人間として見てくれている人かどうかを すぐに見抜きます。特にこのスパルタの女性はそうなんじゃないかな」
「女を軽んじる男の気が知れないな。自分も女の腹から生まれたのに」
「その通りです」
この人なら、どんなに強くても大丈夫――シュンが そう信じるに至ったのは、強さが第一義のスパルタで、彼が女性を侮っていない男であることがわかったからだった。
高い避難所から、ひらりと彼の前に飛びおりる。

「僕も女性は尊敬しています」
その言葉を、シュンは、金髪の救い主の顔を下から見上げて告げた。
発言のせいか、シュンの姿を至近距離で確認できたからか、シュンの救い主が青い目をみはって、
「おまえ、男か」
と、小声で尋ねてくる。
「はい」
シュンは、声をひそめずに、彼の疑念を(?)晴らしてやった。
シュンの救い主が、大きく長い息を吐き、それから気を取り直したように苦笑する。
「それはよかった。おまえに倒された者たちの面目も少しは立つだろう」
「それはどうか」

言って、シュンは、自分の右の腕を、その場にいた兵たちに見せつけるように、前方に指し出してみせたのである。
それは、強さより美しさに高い価値を置くアテナイにおいてさえ、『女より白くて細い』と からかわれることの多い腕。
からかわれるたびに腹を立て、最近ではすっかり開き直ってしまった自慢の(?)細腕だった。

「性別で差別するのも、見かけで侮るのもやめた方がいいですよ」
シュンは、自分を窮状から救ってくれた人にではなく、その場にいる他の兵たちに向かって言ったのだが、シュンに、
「胆に銘じよう」
と答えてきたのは、おそらく そこにいる男たちの中で最も強いのだろう金髪の青年で、立つ瀬のない他の兵たちは ひたすら沈黙を守り続けていた。






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