「すみません。騒ぎを起こすつもりはなかったの」
金髪の救い主と共に兵舎の建物を出たシュンは、真っ先に彼に謝罪した。
謝罪の言葉を告げてから、自分が嘘をついてしまったことに気付き、急いで、「最初は」という一言を追加する。
シュンの正直に感じ入ったのか、彼はシュンが起こした騒ぎを責めることはしなかった。

石の敷かれた道なりに並ぶ幾つもの兵舎が 掲げている松明のせいで、夜にもかかわらず、通りは真の闇に覆われてはいなかった。
月も明るい夜だったので、二人は灯りを持たずに並んで道を歩き出したのである。

「ところで、おまえは本当にアテナイの刺客なのか」
ふいに彼に、あまりにも今更なことを尋ねられ、シュンは目を丸くすることになった。
どうやら彼は、シュンがアテナイの刺客でも、そんなものはいなかったことにする腹でいたらしい。
だから彼は、そうしようと思えばシュンを捕えることもできるのに、シュンをこうして宿舎にまで送り届けようとしてくれているらしかった。
うまく使えばアテナイとの開戦の口実にもできるシュンを捕えようとしない彼は、スパルタの女たちが言っていた反戦派の一人――ということなのだろう。
シュンは、彼にアテナイを敵と思ってほしくないと思った。

「僕がアテナイの刺客なら、もっとちゃんと下調べをして、狙う相手を決めてから行動を起こします。多分、あなたを狙ったんじゃないかな。あの兵舎にいた他の兵たちの命を奪っても、あまり意味はなさそうだから」
「それもそうだ。では、なぜ こんな無茶をした」
重ねて問われたことに答えるのを、シュンは一瞬ためらったのである。
とはいっても、シュンが返答をためらったのは、彼が“無茶”をした理由の内容そのもののせいではなく、シュンが今夜味わった失望と不安のせいだったが。

「スパルタにいるはずの兄を捜しているんです。僕より、7、8歳年上で、多分、どこかの兵舎にいるだろうと思って、この都でいちばん大きな兵舎に忍び込んだの。でも……」
顔も知らぬ兄を、すぐに見付けられると思っていたわけではない。
ただ、シュンが目の当たりにしたスパルタ兵たちの行状は、シュンの中に『もしかしたら兄とは再会できないままでいた方がいいのかもしれない』という思いを生じさせるものだったのだ。
「でも、もし、兄もあんな人たちと同じだったら、僕……」
そんなシュンの不安を打ち消してくれたのは、シュンを窮状から救い出してくれた“敵国”の兵の一人だった。

「いないだろう。おまえの兄と言われて納得できるような美しい男は あそこにはいない。スパルタ中を捜してもいないと思うぞ。まあ、スパルタには、男の外見が美しいと、それだけで侮られる風潮があって、そのせいで わざと顔を傷付けるような者もいるにはいるが」
「え……」
美しさに価値を置くか、強さに価値を置くか――。
アテナイとスパルタの気風が違うことは知っていたが、それは『価値観の相違』の一言で片付けられることではない。
『強さにこそ最も価値がある』という考えは、シュンにも理解することはできたが、だからといって、美しさの価値を否定することに どんな意味があるというのだろう。
シュンは初めて、心底から、スパルタの男たちを理解できない存在だと思った。

それがスパルタの男たちの一般的な価値観で、標準的な気風だというのなら、今 自分と並んで夜の道を歩いている青年は、この国では かなりの異端者ということになる。
道の両脇に掲げられた松明の作る灯りと月の光が不思議な陰影をつけている同道者の顔を、シュンは改めて まじまじと見上げ見詰めることになったのだった。
「あなたはとても美しいです。いいんですか、そんな綺麗な お顔をしていて」
「母から貰った身体を自分で傷付けるようなことはしたくない」
「あ……」

アテナの許にやってくるスパルタの女性たちが、スパルタ人である以前に母であり女であること、そして、母であり女である者がスパルタ人であることの悲痛を、シュンは今では承知していた。
だから、シュンは、彼のその言葉を聞いて、既に彼に抱いていた好意を更に一気に強くしたのである。
「……あなたのお母様だったら、とても美しい方なんでしょうね」
「当然だ。スパルタでも一、二を争う美女と言われていたそうだ」
自慢げに告げる その言葉が、だが、過去形。
悪いことを言ってしまったのかと不安になったシュンが その顔を俯かせた時、二人は目的の建物の前に着いていた。

門の前で見張りに立っていたスパルタ兵が、シュンの連れの姿を見て 驚いたように瞳を見開く。
この建物の外にいるはずのない者がスパルタの兵と連れ立って帰ってきた――にもかかわらず、見張りの兵が何も言わないところを見ると、彼はスパルタ軍の内では相当強い戦士として知れ渡っているのだろう。
それはそうだろうと、シュンはごく自然に得心した。
門前で歩みを止め、彼に正面から向き直る。
それから、シュンは、彼にぺこりと頭を下げた。

「あなたに会えたおかげで、スパルタの男は皆 獣並みの脳しか持たないという考えを持たずに済みました。ありがとうございます」
「俺も、身体の鍛え方には色々な方向性があることを知ることができたのは幸いだった。敵の姿が華奢で可愛らしくても油断はするなという教訓も得ることができたな。おまえの名は」
「シュン」
「俺はヒョウガだ。もう、こんな無茶はするなよ」
「そうお約束できたらいいのですけど……」

確約できないことを無責任に約束するわけにはいかない。
シュンが言葉を濁らせると、ヒョウガは その端正な貌を困ったような苦笑で歪ませた。
「おまえが誠意のある人間だということは、よくわかった」
「わかっていただけて、とても嬉しいです」
素直な笑顔で そう答えたシュンの前で、ヒョウガが、今度は声をあげて笑い出す。
二人の横で、見張りの兵が、見てはならぬものを見てしまった窃視症患者のように顔を強張らせていた。






【next】